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嗚呼、愛しの北京飯店  作者: 稲田心楽
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3

 

 この冷やし中華、メインは当然麺のはずだ。食欲の落ちる夏場に、酸味の効いたタレに絡めてすする卵麺の風味とのど越し。夏バテに丁度いいメニューと思っていたが、それも少し考えを変えないといけない。この盛りに盛られた具材は、もはやおかずである。ライスを注文して、がっつり食べた後に、締めとしてマヨネーズと辛子を混ぜて麺をすすりたい。それぐらい具のボリュームがある。



「お腹いっぱいになるわね。冷やし中華で」


「ここは本当に凝った料理出すから」


「おいおい、散々汚いとか言ってたのによ」


「それは、愛よ。愛するが故によ」


「分かりにくいんだよ」



 ご婦人と大将のやりとりが面白くてついつい聞き入ってしまう。私もあんな風にテツ君や大将と話してみたいが、なかなか難しい。“常連度”という物差しが仮にあったとしたら、割と上位にランクインしている自信はあるが、まだ一言も声を掛けてもらえないのが現実だ。



「本当美味しいわ。とくにこのタレよね。レシピ教えてよ」


「馬鹿言っちゃいけないよ。門外不出だ」


「テツ君、教えてよ」


「いやいや、教えられないす」


「うちに味は門外不出」


「昭和よね。そういうの」


「昭和はお互い様だろうが」



『私も昭和生まれです』と強引に会話に入っていけたらどれほど良いか──。いや、出来ない事を考えるのはストレスだ。目の前の冷やし中華に集中しよう。とりあえず、食べた事はあるけどいつだったか忘れてしまったぐらい前であろう細く切られたクラゲを食べよう。



『美味いっ!』



 コリコリとした独特の食感が堪らない。そして胡瓜で口の中をさっぱりさせた後、メインである麺をすすった。



『ダメだ。ご婦人の言うようにタレが美味すぎる。これは反則だよ』



 卵麺との相性が抜群である。正直、マヨネーズはこの酸味の効いた切れ味抜群のタレをぼかしてしまうんじゃないかと思ったので混ぜない事にした。私は、辛子をひとつまみして麺の上に乗せて食べた。



『うんうん。このツンとくる感じが堪らないな』



 この辛子は不思議な薬味だ。全くタレの良さを崩さないし、それ何処か引き立ててしまう訳だから。おでんもそうだけど、一体誰が最初に付けて食べたのか知りたいぐらいだ。その人は間違いなくフードマスターだろう。



「美味しかったわ」


「本当に。あら、大将、お蕎麦なんてあるの?」


「今年からね。次注文してみてよ」


「分かったわ。私、お蕎麦もかなりうるさいのよ」



 大将のお蕎麦について教えてあげたかった。とてつもい戦闘力である事を。おそらく、目を丸くするだろう。駅前の人気蕎麦屋を凌駕するお蕎麦に。



「お会計お願い」


「はいよ。1300円ね」



 思わず吐き出しそうになった。これだけの具沢山冷やし中華が650円である事をすっかり忘れていた。あり得ないコスパである。どれもこれも一体どうなっているんだと言いたい。



「安いわね。美味しいし」


「本当に。後はお店の外見だけね」


「やかましい。200円のおつりね」



 私は、北京飯店の外見も大好きだ。昭和ノスタルジーな感じがとても良い。そして、食べ始めると夢中になりすぎて、中盤あたりはほとんど覚えていないというメニュー達。もちろん、美味いという事は常に感じながらではあるが。今回の冷やし中華も、気づいたら全て食べ終わっていた。一瞬の出来事であった。ありがとう北京飯店。650円で味わえる至福の時間に感謝しかない。



 次は麻婆丼を食べよう。暑い日の麻婆丼。楽しみである。




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