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嗚呼、愛しの北京飯店  作者: 稲田心楽
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最終回

 

 目の前に中華丼が置かれた。いつぶりだろうか──野菜が色鮮やかに餡をまとっている。豚バラ肉も半端ない量が入っている。私は早速レンゲで掬って食べた。



『……』



 言葉にならない。久々というのもあるかもしれないが、震えるほど美味い。毎日食べていた時期もあったが、その頃と比べても美味く感じる。



「はい、スープね」


「ありがとうございます」



 いつもの北京飯店のスープ。ワカメと青ネギの小口切りだけのシンプルな中華スープ。胡椒が効いたあっさり味だが、このスープも毎日飲んでもきっと飽きないだろう。そして、餡に溶け込んでいる卵とじがまた美味い。私は、子供のようにガツガツと食べた。



「今日はね、テツは休みなんだよ。申し訳ないね」



 大将から初めて話しかけられた。嬉しくて天にも昇るような感覚である。



「そっそうなんですね。遅めの夏休みですか?」


「1日だけだけど。蕎麦が忙しくて厨房をテツに任せっきりだったし」


「お蕎麦、人気ですもんね。私も食べましたが、本当に美味しかったですし」


「ありがとう。近くにお店出すから、また寄ってね」


「もちろんです。どのあたりですか?」


「店といっても、自宅の横に小さな空き地があってね。そこでお店を構えようかなと」



 今がチャンスだと思った。だが、言葉が出てこない。言ってしまうと、もう戻れないからだ。何度も自問自答して出した結論だったが、土壇場で気持ちがブレてしまったのだろうか──。劇的に人生が変わるのは明白で、その衝撃に耐えられるのだろうか──。マイナス思考の渦の中に引きずり込まれそうになった。



「いつもありがとうね。こんな古い店に足を運んでもらって」


「いっいや……」


「もっと洒落たものを出せるといいんだけど。ワンパターンでごめんね」



 とてつもなく大きなハンマーで後頭部を殴られた感じがした。その瞬間、勝手に涙が溢れて止まらなくなってしまった。



「どっどうしたの? 大丈夫かい?」


「だっ大丈夫です」



 私もいい大人だ。年齢からしてもおじさんの域である。とりあえず消毒液の横に置かれているテイッシュで涙を拭き、大将に思いを告げた。



「大将、すいません。わっ、私を弟子にしてくれませんか?」


「うん。いいよ。この店? 出来れば蕎麦の方だと助かる」


「ええっと、はい。大丈夫です。そのつもりでしたから」


「そうなの? じゃあ、今週の日曜日にこの店に来てくれる?」


「はい。日曜日ですね」


「うちの建設予定地に案内するよ。自宅の横だけど」


「はいっ! ありがとうございます」


「蕎麦は好き?」


「大将の料理の全てが好きです。蕎麦はもう感動するぐらい美味かったですから」


「ありがとうね。『修業は厳しいよ』と言いたいけど、楽しくやろうよ。料理は楽しく!」



 あっさりすぎて拍子抜けしてしまった。五分ほどの会話だったが、まるでフカフカの絨毯のような人柄である。これまでに味わった事のない安心感は、大将の懐の深さの為せる技だろう。この人の下で学びたいと心の奥底から改めて思った。



「じゃあ、日曜日の昼過ぎにね」


「はい。ありがとうございました」



 私は中華丼のお代金700円を払い、店を後にした。





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