第一話
人里離れた草原の先に、小さな孤児院が建っていた。
この孤児院はとある個人の持ち物であり、国や領地の援助を一切受けずに独立経営されている。
ここに暮らすのは、その名の通り主に幼くして親を亡くした子どもたちだ。
とはいえ、彼らに悲壮感はあまりなく、今も庭を楽しそうに駆け回っている。
身につけている服はどれも上質の物で、各人の肉付きの良さから食糧事情も良好であることが見てとれる。
ともすれば、ごく一般的な家庭の子どもよりも数段贅沢なのではないかという暮らしぶりだった。
と、そこで出入り口近くを通りかかった男児が、道を歩いて来る一人の人間に目を止め、その見知った姿に興奮して声を上げる。
「お母様だ!」
「えっ!? お母さま!?」
「ホントだ! 母様!」
「わーい! おかあさまぁー!」
「かーさまーーっ!」
しばしの間留守にしていた、この孤児院の持ち主かつ経営者である女主人が帰って来たのだ。
子どもたちは彼女の帰宅を喜び、我先にと飛び出して行った。
女主人は、そんな幼子たちへ慈愛に満ちた微笑みを向け、衣服が汚れることも厭わず両膝をついて彼らの身を次々受け止める。
「久しいな、愛し子たち。みな息災か?」
「はーい!」
「そくさーい!」
「しょくしゃーい!」
言葉の意味も分からぬままはしゃぐ子らに、彼女の笑みも自然と深まっていく。
「ふふ、そうかそうか。
グィノーの施設もようやく安定したのでな。
これからしばらく一緒にいてやれるぞ」
「本当!?」
「やったー! お母様と一緒!」
「いっしょー!」
それから、女主人はその場で一番幼い女児を抱き上げ、その他子らの頭を順に撫でつつ院へと移動して行った。
玄関扉を開ければ、そのすぐ先に二十そこそこの年若い女性が立っており、彼女の元に嬉しそうに身を寄せてくる。
「お帰りなさい、お母様」
「あぁ。久しいな、ユトゥヌ。
長らく留守にして、すまなかった。
何か変わったことは無かったか?」
ユトゥヌと呼ばれた女性はこの孤児院の出身で、女主人のいない間の世話役を買って出ていた。
纏わりつく子どもたちにズルイズルイと嫉妬の声を受けて、彼女は苦笑いで身を離してから会話の続きに興じる。
「えぇ。なぁんにも。
やんちゃ達がますます元気になったってくらい」
「そうか。それは良かった。
……あぁ、いや。ユトゥヌには苦労をかけるな」
「あっは、いいのいいの。
こっちは好きでやってるんだから」
言いつつ、身振り手振りの意思疎通で談話室へと場所を変えて、女主人は三人掛けソファへ、ユトゥヌは気を利かせた年長の少年から紅茶を受け取り並べて、向かい側の一人掛けソファへと腰を下ろした。
さっそく喉を潤しながら、女主人は少し物憂げな顔つきで独り言のように小さな声を発する。
「それにしても……少しばかり見ない間に、みな随分と成長したようだ」
「ん。そりゃあ、子どもだもの」
「そうだな。
その成長を常に傍で見守ってやれないことは、母として心苦しい限りだが……」
「うぅん。
世界中にお母様を待っている子どもがいるんじゃあ、仕方がないわよ」
そう、彼女はこの地と同等の孤児院を世界各地に設置し運営していた。
なぜと聞かれれば、理由は単純だ。
彼女は何よりも子どもという存在を好いており、特に身寄りもなく憐れな生い立ちの子らをどうにか出来ないかと思えば、それを実行するだけの力を持っていた。
たったそれだけの話なのだ。
「まぁね。本音を言えば私だって、寂しい時くらいあるけど……。
だからって、自分たちを優先して他の子を見捨てて欲しいとは思わないし」
養い子の飾らぬ言葉に、女主人は軽く目を伏せる。
「私は救っているつもりで、お前たちに残酷な事を強いてはいないだろうか」
「やぁだっ、そんなことありっこないわ。
お母様に拾われて、愛されて、私たちとても幸せなのよ」
浮かべられたその微笑みに嘘はない。
本当に心から幸せなのだと誰しもに思わせる表情だった。
「……そうか。私は良い子に恵まれた」
女主人の瞳にジワリと涙が滲み、しかし、それが零れることは無かった。
彼女らの耳に、絹を引き裂くような叫び声が届いてきたからだ。
「えっ!?」
「ダーリャだ!」
それは、久方ぶりに帰って来た母親に見せたいものがあるのだと、少しばかり前に庭に出て行ったはずの少女、ダーリャの悲鳴だった。
即座に立ち上がった女主人は、駆け出しながら後方へ指示を飛ばす。
「私が出る!
ユトゥヌ、幼子たちに後を追わせるな!」
「はい! お母様も、お気を付けて!」
「…………あぁ」
彼女の正体が何者であるか知っていて、なおその身を案じてくる娘に面映い想いを抱きながら、女主人は少女の元へと急ぎ走った。
「……くそっ、これだからガキは!」
尻餅をついたままの状態で、脅え涙を流し後ずさろうとしている少女。
その動向を眺めて、いかにも荒事に慣れ親しんでいそうな厳つい様相を呈した男は、ギリと歯を喰いしばり悪態をついた。
「っかやろぉ、お前がその汚ぇ面で凄むからイケねぇんだぞ!」
「んだとテメェ!?」
仲間の発言に腹を立て、彼は怒鳴り声を上げながら素早く腰の剣を抜く。
その刃が太陽の光を受け、ギラリと光った。
男が凶器を手にしたことで、過去その身と心に深く刻み込まれた恐怖が鮮明に蘇ってしまい、自らも意識せぬまま少女は悲痛な叫びを上げてしまう。
「ィヤァぁあーーーーーーーーッ!!」
「ッチ、ますます酷くなっちまった。
おい、タイサイ! お前、ちゃんと責任取れよ!」
「っあー! チクショウが!」
イラつき片手で髪を掻き乱しながらも、己の剣が更なる脅えの呼び水となったのだろうと判断した男は、それを素直に鞘に戻して少女に向き直った。
「おい、ガキ!」
「ヒッ! ヤ、こ、来ないで! 来ないでぇえええ!!」
そんな少女の必死の言葉を無視して、男はじりじりと彼女の元へ歩み寄って行く。
元来ガサツで物事の機微を理解しない彼に、少女の心境など慮れるはずもなかった。
「っだー! ピーピー喚くんじゃねぇよ!
俺達ゃあなぁっ……!」
「痴れ者共がッ!!
薄汚い身を我が子に寄せるな!」
瞬間。荒れ狂う風が男二人に襲いかかり、地より吹き飛ばされたその屈強な肉体を後方に並ぶ石塀へと容赦なく叩きつける。
「がふッ!!」
「ぐわぁッ!!?」
衝撃が石塀に幾筋ものヒビを入れた。
男たちはズルズルと無抵抗に地に落ちた後、時おり赤を交えながら激しく咳き込む。
それを尻目に颯爽と姿を現した女主人は、素早くかつ優しく少女を抱え上げた。
「無事か、ダーリャ。」
「かっ、母様ぁーーーっ!」
ようやく母の存在に気が付いたダーリャは、その暖かな腕の中で小さな身を震わせたかと思うと、すぐにわんわん大声を上げて泣きじゃくった。
彼女の姿は痛ましく、女主人は背を何度と擦ってやる一方で、腹の底から湧き上がって来る怒りを感じていた。
「母様……とすると、アレが例の……?」
孤児院の外から部下二人の様子を窺っていた第三の男が、拡大鏡を持っていた腕を下ろしながら、そう呟き目を細める。
部下と同じく鍛え抜かれた肉体を持っていながら、彼の佇まいからはどことなく上品さが感じられた。
「老婆であるとばかり思い込んでいたが、よもや、あのような解語の花のごとき人であったとは」
男の瞳に映る女主人は、幼子の寝物語に登場する水精霊がもし実在するのならば、おそらくこのような姿をしているのだろうと思わせるような、清廉な美しさを纏っていた。
腰ほどまであるクリアブルーの長髪は、空をそのまま切り取ったかのような透明感があり、揺れる風に合わせてサラサラと流れている。
強き輝きを内包した瞳は、澄み渡った海のような得難きエメラルドグリーンで、感情に共鳴するように冷たく暖かくその色を変転させていた。
また体型などはゆったりとしたローブに隠されていたが、陶器のごとき白の肌と濡れる唇の妖艶な赤のコントラストは、それだけで数多の男を狂わせるであろう色香を漂わせている。
いっそ恐ろしさすら感じさせるほどの美女だった。