解決編 犯人と根拠
もう間もなく時計の針が頂点で重なり、日付が変わる。
遠藤拓哉はアパートの並ぶ細道を足早に歩いていた。街灯は多いがこんな時間だと人通りはほとんどない。
マンションまで来ると階段をあがり、三〇五号室のチャイムを鳴らす。
彼女は何の疑いもなく玄関を開けた。
まるで、何もなかったように。
まるで、何もやましいことが無いように。
こちらを見上げてくるその上目遣いも、人懐っこい笑顔さえも疎ましく思えた。
彼女は嘘ついた。
だから、同じように自分も嘘をついた。
抱き寄せるように腕を回し、そして、彼女の首を包丁で撫でた。力任せに振り切った。
悲鳴を上げることもなく彼女は倒れた。まだ微かに動いている。
自分のしでかしたことも、視界を埋め尽くすような赤色も、手に残る肉を裂いた感触も十分に理解できていた。
頭は働いている。包丁を袋にいれ、それをバッグにしまう。
竹内詩織は血だまりの上で動かなくなっていた。
立ち去ろうと電気を消してドアノブを握ったとき、自分の過ちに気付いた。
カーテンの隙間から差した光が血でできた足跡を照らしていた。そして今、指紋を残してしまった。
足跡をこすり取り、スリッパを放る。廊下に出てから上着でドアノブを拭いて玄関へと向かった。
靴の裏に土や水はついていない。足跡は残らないはずだ。ただ、念のため軽くふいた。
先ほどと同じように上着で拭き取るようにして玄関を開け、音がしないようにゆっくりと閉めた。
急げば終電にまだ間に合う。ただ、そんな気分にはなれなかった。
歩いても十五分程度。ゆっくりと帰ることにした。
その道中、右手の痛みに気付いた。右手の指の皮がめくれて出血している。首を切ったときに勢い余って壁にぶつけたときに引っ掛けたのだろう。
少しづつ明確になっていくズキズキとした痛み。冷静だったつもりだが、実際はマヒしていたようだ。
痛みも思考もマヒしていたのだ。
話し終えた後藤はまっすぐ清水の目を見た。
「殺害状況はだいたいこんな感じだろう」
彼女は、推理を咀嚼するように吟味してから口を開いた。
「疑問があるわ」
「なんだ?」
「被害者、竹内詩織はなんで遠藤を家に入れたの? 彼氏といってももう別れる直前だったでしょ?」
「それは遠藤の被害妄想だったんじゃないかと思う」
「どういうこと?」
「被害者の後輩が言ってただろ? 他人の彼氏にちょっかいをだすって」
「ああ、そういうこと」
その意味することに気付いた清水が説明を横取りする。
「被害者としては二股ではなく、ただの遊び程度にしか思ってなかったわけね」
「それが遠藤には許せなかった。ほかの男に乗り換えたように思えた」
「動機としては弱い気がするわね」
人を殺すほどの理由はないと自分で言っていたくせに、とじっとりとした目を向けるが、清水に睨み返されておとなしく視線を反らす。
「ちなみに凶器の包丁は? もしかして家にあったやつ?」
「凶器は家にあった包丁だが、映像の中で見たやつじゃないぞ。あれは新しく買ったやつだ。いままで使っていたものが凶器で、もう捨ててるだろう」
チッと舌打ちが聞こえた。
「で、右手の指のケガはなんで犯行時についたものだと分かったの?」
「右利きの人間が料理でケガをするとしたら左手だ。包丁だろうがピーラーだろうが、左手の方が切りやすい。確証はないけどな」
清水は不機嫌そうな顔をしていた。
「それ、何の説明?」
ケガの原因が料理ではない可能性を示唆しただけで犯行時のものである理由がなかった。慌てて説明をつづける。
「指のケガは包丁を振り切ったときに壁にぶつけた時のものだ。厳密には壁にポスターを留めていたピンだけど」
「根拠は?」
「壁に血が飛び散っていたけど、あんな小さなピンにピッタリ飛ぶのは確率的に低いはずだ」
清水の顔がさらに不機嫌になる。
「確率? 必要なのは確証よ?」
「それはそうだが……調べる価値はあるだろ?」
そうね、と少しだけ怒りのボルテージが下がった。彼女からのプレッシャーから解放されて多少余裕が生まれる。
「それに、証拠は他にもある。たぶん」
「はっきりしないわね」
これも可能性の話だが、と前置きを忘れずに入れてから話す。
「スイッチだ」
「何の?」
「証明の、スイッチだ。あれを消したのは遠藤だ。犯行後、現場を去る時に消していった」
「几帳面な犯人だこと」
皮肉を言えるほど体力を回復したことにむしろ安堵して、話を続ける。
「別に家を出るから電気を消したわけじゃないぞ。心理的に、無意識に消したんだと思う。部屋にカギはかけられないし、角部屋で窓もあっただろ? 誰かが来たら、誰かに見られたらと思ってスイッチに手を伸ばした」
「そこに指紋が残っているわけね」
パッと清水の表情が明るくなった。
「まあ、ドアノブみたいに拭き取られていなければだけども」
笑顔のまま固まってしまった。
その表情のまま、目だけに怒気を秘めて拳を握る。
「宗一郎、もし私が警察じゃなくて、もし攻撃的な人間だったらこの拳をお前の左のこめかみに振り下ろしていたわよ」
極めて攻撃的だが一応警察のため殴り倒されることはない、はずだ。動揺を悟られないようにコーヒーを飲み込む。
「とりあえず、俺ができるのはここまでだな」
「そうね。じゃあ、お金は振り込んでおくから」
「ご利用どうも」
ローソファに置いていた鞄を勢いよく肩にかけた。
「もう大丈夫なのか?」
「問題なし。これ以上休憩して税金泥棒扱いされても嫌だし」
ニヤリとほほえむ。
「ポスターのピンとスイッチの指紋を調べて遠藤を追い込んでくるわ」
そう言い残して出て行った。
「セリフはかっこいいが、完全に悪人面だったな」
コーヒーを飲み干し、カップに色が移る前に洗おうと流しへと向かった。