第二話
女主人がダーリャの額に口付けを贈れば、少女はまるで気を失うように眠りに落ちていく。
やがて完全に寝入ってしまった彼女の体を抱え直して、女主人は何とか立ち上がったばかりの男二人へと絶対零度の冷たい視線を送った。
「結界を越えて来たということは、お前たちに悪意は無かったのだろう」
低く淡々と紡がれる音に反して、現状を正確に分析できていたらしい彼女の言葉に、男たちは理解を得たとばかりに喜色混じりの声を上げる。
「おぉ、そうだ!」
「俺たちは、ま……っ!?」
直後。とても人の持つものとは思えぬ強烈な殺意をぶつけられ、二人は反射的に身を竦ませた。
それを浴びた瞬間、自らの死に様をありありと錯覚し、未だ生きているという事実に思い至った時には、彼らはむしろ疑問すら覚えたほどだった。
「だがな。
例えそんなものが無かろうと、未だ傷癒えぬ我が愛し子をかように怯えさせたとあっては……」
再び……と言うにはおかしいが、男たちは己の死が間近に迫っている事実を頭で認識しつつも、蛇に睨まれた蛙のごとく、ただ滝のように汗を垂らすことしか出来ずにいる。
覚悟は決まらなかった。それをするだけの思考の余裕は無かった。
「もはや、五体満足で帰れるなどと思うなッ!!」
爆発にも似た彼女の怒号に呼応するように、周囲の空気がうねり始める。
その数秒後。彼女の背後に、大森林の木々よりもなお巨大な半透明の竜が顕現していた。
竜は大地を揺るがすほどの咆哮を上げ、それをきっかけに肉体の制御を取り戻した男たちは、けれど無様に怯え叫ぶことしか出来ない。
「ひぃぃッ!?」
「やっ、やめろ! 俺達はただっ!」
「問答無用ッ!!」
震える男たちへと女主人が片腕を突き出せば、それを合図に竜が大口を開き、長く伸びる首を勢いよく振り下ろした。
が、その時だ。
「待たれよ、御母堂殿!!
彼らテゲンの貴重な戦力を、今、徒に削られてしまっては困るのだ!」
どこからか現れた男が、彼女に制止の言葉を投げかける。
途端、男たちの身に今にも牙を突き立てようとしていた竜の動きが止まった。
へたり込む二人。
水を差された女主人は闖入者へと向き直り、暗く冷ややかな声を浴びせる。
「……何だ、お前は」
「申し遅れた。
我が名はパダラム。
テゲン領、現領主。パダラム・キーダ・リーバ」
領主、と聞いて彼女は『悠長に構えず、即座に消しておくべきだった』などと物騒な心情を抱き、同時に頭の内で舌打ちした。
男の正体を知る前であれば、処分したのちに糾弾されたとして知らぬ存ぜぬを通すことも出来るが、こうしてハッキリと名乗られてしまえば、その立場を無視することは出来ない。
完全な独立経営とは言え、ここは仮にもテゲン領内。
彼と事を起こした場合、最悪孤児院の取り潰しすら有り得る話なのである。
強行は容易いが、それではそこに暮らす罪なき子らまで汚名を着せられることになりかねない。
母として、一時の感情に流され愚を犯すわけにはいかなかった。
「部下の非礼は、私が代わって詫びよう。
どうか許されよ」
よって、領主と名乗る男にこうして頭を下げられてしまえば、女主人は臍を噛みながらも受け入れるしかないのである。
深呼吸を繰り返すことで昂ぶりを抑え、指の一鳴らしで竜を消し去った彼女は、気を取り換えテゲン現領主パダラムへと向き直った。
「……して、その領主殿が何用か?
経営の許可申請はエナ六年の外月に受理されており、以後規定の年間報告書提出はもちろん税も欠かさず納めている。
法を犯したこともなければ、清廉潔白の我が孤児院にこのように直々の訪問を受けるような……」
「魔女ルヴィ殿とお見受けする」
自らのセリフを遮って発された言葉のその内容に、女主人はふつりと黙り込んだ。
彼女の反応を意に介さず、領主パダラムは自身の主張を簡潔に述べる。
「我がテゲン領は現在、未曽有の危機に陥っている。
どうか、魔女殿の類稀な術をもって、ご助力いただきたく」
「………………そういうことか」
一気に剣呑な空気を纏った女主人こと魔女ルヴィは、打って変わって横柄な態度を示し始めた。
「ならば、領……いや、人間。
まずは跪け。額を地に擦り付けろ。
話は全て、ソレからだ」
直後。主への不遜な態度に激昂した部下二人が、たった数瞬前に自身らが殺されかけたことすら忘れて彼女の前に躍り出、剣を抜き構える。
「っ貴様、パダラム様を愚弄するか!?」
「女如きが、下手に出れば図に乗りおって!!」
ひくりと僅かに眉を動かす魔女ルヴィ。
だが、彼女がその力を発揮するよりも早く、領主が吠えた。
「私は構わん! 控えていろ!!」
「パダラム様!?」
「しかし、この者はっ!」
「チャナバ! タイサイ!
これ以上、私に恥をかかせるな!」
仕える主にそのように言われてしまっては、忠臣を自称する者として引き下がらざるをえない。
「…………御心のままに」
「……出過ぎた真似を致しました」
二人は歯を喰いしばりながらも剣を収め、領主の背後に片膝をついて控えた。
それを見届けてから、領主パダラムは彼女の言葉通り剥き出しの地面に跪き、同時に額を擦り付け、さながら土下座のような体勢を取り懇願する。
「魔女殿。
どうか、この通りだ。頼む」
「ふん、良かろう。そのまま話せ」
容赦のない魔女の命令に、ギリギリと強く歯を合わせる音が二つ響いた。
「うむ、実は……」
一般的市民ですらおよそ屈辱を感じる扱いであるはずなのだが、当の領主は気分を害した様子もなく、彼女に従順な態度を崩さない。
彼にはそれを当然とするだけの理由があったからだ。
「……ほう。魔獣の大量発生か。
確かに、獣ごときがいくら束になろうとて物の数ではないが」
「すでに多くの兵が命を落としてしまった。
しかし、ある村の九十を数えるという老婆が言うには、これはまだ予兆の段階に過ぎぬと……」
「痴呆の末の戯言とは思わぬのか?」
「この目と耳で確認した。
彼女は痴呆の老婆などではない。
それに、戯言と捨て置くには、あまりに現状と一致しすぎていたものでな」
この時点で、魔女は目の前に平伏す男の評価を少しばかり上方修正していた。
彼女は人間を、強欲で猥雑で脆弱で愚劣で自己愛著しい小賢しく薄汚い最低の塵生物と認識している。
当然ながら、これには彼女の好く幼子たちと自ら育て上げた人間は当てはまらない。
が、そんな極端な意識の中でも、多少はマシであると認めた者もおり、魔女は領主をそういった枠の中に入れてやっても良いかと思い始めていた。
「……ひとつ聞こう。
私のことをどこで知った?」
人間を厭う彼女は、当然ながら誰かに利用されることは元より頼られることすらしたくなかった。
だからこそ、家族である愛し子の前を除き、魔女としての力を使うことは控えていた。
見知らぬ他人の前で力を揮うとしたら、それこそその者の命を刈り取る時くらいのものなのだ。
魔女ルヴィにとって、この問いかけは必須だった。
「いや、ただ噂を耳にした。
人知を超える、強大な力を持つ魔女がいると」
その発言に、魔女はあからさまな侮蔑まじりの眼差しを向ける。
「確証も無くたかだか噂ひとつを鵜呑みにして、このような僻地へ自ら足を運び、あまつさえ今その立場にあるまじき無様を晒している、と?
……パダラム殿は、領主としてのご自覚をどこに捨ててこられたのだ?」
露骨な皮肉だ。
自身で要求しておいて、土下座姿勢で懇願する彼を愚かと言い切る彼女は、中々に理不尽な存在だろう。
その内容がけして間違ってはいない所など、いかにも性質が悪い。
だが、どれだけ魔女に馬鹿にされようと、領主は平然としたものだった。
「万一にも真実であった場合、相手は超常の者であり、部下だけを送り出したのでは礼を失することになる。
不本意な形ではあるが、先刻その力の一片を垣間見ることができた。
噂は真であり、私は貴女に大いなる可能性を見たのだ。
我がテゲンの民の命、このまま無駄に散らせるわけにはゆかぬ。
そのために打てる手は全て打っておきたい。
彼らを救う為ならば、この程度、私には屈辱ですらない」
「……若輩が、言いおるわ」
魔女はどこか面白くなさそうに口を歪めた。
それから、領主パダラムの額を足先で小突いて顔だけを上げさせる。
彼女を見上げる彼の瞳は、まるで穢れを知らぬ少年のようにまっすぐだった。
領主という立場にあっては、全く苦労を知らぬということは有り得ない。
時に迷い、苦しみ、悲しみ、後悔したことも、絶望したこともあっただろう。
だというのに、彼はその瞳を濁らせることなく、がむしゃらに前を向いているのだ。
「…………全て……真実……か」
呟いて、魔女は領主から数歩分の距離を取った。
「その厚かましさに免じて、一度だけ力を貸してやる」
「本当か!? ありがたい!!」
歓喜に沸いた領主は、思わずといった体で勢いよく上半身を起こし、その先に立つ魔女へと感謝の言葉を投げる。
魔女は、そんな彼を煩わし気に眺めながら、吐き捨てるかのように言った。
「思い違うな。
仮にも故郷であるからには、失わば愛し子らも悲しもう。
協力の形を取るのは、あくまで効率を考えてのこと」
「おぉ、そうかそうか!」
「……重ねて言うが、私が力を行使するのは一度きりだ。
例え領主殿が見極めを誤りテゲンが滅ぶことになろうと、けして二度は手を出さぬぞ」
「いや、それで充分だ。よろしく頼む」
話をまともに聞いているのかいないのか、領主は嬉しそうな笑みを崩さない。
魔女は腕の中の少女を今一度抱え直しながら、意味もなく湧いてくる苛立ちにも似た落ち着かない感情を持て余すのだった。
しばし互いに沈黙した後、やがて彼女は話は終わったとばかりに背を向け歩き出そうとする。
だが、そこへ張り付いたままの強い視線を感じて、嫌々ながらも足を止めた。
「…………まだ何か用か」
目的を果たしたというのに帰路につこうとしない彼らへ、鬱陶し気に問いかける。
ここで無視を決め込んで、万一にも居座られてしまえば堪らないからだ。
魔女の心情を知ってか知らずか、座り込んだままの姿勢で再び領主が口を開く。
その表情は先ほどまでの強い意志を感じさせるものではなく、僅かに眉を下げ、どこか迷っているような雰囲気を漂わせていた。
「あー、いや、そのだな。
魔女殿には孤児院ではなく、もう少し私の目の届く範囲に……と……」
「ほぉ?」
魔女の目が暗く光る。
領主は一瞬、脅える様に身を竦ませながらも、果敢に話を続けた。
「このような辺境に居られたのでは伝達に時間がかかり過ぎる。
約束を取り付けたからと満足し、召喚の段階で手遅れとなってしまうようでは意味が無いのだ」
「……」
「その……残される幼子たちには、申し訳もないことだと思うが……。
しかし、こちらも民の命がかかっている以上、譲ることはできない」
最終的に迷いを捨てたらしい彼は、彼女と目を合わせた状態でキッパリとそう主張した。
本音を言えば断ってやりたい魔女ルヴィだが、彼の発言にも一理はある。
逡巡の後、彼女自身あまり気は進まないが、仕方なく存在を分割する方法を取る事にした。
「これで良かろう。
まったく、面倒をかけさせおって」
「……は?」
「なぁッ!!」
「ま、魔女が増えっ……!?」
ほんの瞬きひとつの間で、そこには当たり前のように魔女が二人立っていた。
領主ら三人は驚愕と共に目を剥き、狼狽する。
「これは……また何とも……」
「お、おおおのれ魔女め! 面妖な術を掛けおって!」
「術だと!? おい、貴様すぐにコレを解け!」
その内、少女を抱えた魔女は院の中へと歩き去り、そのまま庭に残る魔女は鬱陶し気に髪を掻き上げてから、ため息まじりに言を紡いだ。
「囀るな、煩わしい。
アレも私も本物の魔女ルヴィであり、貴様らの言うような幻術の類など掛けてはおらぬ。
このような未熟な世界において、多重に存在するなど容易いことだ」
「そ……」
「あぁ、理屈など求めてくれるなよ。
しょせん人間風情に理解できるはずもないのだからな」
発声を即座に遮られた領主は、彼女は何も答えるつもりがないのだろうと判断し、実にあっさり全ての問いかけを諦めた。
部下二人も合い間に軽く殺意混じりの視線を投げられ、冷や汗を流しながら沈黙する。
彼らの手前「容易いこと」などと口にした魔女だったが、勿論それは言うほど簡単なことではなく、いくつかの制限が存在していた。
説明したところで人間の理解には及ばないというのも嘘ではないが、仮にもし話を理解されてしまえば能力の限界を知られる危険を冒すことにもなりかねず、それはまったく彼女の望むところではない。
故に、魔女ルヴィは彼らの疑問を強引に封殺した。
領主パダラムが情けなく眉尻を下げ、頭を掻く。
「……その、すまない。取り乱した。
とにかく、貴女は紛れもなく魔女ルヴィ殿本人であるのだな」
「そうだ」
そもそも魔女という存在自体が眉唾物であり、その不可思議な術に人間の理屈を当てはめるのは無意味なことなのだろうと、彼は早々に考えることを放棄し、ただ受け入れた。
魔女はそんな彼に対し、よくよく距離の取り方を間違えぬ人間であると感心し、同時に警戒する。
もっとも、そんな考えをおくびにも出すような彼女では無かったが……。
「よし、話は決まったな。
されば、魔女殿。私はここで待っているゆえ、すぐに旅支度を整えて来られよ。
急かすようで悪いが、こちらもそうそうのんびりとは……」
「支度などと、そのようなもの必要とせぬわ。
発つと言うなら、今からだ」
「む、そうか」
奇奇怪怪なる魔女の力を目の当たりにしてきた領主は、その言葉に何を思うこともなく頷いた。
しかし、ふとあることに気が付いて、軽く顎を擦りながら言う。
「あいや、しかし我らは軍馬……」
「ふん、人間ごときと同列に語るでない」
よくよく人のセリフを遮りたがる魔女である。
彼は、彼女のその行動には隠された意図があるのか、はたまたそういった趣味であるのか、単に気の短い性格であるのかと考え首を捻り、一先ず最低限の情報から正確に相手の言わんとすることを捉える回転の速い頭を持っていることだけは間違いないだろうと頷いた。
「獣を使役せねば移動もままならぬなど、脆弱極まりない劣等種めが」
と、そこで魔女が吐いた辛辣な悪態に、領主が薄々抱いていた疑問をぶつける。
「……魔女殿は……もしや人間ではないのか?」
「あぁ、違うな。
例え姿形が酷似していようと、魔女……いや、少なくとも私は人間とは違う」
「………………そうか」
意外なほど易々と答えが返って来たが、その内容に彼はなぜか落胆にも似た感情を覚えた。
しかし、理由に至ることが出来ず、領主パダラムは内心で自らを訝しむ。
とは言え、やるべきことは多々あり些事に係う様な暇など無いと、彼はそう判断して迅速に思考を切り替えるのだった。