プロローグ
コーヒーをカップに注いだ。
最近買ったコーヒーメーカーは今日もよく働いている。三千円でお釣りがくるような安物だが特別こだわりはないので問題ない。強いて言うならごみと洗い物が少し増えるくらいだ。
後藤宗一郎は窓際の回転椅子に座り、窓の方を向いてからそれをひと口飲み込んだ。
インスタントコーヒーよりおいしい。かもしれないが、その違いを感じたことはない。
コーヒーカップの置き場所を目の前のデスクに求めたが、そこにスペースは無かった。
昨日の新聞や二か月前の雑誌、走り書きしたメモ用紙、空のカップラーメン、腕時計に携帯。使うものもあればそうでないものもある。ただ、ゴミ箱に入れるのが面倒なので適当にゴミを寄せてカップを置いた。
そこは荷物に埋もれたデスクと軋む回転椅子以外には長テーブルとローソファ、書庫がひとつあるだけの質素だが汚い事務所だった。地区三十年はたっているだろう五階建ての二階にある事務所はその月日の経過を示すように黄ばんでいる。二階に上がる階段の塗装にはそこら中にヒビがあり、エレベーターはガタッと縦揺れしてから動き出す。
多少不謹慎だと思いながらも、大きな事件を解決して一気に有名になる日が来ることを密かに願っていた。
「掃除でもしておくか」
今日は金曜日。唯一のお得意様がやってくるかもしれない。昨日までのニュースを見る限りその可能性は大いにあった。
とりあえず、デスクの上だ。朝食べたカップラーメンをごみ箱に投げ入れる。
それが合図のように事務所の扉が開かれた。十時半。
「宗一郎、仕事をもって来たわよ」
開口一番、上から目線で入ってきたのは黒いスーツに身を包んだ女性だった。切れ長の目に長い黒髪、一見して仕事のできる女性だ。
彼女は清水玲子。捜査一課の刑事でこの探偵事務所唯一のお客様だ。
「今回も簡単な頭脳労働か?」
「当たり前でしょ。迷子の猫探しでも頼むと思ったの?」
想像以上に機嫌が悪かった。もともと気が強い彼女に皮肉を言ったのは失敗だったと心の中でつぶやき、後藤はコーヒーを出した。
「コーヒーメーカー買ったのね」
「セールで安かったんだ」
「豆もセール品?」
図星を突かれ思わず口ごもる。コーヒーの種類なんて知る由もない。とりあえず二番目に安いものを買ってきただけだった。
話を戻す。
「それで、今回は何人の映像を見るんだ?」
「容疑者は三人。現場の状況も含めると全部で四つね」
部屋の中央にあるローソファに腰を下ろした清水はコーヒーを一口飲んだ。
「意外とおいしいじゃない」
意外は余計だ、と思いながら後藤はテーブルを挟んだ向かいの椅子に座った。
「準備はいいか?」
「それはこっちのセリフよ」
彼女は右手をかざした。
「ちょっと待て」
「なによ?」
訝しげな視線を向ける。
「お前のその超能力、そんな頻繁に使って大丈夫なのか?」
清水玲子は特殊な能力を持っていた。自分の記憶を他人に見せる一種のテレパシーのようなものだ。事件に関する情報を合法的に部外者へ見せることができる。ただ、体力の消耗が激しく気軽に使うことはできない。
何度も疲弊したところを見てきた後藤としては気がかりなところだ。
「超能力使いすぎて死んだ、なんて笑えないぞ」
まじめな表情で言う彼に、清水は笑みを浮かべて答える。もちろん嘲笑だ。
「それ、死因は何?」
「いや、それはわからないが――」
「大丈夫よ。少し休めばすぐ良くなる」
話はここまで、と目で制された。
「それじゃあ、まずは現場についたときのを流すわよ」
後藤は深呼吸をして目を閉じた。