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嗚呼、愛しの北京飯店  作者: 稲田心楽
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3

 

 あっという間に小鉢の揚げ出し豆腐を平らげてしまった。お酒を飲みたいところだが、今はまだ我慢である。



「ビールとか最高だろうね」


「そうね。後で家で飲みましょう」


「そうだね」



 麦わら帽子を取った彼女は、ずっと頭を触っている。



「ぺしゃんこになってない?」


「うん。なってないと思うけど」


「ほんとに?」


「うん。いつも通りだけど」


「なら良かった」



 またイケメンの彼らを意識しているのかと思ったが、どうやら違うみたいだ。



「せっかく会ったのにかっこ悪いなって。ぺしゃんこだと」


「いやいや、全然大丈夫。」



 肩に付かない程度の黒い髪を、耳にかける仕草に胸が高鳴った。



「今日は大変だったね」


「うん。でも全然平気そうで安心したわ」



 今日は彼女と昼から会う予定だったが、ひとり暮らしの彼女のお母さんが、階段から足を踏み外して怪我をしたらしく、様子を見に行っていた。



「おいくつだっけ?」


「来年75歳よ。捻挫程度で安心したわ」


「そうだよね。骨折とかだと大変だし」


「ほんとに。そのまま寝たきりの話しとか聞いた事があるから心配だったの」


「捻挫程度でよかったよ」


「ごめんね。せっかくお昼から会えると思っていたのに」


「いやいや、全然。何か出来る事あったら何でも言って」


「ありがとう」



 彼女のお母さんは、彼女の生まれた街にまだ住んでいるらしい。三姉妹の長女である彼女が一番頼りになるらしく、何かあれば真っ先に連絡が来るそうだ。



「次女がね、一番近くに住んでいるんだけど……」



 三女は他県の嫁いで行っみたいだが、次女は目と鼻の先、つまり同じ町内に住んでいるらしい。



「仲悪いの?」


「わだかまりというか、色々あってね」



 彼女は言葉を濁していた。話せば長くなるからと続きは聞けなかったが、どうやらそんな軽い話しではなさそうだ。



「お待ちどうさま。クラゲの酢の物です」


「ありがとうございます」



 カウンターの向こうの大将が、黒に金縁の丸い器出してくれた。



「美味そう」



 クラゲの酢の物──きゅうりの緑が鮮やかである。いりごまがふられていて、浅いその器がとても高級感を醸し出している。



 彼女が、取り皿にクラゲの酢の物を入れてくれた。



「ありがとう」


「いただきましょうか」



 プルプルとしたクラゲがとても美味しそうだ。



「美味いっ!」


「何これっ! 食べた事がないぐらいコリコリよね」



 弾力というか、肉厚が凄いクラゲである。クラゲの味自体はよく分からないが、しっかりお酢と胡麻油が染みている。



「何か、凄くフルーティーな味よね。癖になるわ」


「確かに。何か食べた事あるような」


「分からないわ。簡単に分かってしまっては逆に駄目だもんね」



 彼女の言う通りだ。この上海楼は超人気店である。味も技も全て特級品で、素人の我々では分かるはずもない。




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