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嗚呼、愛しの北京飯店  作者: 稲田心楽
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「はいよ。大森さん、ラーメンと餃子ね。ちょっと忙しくて時間かかると思う」



 電話の応対は大将が行い、電話を切って奥へと消えていった。私の席からでは見えない窪みがあり、そこで蕎麦の作業をしているんだろうと推測した。蕎麦打ちを見学した事があるが、あれは若者でも根を上げるほどの重労働だろう。経験した事はないが、見ているだけで体力が消耗したような気がした。いや、ここは町中華である。蕎麦とか全く関係ないし、注文した牛丼もはっきり言って町中華メニューではない。お客さんの要望に応え続ける大将の心意気は嬉しいが、テツ君と同じで大将の身体が心配だ。



「お客さん、スープはワカメと卵とじとありますがいかがしますか?」



 牛丼を注文しただけなのにスープが付いてくる。基本的に北京はスープ付きである。



「卵とじでお願いします」


「はいよっ!」



 いつものテツ君の『はいよっ!』より勇ましく感じた。厨房に一人で任された責任感からだろうか、とても頼もしく見えた。“地位が人を育てる”と言うが、基準値に達していない実力の若者を神聖なる厨房に行かせたりしないはずだ。“機は熟した”と大将が判断したんだろう。あたかも関係者のような物言いであるが、全くの部外者である。勝手に想像して楽しんでいる自称常連の男。



 店内にとても馴染みのある香りが鼻腔を刺激した。これは焼肉のタレの匂いだ。大人も子供もこの香りが嫌いな人は少ないだろう。最近では焼肉としてこのタレを使った記憶がない。余り野菜を塩胡椒で炒めて、この焼肉のタレを付けて食べたりする。どの家庭にも必ずあるであろう焼肉のタレ。あとは目玉焼きにかけたり、炊きたてご飯にかけたりして食べている。極論を言うと、大概何でも合う気がする。それぐらい優秀なこの焼肉のタレが、牛丼のベースの味として提供される事に心が踊った。それはまるで、子供の頃に『今日は焼肉食べに行くぞ!』と両親に言われた時のテンションに似ていた。



「はいよっ! お待ちどう様。牛丼と卵とじスープです」


「ありがとうございます」



 テツ君が誇らしげに私の前にそれらを置いてくれた。赤いバンダナがとても似合っていって、大将と同じように首から黒のハンドタオル掛けている。ひょっとすると、テツ君の厨房一人デビュー最初のお客さんが私ではないのか──。そう思ったら、胸が熱くなった。心して食べなければ。

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