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闇に生きるものへの鎮魂歌《レクイエム》

「私が注意をひきつけてくるから、その間に」

 そう言いながらココは微笑んだ。

「な、何を……」

 悪い冗談だと思った。刃をあてがわれたような、ただただ寒い感覚に襲われる。ずっと一緒にいたのに。いまさら誰かを犠牲にするなんて出来るわけがなかった。

 そんなことを提案するなんて信じられなかった。

「クー、ロッツ。前にとっておきの場所へ連れて行くって約束したよね。覚えてる? 守れなくなっちゃうかもね。ごめん」

 いつものように明るくふるまっていた。普段通りだった。そして、笑っているかのようにも見えた。

「本当にごめんね。そうだ。あんたたちのとっておきの場所ができたら教えてほしいかも」

「ココ!」

 ロッツがさえぎる。あくまで静かに、だけど。

 冗談好きな彼女のことだからと少しの期待を胸に、それでも不安にまみれながらココを見た。その姿からは、穏やかながらも覚悟の念がにじみ出ていた。

 ――本気、なんだ。

 見ていられなかった。ひたりひたりと過ぎゆく時間が、体の芯まで凍りつかせていくような錯覚に陥る。

「……それ、本気?」

 ロッツがつぶやく。足の怪我のせいで少しばかりよろめいたけど、しっかりと地を踏みしめていた。

「私なら、大丈夫だけど? こんな怪我くらいどうってことない。だからココ、行く必要なんてないの!」

 怒りを含んだ様子に驚いて覗き込むと、ロッツは今にも崩れ落ちそうだった。こんなロッツを今まで見たことがない。

 二人を見ているだけしかできなかった。そうしている私を、ココはいつものように茶化す。

「こら、そこの挙動不審者。しっかりしてもらわなくちゃ困るんだけど。私のことなら心配しなくて大丈夫だって。私の足なら逃げ切れない相手じゃないもんね」

「そんな……。今までだって、どれだけ帰って来れたって言うの! 無理よ!」

 ココはロッツをこづくと、少しおどけた調子で続ける。

「こらこら。ロッツはそんな柔な子じゃなかったはずでしょー。私たちの中じゃ生まれたのが一番遅いくせに、いっつもお姉さんみたいで。うるさいのは勘弁だけど、結構頼りにしてるんだから。しっかりしてよね、お姉ちゃん?」

 あっけらかんとしていた。

 一度外の様子をうかがったかと思うと、そっと顔を近づけてきた。

「弟たちのこと、頼んだからね」

「ココ!」

 彼女は私の制止を振り切り、建物の影から飛び出した。あっという間だ。

 ココのあとを追っていく影が、いままで以上にとてつもなく大きく見えた。


「……の……せい?」

 ロッツがうなだれる。心なしか体が震えているようにも見えた。

「私の、せいなの?」

「し、しっかりしてよ! ココだって言ってたじゃない! しっかり、って」

 抜け殻のような彼女を見ていると自分までどうにかなってしまいそうだった。今のは彼女へだけでない、自分への激励だ。

「私が……私が、走れないから……。私のせいで……」

 壊れたおもちゃのように同じことを何度も繰り返した。見ていられなかった。いつも冷静なロッツがこんな風になってしまうなんて。ロッツが自分を責めるのも分からないでもない。けど、それは間違ってる。理由は分からないけど間違ってる。絶対。

「私のせいで……。もう、嫌。こんなのって……」

 すべきことが見つからなかった。触れることさえできなかった。さわったとたんに、この子まで消えてしまいそうな気がした。

 ロッツは、全部嘘なんだと、そうであってほしいと嘆いていた。

 私だって悪い夢なんだって思っていたい。けれど、私たちを残して去っていったのは確かにココで、今この場所にいないのもココ。そして、一足早く遠い所へ行ってしまうのも、おそらくは。いくら待っても、あの明るい激励が飛んでくるわけがない。

「夢なんかじゃ……ないんだよ」

 漏れ出たのは、本当に私のものだったのだろうか。

「ホラ、早く帰ろう」

 気を張っていないと、私の存在まで闇にかき消されていきそうだった。

 ここにいるのは危険だ。とにかくここを離れなければと、自分で自分を追い立てる。ロッツも、無理やりにでも連れて行く。怪我をした足が痛々しかったけど、今はそんなことを気にしている場合でもないし、気にするならなおさらだ。


「早く」

 彼女はまだ魂の抜け殻状態だった。直視できなかった。私とロッツとの違いなんてほとんどない。私は、紙一重で理性をとどめていられるだけ。

 そうして一歩踏み出す。自分を騙して一歩、また一歩。ロッツを押し出すようにしてまた一歩。突然抵抗が消えた。驚いて見ると、ロッツは地面をしっかりと踏みしめていた。

「大丈夫。もう、歩けるから」

 シャンとしたその姿は、少し影がちらついたけど、普段のロッツそのものだった。

「ごめんなさい。クーも同じなのにね」

 消え入りそうになりながらももう一度謝罪すると、ロッツは歩き出した。まるで何事もなかったかのような雰囲気が妙に恐ろしかった。

 やりきれなくて視線を落とす。視界に入った足の怪我は、まぎれもなく本物。いつものロッツが戻ってきたとはいえ怪我が消えてなくなるわけでもない。どうしても引きずる形になっていた。

「本当に、大丈夫?」

 私は、何がしたいのだろう。大丈夫なわけがない。私だって今にもつぶれてしまいそうなのに。ロッツは私なんかの比ではないはずだ。……ロッツのせいじゃ、ないのに。

「……いつまでもここにいたら危ないでしょ」

 しかりつけるような、ちょっと偉ぶった態度。普段どおりなのに、とてつもない違和感に襲われる。無力さが悔しかった。

「こんなところにいつまでもいるなんてココに申し訳が立たないじゃない」

 ロッツは振り返らなかった。やりきれない思いがこみ上げてきたが、グッと押さえ込んだ。彼女の姿が見えないように、見ないようにして彼女の後を追った。


 裏路地にさえ入ってしまえばこっちのもの。やつらも追ってはこない。考えることは同じなのかロッツの歩調も次第に早まった。

 彼女が三つ目の角を曲がった時だ。

 妙な臭いが辺りに漂っている。心なしか体がしびれる感じがした。

「クー! 早く逃げて!」

 ロッツが言い切るよりも早く、私とロッツの間を白い煙が遮った。ロッツの姿が白くかすんで見えない。

「はやくッ!」

 最後の力を振り絞るように警告を発すると、ロッツはその場で崩れ落ちた。

 思わず近寄ろうとしたがロッツは鈍い動きながらも全身で、逃げて、と伝えていた。幸い、私自身は煙の直撃を免れたせいなのかまだ動ける。私が一歩後ずさると同時に、ロッツはそのまま力尽きた。

 再び白煙が彼女を覆い隠してしまうのを見届け、駆け出した。


 ――私は、逃げた。

 煙からではない。ほかでもない、仲間から。

 キリキリと痛む。

 どこも怪我をしていない。ただ締め付けられる。キリキリ、キリキリと。走れば走るほど痛みが増していくような気がした。

 体の痛みは問題にならなかった。内の痛みに比べれば何でもない。

 追いかけてくるような痛みの波に、目の前が霞んだ。

 どこをどう走ったのかも覚えていない。

 ひたすら、ただひたすらに走った。


 一息つける場所にたどり着いた時には、白煙のピリピリとした嫌な感じも、妙にまとわりついていた臭いも消えていた。ホッとすると同時に押さえきれない思いがドッとあふれる。

 その場に貼り付けられたように動けなかった。 

 泣いていた時間はそれほど長くなかった。いや、泣いていたというのも変な話かもしれない。涙なんて一滴も流せない。奴らとは違うのだ。私たちの涙などとうの昔に凍りついて、流れることなどない。

 今までにもこういうことは少なからず体験している。なついてくれていた妹、頼りにしていたお父さん、まだ小さかった甥っ子。みんな、いつの間にか消えていってしまった。今日だってそう。同じように消えていった。

 慣れてしまったというよりは悲しむ回数が多すぎて壊れてしまったに違いない。こんなときにでも笑おうと思えば笑えるだろう。

 私はもう闇に侵されているのだ。心は暗闇の中を這う、冷え切った水のよう。覗き込んでも闇しか映らない。もしかしたら生まれた時から、闇の一族になったその瞬間から。

 どうせならさっさと何も感じなくなってしまえばいい。私には、鈍い光でも残酷すぎる。闇の中なら、無力さと自分のふがいなさに気づかなくて済むのだ。


 暗い壁に沿うようにとぼとぼと歩き出す。ねぐらまでは少し遠い。今の私には、一生かけてもたどり着ける気がしなかった。

 誰でもいい。仲間がふらりと現れてくれないだろうか。無理やりにでも、連れて行ってくれないだろうか。たとえば……そう、ココ。

『こんなところで何やってんの、せっかく逃がしてあげたのに。命がけだったんだよ、命がけ! ほらほら、さっさと逃げた逃げた』

 なんてせかして。きっとロッツのことには触れないのだろう。いつもふざけていたけど、誰よりも気を利かせてくれたもん。

 ……都合の良い夢。自分で自分をあざ笑う。

 それからは何者かに導かれるように、ひたすら歩いた。


 そう遠い場所ではなかったように思う。暗がりに倒れこむ影があった。助けなきゃ、とは思わなかった。もう少しの元気があれば、助けて、とすがりついたに違いない。

 ふらふらと歩み寄って、声をかけようとして、一歩手前で息を呑んだ。

 確かに、そこにいたのは仲間だった。その姿は、生きているとは到底思えないものだったけれど。体中から力が抜けていくのを、ただ感じているだけしかできなかった。

 きっとこの世には、私たちを弄ぶ悪魔しかいないんだ。せめて何も分からないくらいになっていれば知ることもなかったのに。気づくこともなかっただろうに。気づかないフリができたのに。

 ――いや、悪魔には感謝すべきなのかもしれない。もう一度引き合わせてくれたことに。

 変わり果てたとはいえ、忘れるはずもない。



「ココ……、お帰り」



 今一度めぐり合えた友にそっと触れた。反応はない。どうしてか嬉しかった。

 私たちの再会を見計らったかのように、光が差し込む。反射的に身構えたのはほんの一瞬。ゆるゆると伸びてくるそれは、私たちが思っていたような鋭い刃でも恐ろしい怪物でもなかった。

 ――大いなる母の腕。全てを包んでくれる、優しい腕。今までおびえ逃げ惑っていたものは、これほどまでに柔らかく温かいものだったのだろうか。

 光の帯の中、体の内にじんわりとひろがっていくものがあった。暖かかった。振り返る気は、もうない。


 とっておきの場所なら、もう見つけてたよ。


 そう伝えたのとほぼ同時に大きな影が私たちを飲み込んでいった――。

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