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嗚呼、愛しの北京飯店  作者: 稲田心楽
25/88

鶏の辛子炒めとライス

 

「いらっしゃいっ!」



 いつもの時間、いつもの席に座った。どうやら今日も一番乗りのようだ。



「何しましょう?」



 弟子のテツ君がお水を持ってきてくれた。いつも通りのルーティン。本当に落ち着く空間だ。私は、何を注文するか決まっているが、メニュー表を手に取り迷っているふりをした。



「お決まりになられましたら、お声掛けてください」


「いっいや、決まりました。鶏の辛子炒めとライスで」


「分かりました。辛子ですっ!」


「はいよっ!」



 私はもう一度メニュー表を見た。テツ君が、端折って『辛子』と言ったからだ。確認した結果、鶏の辛子炒め意外に辛子を使ったメニューはなかった。



 そもそも、辛子炒めって一体何だろう──韓国料理のような、赤い唐辛子をふんだんに使った炒めものだろうか──私は、辛いものが得意ではない。舌が痺れて、味がしなくなるから辛い料理は好きではない。だが、全メニュー制覇という目標を掲げた以上は達成しないといけない変なこだわりが発動中だ。



「テツ、とりあえず貼っておいてくれ」


「はいよ」



 感染症対策の為、入り口の扉は空いている。テツ君は外に出て、セロテープで何かを貼り付けていた。



「店内も頼む」


「はいよ」



 壁の空いているスペースに、何が書かれているか分からないが貼り付けている。まだ何かはテツ君で見えない。おそらくあれだろうというのはあるが、ひょっとしたら新メニューかもしれない。



「終わりました。西田さん家にいきなり出前の注文きてます」


「そうか。何処で情報得てんだろう。一言も言ってないのに」



 予想通り、“冷やし中華始めました”の貼り紙だった。涼しげな感じを出したいのか分からないが、水色の紙に書かれてある。そして、下の方に申し訳なさげに表記されている。



『ざる蕎麦も始めました』



 私は笑い声を押し殺す為、全力で俯いた。何故、ざる蕎麦を始めるのか分からない。冷やし中華は絶対にやならないといけないが、ざる蕎麦は必要ないと言うか、畑違いではないのか──。



「ざる蕎麦か?」


「いや、冷やし中華です」


「そうだよな。ざる蕎麦だったらちょっと引いてたよ。誰にも言ってないんだから」


「大将、かなり蕎麦打ちに時間注いでらっしゃったから」



 どうやら、本格的な手打ちのようだ。今日から始めるらしい。しかし、本業の中華でもかなり手が込んでいるように感じるのに、その上、手打ちの蕎麦を提供するって何処にそんな仕込みの時間があるんだろうか──。




 私は少し後悔している。なぜ、貼り紙を見るまで注文を待てなかったのか。何故、鶏も辛子炒めという変化球にしたんだろうか。いや、ざる蕎麦も変化球である。もう誰も捕球出来ないほどだ。



「テツ、出前の電話で最後にざる蕎麦の事を付け加えろ」


「はい。宣伝ですね。しかし、大将よほどの自信があるんですね。ざる蕎麦に」


「こんなに勉強したの初めてだよ。中華は直ぐに出来たけど」



 テツ君が苦笑いをしているように見えた。しかし、このクラスの中華を直ぐに出来たという大将の言葉が信じられない。直ぐに出来るレベルではない気がするが、そんな大将をもってしても、蕎麦打ちは相当ハードルが高いという事なんだろうか。



「はいよ。辛子炒めとライスね」



 ざる蕎麦を無性に食べてみたいが、それは次回のお楽しみにしよう。






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