第一章-1 始まりの物語
春めく日和の昼下がり。東国エスティマの外れに位置する小さな村「カルトダ」にある郵便屋の一人息子であるゼン・オースティンは、日常に倣い配達作業を行っていた。たくさんの便りを届ける村ごとに仕分けして、隣村への分を鞄に詰め壁にかけてあったコートを羽織る。父から授かったお下がりの郵便帽を被り、家を飛び出した。
隣村へはおよそ半日かかる。これだけ田舎とあっては村と村の間はかなり開いているのだ。牛車をひき山道へと差し掛かると、両脇は森に囲まれる。奥深くには獰猛な獣の類が生息しているとも言われる森には決して近づくべきでないということは、幼い頃から教えこまれた常識であった。
幾分か牛車を進めると、左脇の森の中から何かが勢いよく飛び出してきた。驚いて汗の滲む手で手綱を引っ張り、牛車はがたんと向きを変える。止まった牛車の中でふうとひと息ついて、額に滲んだ汗を拭った。思い出したように飛び降り牛車の脇を見ると、そこには先程飛び込んできたであろう少女が座り込んでいた。
「えっと……あの、大丈夫ですか?」
恐る恐る声をかけると、少女は徐に顔を上げた。身に纏った真っ白なローブのせいで気が付かなかったが、少女の髪は深い紅に染められている。これほどまでに美しい赤髪を、ゼンは今までに見たことがあったか。思わず見入ってしまうような長い髪を揺らし、少女は口を開いた。
「…………たすけ、て!」
少女は我を忘れたような必死の目でゼンに訴えかける。ゼンの腕を掴んで、助けて、と何度も繰り返す少女の額には汗が滲んでいた。
「ちょっと待って、一回落ち着いて。とりあえず……君、名前は?」
ゼンが少女の肩を優しく擦りながら尋ねると、少女はようやく落ち着きを取り戻したのか目の焦りの色が幾分引いていった。よく見ると少女の瞳は髪と相反するように漆黒だ。吸い込まれるようなふたつのそれは、ゆらゆらと頼りなく揺れる。
「……エルディア。私はエルディア・ダフニ、王都から来たの」
そう語る少女の瞳は、こちらまで息を詰まらせるほど、恐怖に濡れていた。