第四話
「近頃は魔獣の出現もめっきり少なくなったな」
更に数ヶ月が経過した。
領主軍は幾度か大々的な魔獣の討伐を繰り返していたが、時と共に負傷者も増え兵は疲弊していく一方で、さすがに限界も近いのではないかと懸念する声が大きくなってきた頃、唐突に魔獣の攻勢が止んだ。
「アレだけ退治したんだ。
異常発生もようやく終わったってことなんじゃねぇか?」
「あぁ、その可能性も高いよな」
「高いっつーか、絶対終わってるって。
現に出ねぇじゃん、魔獣」
「しっかし、お上もアレかね。
警戒態勢、まぁだ解かないのかね」
「領主のパダラム様が慎重派だからなぁ」
「ここんとこ詰めっぱだしさ、いいかげん休みが欲しいよ」
「だなぁ」
夜勤明けの下級兵士たちが、宿舎へ歩く道すがら雑談に興じている。
上層部からは気を抜かぬよう指示を受けていたが、すでに十日以上魔獣の出現が確認されていない状況では、緊張状態もそう長く続くものではない。
特に、これまでの攻勢が激しすぎたことを思えば、細かな情報の行き渡っていない末端の人間が、束の間の平和に身を緩めてしまうのも仕方の無いことだと言えた。
だが、現実とは常に無情で、人に試練を与えたがるものだ。
それはこの世界でも、やはり例外ではない。
「…………ん? 何か聞こえねぇか?」
「いや、聞こえるってより、揺れてるよーな」
「げっ、まさか地震!?」
慌てて周囲を見回す兵たち。
その内の一人が驚愕に目を見開き、震える手で遠く地平を指さしながら悲鳴にも似た声を上げた。
「ま、待て、違う、外だ!
外を見ろ!!」
追って、領主館の外壁を超えた先の野を見やれば、彼らは次々と顔面を蒼白に染めていく。
「うそ……だろ……?」
「馬鹿な! 山が……デベダの山が覆い尽くされていく!」
「こりゃあ、まるで津波だ。
俺の故郷を襲った、チェプツェの津波だ!」
「ちくしょう、一体全体どうなってやがる!!」
絶望に震える兵たちの瞳の中に、全てを蹂躙しながら前進する大地を覆い尽くすほどの大量の魔獣の姿があった。
「くっそぉ、俺ぁ夢でも見てんのかよ!!」
「に……逃げっ……!」
「バカ野郎!
一体どこに逃げろってんだ、あんなっ……あんなぁっ……!」
「終わりだ……すべて……お終いなんだ」
その光景は、あまりに常識から逸脱し過ぎていた。
だが、足を、耳を、脳を震わせる地鳴りが、否が応でも彼らにそれが夢や幻では無い現実のものであるのだと突き付けてくる。
もはや閉ざされた未来を前に、冷静さを保っていられた者は一人として存在しなかった。
いや。例えいたとして、軍規に則り上司の元へ報告に赴いたとして、その行為に一体どれほどの価値があっただろうか。
すでに天災にも等しかろう魔獣の大群を相手に、人間ごときが取れる手段など有るはずもない。
足掻くことを放棄し嘆き絶望する彼らの行動は、ある意味では正しいものですらあった。
「お終い……だそうだぞ、領主殿」
言って、魔女が愉快そうに喉を鳴らす。
身支度を終え、手早く朝食を詰め込んでいた領主の向かいの席に突如現れた彼女は、同時に彼の目の前にとある映像を展開させていた。
軍用宿舎手前で身を震わせる下級兵士たちと、その視線の先の悲劇的な映像を……。
「さぁ、いかがする?」
領主館に長く留まり過ぎて、いい加減に苛立ちが最高潮に達していた魔女ルヴィにとって、テゲンの分かりやすい窮地はむしろ喜ばしい事であった。
お役御免も目前とあって、彼女はこれまでにないほど清々しい微笑みを湛えている。
が、魔女の期待と裏腹に、領主パダラムは音を立てて席を離れ、無言のまま廊下へと続く扉へ向かった。
「領主殿?」
「………………約束はもういい、すぐに逃げろ」
ポツリ、と背中越しに告げられた言葉。
魔女は二度ほど瞼を瞬かせたあと、ようやく意味を脳に浸透させる。
途端、一気に怒髪天を衝いた彼女は一足飛びで彼の右側面へと移動し、その頭髪を荒々しく掴み込んだ。
「っ……何を!」
痛みに顔を歪め、抗議の声を上げんとする領主。
しかし、彼女の憤怒に染まりきった瞳に睨まれれば、続くはずであった彼の声は反射的に圧し止められてしまう。
「貴様……今、私に逃げろと言ったか?
この魔女ルヴィに、逃げろ、と」
地の底から響いてくるような、どす黒い声色だった。
いっそ物理的効果すら発生しかねない強烈な怒りのオーラに圧倒されながらも、領主は己の精神を必死に鼓舞して平静を装い、淡々と語る。
「そうだ。
私は魔女殿に、よもやこれ程の重荷を負わせるつもりでは無かった。
単身飛行が可能な貴殿であれば、今からでも充分……」
「領主パダラム!!
貴様が地に額を擦り付けてまで魔女に懇願したのは、己が領民を救いたいが為では無かったのか!」
魔女ルヴィの思いもかけない方向からの叱責に、彼は目を見開いた。
彼女の魔女としての矜持を踏みにじる言動であったことは彼も認めるところであり、それに対する怒りだとばかり考えていたのだが、そこにまさか領主がその民の救済を諦めようとしていることへの怒りが含まれているなどとは些かも想像できるものではなかった。
魔女はこの世の何より人間という生き物を忌み嫌っているはずだ。
領主は困惑した。
まるで彼女が率先して人間を助けたがっているようにすら思えた。
だがしかし、もしそれが真実であるとしても、地を埋め尽くすほどの魔獣を相手にたった一人、それも女を向かわせるような真似など彼には出来るはずもなかった。
元々テゲンとは無関係だった彼女を無理に巻き込んだのはパダラムだ。
だからこそ、絶望的なこの状況で彼女を無事に逃がすことも彼の責任であると考えていた。
「助けられるものなら、助けたい。当然だ。
私はテゲンの領主で、彼らは私が守るべき民であるのだから。
だが、例え魔女殿と言えどアレはあまりにも……」
ここで視線を魔女に向けた領主はようやく気が付く。
凛と立つその姿に。
絶対の自信をもって輝くその碧き瞳に。
自らの勘違いに。
「出来る、のか」
「誰にものを言っている」
呆然と呟かれた問いに、間を置かず傲慢な答えが返った。
それに対し、領主は初めて表情を崩して、彼女のか細い腕へ無意識に縋り付く。
「……っでは……では、頼む!
どうかテゲンを! テゲンの民を救ってくれ!!」
「ふん。ようやくか、愚図めが」
魔女は領主の手を弾きながら悪態をついた。
そして、次第にゆらゆらと波紋を受ける水面のように虚ろに姿を瞬かせ始める。
「さんざ見くびってくれた魔女の力、その節穴の目にとっくりと刻み込むが良いわ」
そう告げた次の瞬間、彼女は忽然と消え去っていた。
後に残された領主は、それからほんの数秒間、無力な自分自身を嘆き強く拳を握り込む。
しかし、彼はすぐに思考を切り替え、力強い足取りで部屋を後にした。
事態を受けた民衆が暴徒と化してしまう前に、まずは軍を纏め領主館内の混乱を治める必要があった。
「下等な塵ほど群れたがるものよ」
地平線を埋め尽くすほどの魔獣の進行を天高くより見下しながら、魔女は傲慢に囁いた。
その姿には、かけらほどの緊張の色も滲みはしない。
「数だけの弱小生物如きが、この私の手を煩わせおって。
凍れ。もはや貴様らに時を刻む権利など刹那とてやらぬ」
たった一言。
白く細い指先のそのひとつすら動きはしない。
しかし、彼女が短い文言を吐き終える頃には、総ての魔獣の肉体はすっかり氷と化し、岩すら砕こうかという強固さで凍結してしまっていた。
「さて、我が故郷には悪食共がいくらでも蔓延っておるゆえ、そのような姿となったお前達だとて処理には困るまい。
最下等の獣共が我ら至高の存在の糧として死ねること、涙を流して感謝するがよいぞ」
告げた魔女の腕が上がる。
途端、魔獣であったものが次々空へと舞い上がり、透明な膜のような何かに吸い込まれ溶けていった。
やがて最後の一体が永遠に世界から消滅すると、まるでそんな彼らを追うかのごとく、女もその身を隠し去る。
テゲンの地は痛いほどの静寂に包まれていた。
魔女ルヴィと領主パダラムの両者間に交わされた約束は、今ここに果たされたのである。
「魔女殿、本当に助かった。
この礼はいずれ必ず……」
疲弊しきった現在のテゲンに、彼女の働きに報いるだけの力はない。
だが、魔獣以外の何をも傷付けず、また一切の死骸すら残さず、ほんの腕の一振りで人々を窮地から救った偉大な魔女に報いないということは、彼にはとても考えられなかった。
だからこそのセリフだったのだが、魔女本人は即座にそれを固辞してしまう。
「いらぬ。
元より我が愛し子たちの安寧の為にやったこと。
全ては私の独断であり、領主殿に礼など受ける筋合いはない。自惚れるな」
冷たい視線。突き放すような言葉。
魔女自身、己の言動の矛盾には気が付いていたが、敢えて彼女はそれを押し通した。
これ以上、目の前に立つ男と関わり続けることを拒否したのだ。
しかし、返しきれぬほどの大恩を受けたと考える領主は、当然しつこく食らい付いて来ようとする。
「だが、それではあまりにもっ……」
「くどい!」
苛ついたような彼女のその叫びに、ごくわずか必死さが含まれていたことなど、パダラムに見抜けるわけもない。
「礼だと言うなら、二度と我が孤児院に係ってくれるな。
愛し子に貴様らの穢れをうつされては堪らぬ」
「魔女殿!」
領主の呼び掛けに応えず、魔女は髪を揺らして背を向ける。
「……約束は果たした。帰らせてもらう。
もはや、二度と会うこともないだろう」
最後にそう呟いて消え去ろうとした魔女を、しかし領主は強く腕を掴み取ることで止めた。
彼女は背を向けたまま、不快を隠そうともしない声で問う。
「何をする?」
「……行くな、ルヴィ」
彼の答えは簡潔で、そして、真摯で切実な響きを孕んでいた。
魔女ルヴィは聡明だ。
これから先、彼が言わんとすることを全て理解していた。
それでも、彼女は足掻かずにはいられなかった。
そして同時に、甘受したくてたまらなかった。
矛盾した感情を内包するルヴィは、彼を無視して去ることが出来ない。
だから、言った。
外れてくれと思いながらも、やはり結果は見えていた。
「ハッ、戯言を。
今さら私の力が惜しくでもなったか?」
「違う! 魔女の力などどうでも良い!!」
「なに?」
「愛している。
私はお前が、ルヴィという女が欲しい」
思わず振り返る魔女ルヴィ。
想像以上に近しい距離で、領主パダラムの熱に浮かされた瞳が、真っ直ぐに彼女を貫いていた。
魔女は眉を顰め背を仰け反らせてから、領主を忌々しげに睨み付け毒づく。
「……っこの気狂いが!」
「あるいは、そうかもしれない。
一目見たその時から、私はどうしようもなく狂っているのだ。
ルヴィ、お前に」
彼が己のその感情を今まで押し殺していたのは、領主としての立場があったからだ。
優先すべきは個人ではなく、数多の命であるべきだったからだ。
だが、すでに憂いは晴れた。
彼女は彼が依頼した魔女としての役割を終え、一人の女ルヴィとなった。
ここで逃がせば、おそらく本人の言葉通り二度と両名が相見えることは無いだろう。
パダラムは必死だった。愚かなほどに。
だから、彼が彼女の名を呼んだほんの一瞬、その瞳がごく僅か揺れたことには気が付けなかった。
「どうか、ルヴィ。私の傍に……」
「っふざけるな!」
彼女の身を抱き込もうとしたパダラムだが、寸前で突き飛ばされてしまう。
勢いによろめくが、立て直しは容易だった。
拒絶に魔の力を使われなかったことを意外に思う余裕すらあった。
だが、それもそこまでだ。
視線を前方に戻した時、すでに彼女の姿は空間に歪み消失しようとしていた。
「っ待ってくれ!」
「私は魔女! とこしえを生きる魔女ルヴィ!
賎しき人間ごときが、身の程を知れ!!」
「ルヴィッ!!」
焦り手を伸ばすが間に合わず、パダラムは数歩たたらを踏む。
急ぎ振り返るも、そこにはただ見慣れた部屋が広がっているだけだった。
「…………ルヴィ」
ポツリと彼女の名を溢すが、返るものもなく虚しく響いて終わる。
魔女は香りすら残さず去ってしまった。
次第に彼女の存在自体が幻であったのではないかという錯覚に陥ってしまったパダラムは、現状把握に務めていた部下がその場を訪れるまで、しばし呆然と立ち尽くしていた。