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嗚呼、愛しの北京飯店  作者: 稲田心楽
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大将の中華丼

 

 9月も中頃になると、明らかに空気が変わる。早朝から蒸せるような暑さは和らぎ、少しひんやりとした風が頬を滑る。私はこの秋という季節にとても思い入れがある。人生のターニングポイントとやらが今まで数回あったと記憶しているが、全てこの秋という季節だった。



 今の仕事に何の不満もない。コロナ禍で仕事を失った方も沢山いる。仕事があるだけでも恵まれた人生だといつも思う。だが、ふつふつと湧き上がる得体の知れた感情を抑える事が出来ないのだ。だが、それを決行する事は容易い事ではない。今までで一番と言っていいぐらいの決断だろうと思う。



 現状維持は退化の始まり──あるスポーツ選手がTVで言っていたが、そんな大層な事でもない。ただ、“喜び”を知っただけなのだ。物欲であるとか、性欲の類いのものではない。



 それを追い求めたい──シンプルにそれだけなのだ。いい歳をして何を言っているんだと思われるかもしれないが、生まれてはじめて挑戦したいと思ったのだ。マグマのような熱い思いと言うより、陽だまりのようなそんな優しく温かい“願い”に似たものだ。



「いらっしゃい!」




 いつもの時間に北京飯店に来た。年季の入った扇風機は見当たらない。もうそれが必要なほど暑くもない。



「何しましょ?」



 店内を見渡したが、テツ君の姿がない。



 休みだろうか──いや、今までに彼がいなかった事は一度もない。あったかもしれないが、記憶にない。少し心配ではある──。



 厨房には、黒いバンダナを巻いている大将が、お手拭きとお水を出してくれた。



「すいません。もうちょっと……」


「はいよ」



 小学生の頃、学校を一度も休んだ事のないクラスメイトを思い出した。



 彼は今何をしているんだろう──何故、彼の事を思い出したのかは分からないが、あの頃、彼が一度でも学校を休んだとしたら、今と同じような気持ちになっていたかもしれない。



 私は気を取り直して、メニュー表を見た。目で追っていたが、心の中では決まっていた。



 中華丼にしよう──この店の大ファンになったきっかけは、この中華丼である。そう言えば、テツ君の作る中華丼を一度も注文していなかった。今日は、久々に大将の作る中華丼で舌鼓を打とう。



「すいません。中華丼を」


「はいよ!」



 厨房には大将しかいない。テツ君が厨房を任されるようになってそんなに月日は経っていないけど、とても懐かしく思えた。中華鍋に油を馴染ませる姿であったり、調味料をおたまの淵に付けて中華鍋を振る姿であったり、ずっと見ていられるぐらいだ。



「お客さん、ひじき食べられる?」



 心臓がドクンと鳴った。大将から初めて話しかけられた。しかも、サービスで出してくれるような言い方だ。



「はっはい!」


「それじゃ、これ食べて」





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