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牛丼と卵とじスープ──北京飯店の牛丼は、牛肉、筍、人参、青ネギを炒めて、最後に鶏ガラスープと焼き肉のタレを加えて片栗粉でとじる中華風であった。ありそうでなかったタイプの牛丼だ。そして、スープはご飯ものに付いてくる小さい器のスープかと思っていたが、ラーメン鉢よりやや小さめの器に並々とスープが入っていた。表面は青ネギのみじん切りで覆われていて、レンゲで掘り下げないと卵に到達しない。初見だと、ネギ大盛りラーメンにしか見えないほどだ。
私は、焼肉のタレの餡をたっぷりと纏った牛肉をレンゲで掬って食べた。
『美味っ! これ嫌いな人いないだろっ!』
焼肉のタレはとても分かりやすい味だが、あくまでもベースであって、北京飯店の豊かな味わいが感じとれる。野菜の旨味と牛肉の旨味、そして鶏ガラスープ、“豆板醤”であろうか──ピリ辛感もあってこの夏を乗り切る為のスタミナをこの一杯で補えそうなほどガツンとくる味だ。
あまりにも美味しすぎて、これがテツ君の厨房一人デビュー作である事を忘れてしまっていた。大将の牛丼を食べた事がないから比べようがないが、いつもの感動をちゃんと与えてくれた。何度も食べている中華丼なら違いに気付ける自信はある。だが、間違い探しをする会でもなんでもない。自称常連さんの私が言うんだから間違いない。彼は一流の料理人だ。
レンゲを止める事が出来なくなっていたが、ここでスープを一口飲んでクリアにしようと思った。私は、ネギまみれのスープをレンゲで掬って飲んだ。というより、食べるスープと言ったところか──。
『うっ美味すぎだろ……』
ベースはいつものあっさりスープだが、卵の風味がとてもまろやかで美味しい。ネギの量も多すぎるんじゃないかと思ったが、スープの熱でクタっとなり、丁度良い感じだ。これは全て計算ずくなのだろうか──。素晴らしいとしか言いようがない。これで、750円は本当に馬鹿だと思う。
「テツよ、その調子だぞ」
「あっありがとうございます」
奥から大将が顔をのぞかせていた。
「あとな、宅配サービスの段取りを頼めるか?」
「いいんですかっ!」
「お前の成長の妨げになるし、今と昔じゃ時代も変わった。そして、このご時世だろ?」
確かにその通りだ。コロナ禍でお店に来店されるお客が減り、時短要請で売り上げも激減だろう。私が心配する事ではないが、もし北京飯店が店じまいになった場合は、人生における喜びの半分は持っていかれてしまう。死活問題まではいかないが、喪失感は半端ないだろう。
「分かりました。早急に手配します。大将に好きな蕎麦を打ってもらいたいし」
「頼むぞ。この店はお前に任せて蕎麦屋をやるのが最後の夢なんだからな」
「えっ! がっ、頑張りますっ!」
何だか凄い話しを聞いてしまった。暖簾分けではなく、この店を譲ろうと思っている大将の発言にびっくりした。当人はその何倍も驚いたであろう。もしも自分なら、尊敬している大将の魂とも言える店を譲ってくれるなんて言われたら、天にも昇る気持ちになるだろう。だが、テツ君はそんな感じには見えなかった。より一層目に力が宿ったというか、大将とはまた違ったオーラを感じた。こんな素敵な日に立ち会えた事に感謝だ。ほぼ毎日通った甲斐があったというものだ──。




