事件編 現場状況
現場は駅から十分ほどの距離にあるマンションだった。単身者向けの間取りで五階建ての鉄筋コンクリート造。数駅先に大学のキャンパスがあるため、近くには学生向けのアパートや店が数多く並んでいる。
平日の昼間にも関わらず野次馬は多い。そのほとんどは大学生だ。
鬱陶しい。
人混みをかき分け、足早に三階の角部屋へと向かった。三〇五号室の前には見張りをする警備が一人ともう一人、中肉中背、黒い短髪の見慣れた後ろ姿の男がいた。
「岡部、おはよう」
岡部翔。野球少年をそのまま大きくしたような爽やかな好青年。左手には手帳、右手には四色ボールペンを持っているのが彼の特徴だ。
「おはようございます。仁田さんはまだですよ」
「岡部も今来たところ?」
「いえ、ある程度まとめておきました」
本当に仕事熱心で小まめな男で役に立つ。岡部は手帳を数枚めくり、事件の説明を始めた。
「被害者は竹中詩織、二十三歳の大学院生です」
岡部の言葉を背中に受けながら、三〇五号室へ入っていく。玄関には大きな下足入れがあるが、そこに収まりきらなかった靴が所狭しと並んでいた。その先の廊下にも箱積みされた靴が積み重なり、キッチンの近くまで占領している。調理器具らしいものがひとつもないことから普段料理をしないので特に問題はなかったのだろう。
「死因は出血による失血死です。首を左下から右上に向かって切られていました」
キッチンの先のドアは開いており、近づくにつれて鉄の臭いが鼻についた。予想はしていたがひどい血の量だ。床だけでなく壁にまで飛び跳ねている。
思わず足が止まる。
部屋は六畳ほど広さだった。左側には化粧台や衣装ケースが並べられ、窓のついた右側が動線になっている。バルコニーへ続くサッシの手前にはベッドが横向きに置かれている。二面採光のおかげで電気がついていなくても十分に明るい。
部屋の中央右側のサッシの近く、ドアから数歩先には大きな血だまりがあった。既に遺体はないが、その血痕からどのように倒れていたか分かる。
「被害者はバルコニー側に頭を向けてうつ伏せで倒れていました」
血だまりからドアに向かって、不自然に擦り伸ばされたような血痕があった。
視線に気づいた岡部が言う。
「その血痕はスリッパに付着した血によってできたものです。足跡に気付いた犯人が消そうとしたものだと思われます」
スリッパはドアの目の前に無造作に置かれていた。左右で色の違うウサギのスリッパだった。
「これはこういうやつなの?」
「というと?」
質問の意図が伝わらなかった。省略し過ぎたか。
「スリッパよ。もともと左右で違う色のものなの?」
岡部は手帳を一枚めくった。
「はい。右が白、左が黒でセットで販売されています」
元は白かったスリッパも付着した血のせいでだいぶ黒ずんでしまっている。黒い方はあまり変わってない。
「近くの量販店で九八〇円で売られていました。二日ほど前に買ったそうです」
値段まで調べているとは、さすがの細かさだ。
「財布の中身は手付かずでした。多少部屋が荒れていますが、殺害状況を考えると怨恨の線が濃厚ですね」
「で、第一発見者は?」
血痕を避けるように部屋にして部屋に入る。
「宅配便の配達員です。荷物を届けに来た際に倒れている竹内さんを見つけたそうです」
「配達員が勝手に玄関を開けたの?」
仮にカギが開いていたとしてもそんなことするだろうか。クレーマーなら間違いなく難癖をつけられてトラブルになる。
「来たときにはドアが半分開いていたそうです」
「ほんとに? ふつう玄関って勝手に閉まるようになってない?」
岡部を睨んだ。その証言は信憑性があるのか。
彼は咳払いをして、手帳をめくった。
「前からドアクローザーが壊れていたそうです」
「そう、容疑者は?」
視線を部屋へと戻す。
右側の壁には有名なバンドのポスターが何枚もピンでとめられていた。ポスターにもピンにも壁紙にも血がついている。
「一人目は遠藤拓哉、被害者の彼氏です。被害者が二股をしていることが分かり、最近は喧嘩ばかりしていたそうです」
化粧台の上には化粧道具が並べられ、中央にはカードの明細書や光熱費の検針票なども置かれていた。ここが彼女の主な生活スペースだったのだろう。
引き出しの中は乱雑に小物が押し込まれていた。爪切りや耳かき、はさみのほかにも風邪薬や頭痛薬なども入っている。
「二人目が同じ大学に通う倉石聡、この男が二股の相手です」
衣装ケースの中は全体的に派手な服が多かった。露出度も高い。
「若いわね」
思わず口から洩れた。
「何か言いました?」
「なんでもないわよ。で、容疑者はその二人?」
「あとひとり、三人目は肥田優香里。倉石の彼女です」
「なるほど。人間関係は分かったわ」
部屋は全体的に整頓されていた。正確には、生活感がないというべきだろう。片付けが得意というわけでもないのに綺麗なのは、家では寝るだけだからかもしれない。
風呂やトイレも確認したが特別気になるところはなかった。
後藤は目を開けた。正面にいる清水がのぞき込むようにして見てくる。
「どう? 今回は難しいでしょ?」
「……そうだな」
そう言って彼は立ち上がり、冷蔵庫の方へと歩いていった。視線を背中に受けつつ、水を一口飲みこむ。
「ひとつ頼みがある」
「なに? 事件に関すること?」
首を横に振った。
「血は苦手なんだ。先に一言言ってくれ」
「探偵のくせに、そんなんで解決できるの?」
殺人事件に関わる探偵なんてフィクションの世界だけだ、と心の中で毒づきながらもう一口水を飲んだ。
「お前だって現場でたじろいだだろ」
「はぁ!? 私はもう慣れてるわよ!」
般若のような顔で睨まれ後藤は口を閉じた。反撃しようとすれば徹底的に潰しに来そうだ。
話を戻す。
「ところで、凶器はもう見つかったか?」
「部外者に教えられるわけないでしょ」
清水はきょとんとした顔で言った。揺るがない事実で、正論で、当然のことだが納得はできない。
「分かった。今度からそういった情報がある映像を見せてくれ」
「注文が多いわね」
フンと鼻を鳴らして、再び右手をかざす。
「ちょっと待て」
「今度は何よ」
「次は何の映像だ?」
清水はくすっと笑った。端正な顔立ちによく似合う表情だが、性格を考慮すると嘲笑されているような気がしてならない。先入観とは恐ろしいものだ。
「安心して。次からは全部容疑者の映像だから血は出てこないわ。平和なものよ」
「……分かった」
後藤はおとなしく目を閉じた。