第七章§臆病者
「クソがっ……」
悪態を地面に向けて放り投げる。
ずっと、俯いていた。何も見たくなかった。
「くそ、クソ……なんなんだよ……」
わりの良いバイトだ、大学に通っている先輩にそう誘われて始めたことだった。
仲良くやっている男女数人の集団をある建物にまで連れて行く。それだけで一人頭一万になるバイトだった。犯罪に関わる仕事ではない、安心していい。
最初は、美味すぎる話だと思った。
まったく信用できなかった。
先輩に騙されて体よく扱われるだけだ、仲間にもそう注意を促した。
友人は一万は魅力的だけどそれもそうだな、ヤバい仕事くせえし――と言うことを信じて受け入れてくれた。
それから数日と経たないうちに、先輩が飲み会に連れていってくれた。
女子大生、女子高生もその場にいた。華やかな時間だった。
工業高校に行った為、普段、女子と接することは少なかった。
二年が経った頃には、隣を見れば女子がいた中学校時代に思い馳せることもあった。
電車に乗り、可愛い女子高生がいればつい目で追うようなこともあった。
コンビニでバイトしている女子高生を前にしたら、名前を聞いてみようか、メルアドを聞いてみようかと葛藤することもあったが、結局できたことは一度もない。
学校で得た友人達は良い奴ばかりで、工業高校に来たことを後悔したことはないし、後悔しようとも思っていなかった。
だが、女子の姿は魅力的だった。彼女が欲しい、ずっとそう思っていた。
先輩は、仕事をやるなら女子を紹介してくれると言った。
全員に女子大生でも女子高生でも見繕ってくれる、と。
心が揺らいだのは、自分だけではなかった。友人達にもその言葉はひどく魅力的に聞こえていただろうことは、すぐにわかった。
誰かが「やってみよう」そう言った。
金が手に入って彼女も出来たら最高じゃないか。
ヤバい仕事だったらすぐにやめりゃいい。
ある程度金を手に入れたらとっとと逃げよう。
こんな事出来るのも学生のうちだけだ。
ヤれるチャンスだろう。
とりあえず一回だけ、みんなでいっしょにやろうぜ。
口々にメリットを言い合っているときには、もうすでに全員やる気になっていた。その場で先輩に連絡し、手伝わせてくれと言った。
始めはぐるぐると香里駅周辺を回るだけで一日が過ぎていった。
それらしいターゲットを探して、見つけることができても「あれ良さそうじゃね」「人数多すぎないか。こっちがやられるかも」「回りに人が多すぎるだろ、通報されるかもしれねえよ」「道変えるか」と弱気な言葉が次々に飛びでてきて、実行には移せなかった。
仕事をやるとしても、実際に動くとなると乗り気ではなかったのだ。
どうしても、やることが犯罪じみたことに思えてならなかった。
だが、あるとき、男女二人ずつのグループを見つけた。
男女二人ずつの四人以上、それは連れて行く為のグループとして最小限の構成だった。大通りから外れた場所でその四人は歩いていた。
好条件過ぎた。誰も悪条件をあげることはできなかった。後には引けなかった。
全員で四人の前に立ちはだかり、
「……なあ、ちょっとこっちに付き合ってくれねえ」
と言った。
男四人に対して男女二人ずつの四人だ。
暴力は振るうつもりはない、金もとらない、ちょっと手間を借りるだけだ。そういうと、その四人は怯えた様子でついてきた。
四人をビルにいた人間に引き渡し、封筒に入った金をもらって外に出た。
息をするのが難しくなるほど心臓が揺れていた。
やってしまった、やっとやれた。
混在していた。混乱もしていた。なにをやってしまったのか、なにをすることができたのか。
誰かが「一万円だよ、おい」と言った。封筒を開けると、確かにそこには一万円札が入っていた。
ははっ、と誰かが笑うと、全員で盛大に歓喜の声をあげた。ガッツポーズした、ハイタッチした、肩を組んだ、雄叫びをあげた。
その日は今まで入ったことのなかった焼肉屋に全員で行った。一人頭四千円、とてつもなく高かった。けれど、食べた。
舌鼓と猥談と雑談で時間を埋めた。今日、建物に連れて行った四人のことは誰も口に出さなかった。口に出してはいけない気がした。
もうちょい、続けよう。それを言ったのは、もしかすると自分だったかもしれない。
記憶が定かではない。誰がそう言ってもおかしくない雰囲気だった。
二回目は六人のグループが相手だった。女が女子高生で、男が大学生だった。
一人が抵抗の姿勢を見せたが、全員で適当に殴り、最後には「俺は空手やってんだぞ」と前蹴りを食らわせてやると言うことを聞いた。
雑魚だ、と思った。
三回目、四回目、回数重ねると、思った以上に簡単に仕事がこなせることにわかった。
ちょっと刃向かってくる人間も、空手のおかげで倒すことができた。
空手は三年続け茶帯まで取ることが出来たが、ある時、同じ道場の友人との組み手で腕が折れたときに辞めた。
腕が折れたことよりも、友人の強さに恐怖した。やっと追いついた、その気持ちが簡単に砕かれた。友人が何度も謝ってきたが、自分には向いていなかったんだ、そう告げて辞めた。
恨んでいたわけではない。自分より強い人間、そして自分より強い人間であるにも関わらず、その心根が真っ直ぐであるという事実を恐怖して辞めたのだ。
強さとは、ただ純粋に強いものを指すことがわかった。
自分の臆病を直したくて始めた空手は、その臆病さによって辞めることになったのだ。
四回目の仕事を終え、先輩に報告したときに紹介してもらった女子高生が彼女になった。
自分にはもったいないと思えるぐらい、明るく、優しい子だった。
仕事を重ねながら何度がデートをし、ラブホテルにも入った。彼女は受け入れてくれた。
はじめに期待した通りのことになった。一緒に仕事を始めた友人達にも、それぞれ彼女ができた。
女子大生を彼女にした友人は散々からわれていた。自分も一緒になってからかった。
金にも困らなかった。遊びに費やすだけではなく、服も買うことができ、彼女にプレゼントをすることもできた。
なにも、憂うことはないように思えた。
このまま過ごしていけると、そう思っていた。
いつものように、ターゲットを探す。全員、慣れたものだった。
男女三人ずつ、六人のグループを見つけたときは今日も金が得られると思い、喜んだ。
全員ほくそ笑んでいただろう。都合良く、そのグループは人通りの少ない場所へと向かっていた。
女をどこかに連れ込むつもりなのかもしれない、声を掛けるチャンスだった。
一瞬だった。たった、三撃。
それだけで二人がやられた。
長い棒を持った雛橋大学付属の制服を着た男は、なんら力んだ様子はなく、悠々と立ち、最後の一人の一撃を軽くさばいた。
いつ攻撃したのかはわからなかった。三人目が倒れ、自分一人になった。
棒を持った男が踏みだしてくる。
蹴るのか、突くのか。どこを狙えばいいのか。まったくわからなかった。
どこに打ちこんでも当てられる気がしなかった。
圧倒的なその強さは、かつての友人の姿に重なった。殺される……、そんなはずはない、友人も殺す気など決してなかったはずだ。
だが、それははっきりと目に映る。自分が殺される映像がそこに転がっている。恐怖が脳裏を支配した。
気づいたときには、壁に押しつけられていた。どうしようもなかった。完全に負けた。負け犬に勝利の目などあるはずがない。
だが、負け犬であることを自覚しても、完全に服従してしまうこともできなかった。臆病さがそれを許さなかった。
仕事を重ねるうちに、気づいたのだ。自分たちは怪しい宗教団体の勧誘の手伝いをしているのだと。
それ以上は調べなかったが、それだけで十分だった。これ以上、首を突っこむことなどできるはずもなかった。
目の前の男も、自分たちの背後も怖かった。どちらとも向き合うことができなかった。
「構えて迷ったら、自分の動きだけ繰り返せばいい」
男はそう言って去っていった。
馬鹿にしているのだ。こいつは、馬鹿にしている。
突きも蹴りも出せなかった自分を馬鹿にしている。そう思っていたのに、走り去っていく背中に罵倒を投げつけてやることすら出来なかった。
それが自分より圧倒的に強い相手だと、もうわかってしまっていたからだった。
みじめだった。なにをやっているのかと、歯噛みした。
自分の動き、そんなものがどこにあるというのか。
無様に殴られ、蹴られ、防御すらままならずに打ちこまれて骨折して辞めた結果がそこにあるのだ。
恐怖に駆られ、痛みから逃げ、ここまで来たのだ。
わかっている、わかっていた。
金も、彼女も、逃げた結果なのだ。華やかな世界がそこにはある、そう思い込んで逃げていった場所だった。
臆病でさえなければ、こんな仕事はすぐにでも辞めることができるはずだった。
怪しい宗教団体が絡んでいるのだと知ったとき、すぐにでもそれを糾弾することだって出来たはずだった。
それをせずに、ここまで来たのだ。
化け物が現れたときには、これが報いなのかと思った。
中空に打ち上げられ叩きつけられる。壁に吹き飛ばされ自転車を巻きこんで倒れる。胸を激しく叩きつけられ崩れ落ちる。
誰一人、何の抵抗もできなかった。見えない力にされるがまま全員、こんなところでこのまま殺されるのだと思った。
だが、そうはならなかった。先ほど去っていた男が、化け物を相手に殴り掛かっていた。
そして言ったのだ。「とっとと逃げろ」と。
友人を助け起こして、起きられなかった奴を担いで逃げた。走ってその場を離れた。
行く場所は決まっていた、先輩達が待っているバーだ。
今日もあそこには華やかな場所があるだろう。彼女達も待っているはずだ。
そう考えながらも、たまらない悔しさが内からあふれ出ていた。
楽しいはずなんだ。金で豪遊して、女と遊んで、先輩達と騒いで、それはきっと誰もが認める楽しいという価値観の中に存在するもののはずだ。
「逃げろ」
そう言ったのだ。
逃げろ。
化け物と戦っている奴が、後ろにいる人間に逃げろと。
逃げるべきはお前だ、そのはずだ。そんな化け物と戦わないで、逃げろ。
もしあの男が友人だったら、自分はそう言えただろうか。
強い奴は良いだろう。なんだって言える。好きなように振るまえる。
だが、自分にはそれがないことは、何よりわかっていた。
それでも――逃げている自分の姿を見ることは、したくなかった。だから俯いた。なにも見なくてすむように。
「お、おふ……」
「大丈夫か」
「あ、ああ」
「散々だったな」
「まったくだ。雛橋の奴もたいがいだったが、まさかあんなのが出てくるなんて」
「あれなんだったんだ」
「さあ……なんだあれ」
「なんだろうな……」
友人達の声を遠くに聞いていた。
一緒にここまで来てくれた友人だった。馬鹿なことも、真面目なことも一緒にやってきた友人だ。
臆病者なのだ。臆病者の自分が、何を言えるだろうか。この友人達に。
これでこの友人達と一緒にいられるのは最後になるかもしれない、そう思った。
けれど、臆病者だからこそ、言わなければならない。
「なあ、もうこの仕事、やめないか」
一瞬、しんと静まり返った。言葉を続ける。
「あんなヤバいの相手にしてらんねえよ、もうやめようぜ」
友人達はしばらく何も言わなかったが、やがて言った。
「そだな、潮時だ。やめよう」
「就職にも影響出そうだしな。早めに手引くか」
「いいな、全力でバックレようぜ」
それぞれ言い合って、笑っていた。ホッと息をついた。
今いる場所を捨てても、この友人達がまた一緒に居られるなら臆病者でいい。分不相応な場所など捨ててしまえば良いのだ。
「あー、でもカノジョどうするよ。先輩関わってんし、やっぱ無視?」
「着拒するしかないかね。うわー、ヤッときゃよかった。捨てときゃよかった」
「え、お前まだしてなかったの」
「うるせー、オレは純愛路線が大好きなんだよ」
「うわ、なんだこいつアホか、もったいねえ」
「心配すんな、俺がカノジョの友達の友達まで知ってるから、そっち方向でまた女探そうぜ」
「おお、こいつ、やりおるわ」
「マジ神、今日から崇めてやる」
「ふほほほ、供え物ならいつでも受けつけてるからな」
「コッペパンならあるが」
「いや、別に腹は減ってねえけどおいこれ明らかに腐ってんじゃねえか! ぐにゃぐにゃしてんぞ!?」
「さっき気づいたんだよなあ。袋怖くて開けられねえ」
「見るからにヤバ過ぎてマジやべえなこれ」
「うわすげえ臭え! 袋破れたんじゃねえの」
「あーあお前が叩きつけるから」
「ウソだろ、俺のせいかよ」
散々馬鹿話した後、どうせ近くまで来たのだから最後に一度だけバーにも顔を出しておこうということになった。
たった一月程度とはいえ、彼女として付き合った女子と会うのもこれで最後なのだ。
何食わぬ顔して「またな」と出ていってそれでさよならだ、そういうことになった。
雑居ビルの地下一階にあるバーは、もともと先輩達が女を連れ込む場所として使っていたところらしい。
マスターとは馴染みの関係で、女を酔わせて持って帰っても何も言われないと話していた。
先輩達はいつも騒がしく楽しんでいて、他大学の女や女子高生、たまに女子中学生なんかも連れ込んでいたから、バーには倦怠感が漂っていることはなかった。
ただ、時々ついていけないと思うことはあった。中学生を孕ませた、女子高生に売りをやらせた、某大学の女を旅行先で数人でまわした、そんな話を聞くとさすがに友人達と一緒に気まずい思いをしたものだった。
先輩達は大学生らしい楽しい生活を過ごしていて、それで自分達にもおこぼれをくれようとしたのだろうというのは、なんとなくわかっていた。
根本的には、悪い人ではなかったのだ。少なくとも、後輩という観点から見れば、良い先輩だった。
しかし、もう今後関わることはないだろう。友人達もそのつもりでいることは、なんとなくわかった。こいつらがいて良かった、そう思った。
バーの前に来て、いつも通り扉を押し開ける。
やけに静かだな、最初はそう思った。
チリン、と来店を告げるベルの音が鳴る。
一人、細身の男が入り口に背を向けて店の中央に立っていた。身長はそれほど高くなく、一七〇センチより少し上ぐらいで、髪にパーマが掛かっている。
来店の音に気付き、男が振り返った。
笑っていた。
三年。長くはないだろう、だが決して短くもなかった。
最初はすぐに辞めるつもりだった。こんなもの、続けてどうなるんだと思った。
突きの練習、蹴りの練習、受けの練習、そして発声。
ひたすら、繰り返し、繰り返し。
二月経つと、自分が上手くなったなと感じた。
もう二月経つと、こんなことやっぱり意味なんてないと思った。
半年経つと、無心で練習に臨んだ。
一年経ったときには、楽しくなっていた。
二年経ったとき、自分が強くなったと思った。
そして三年後、それが勘違いだったと知った。
臆病者はどこまでいっても臆病者で、なにひとつ変わることはできなかったのだと。弱いままだったのだと、気づかされた。
それでいいのだ。逃げられるまで逃げればいい。
金も、女も、事実から目を逸らして逃げ続ければいくらでも手に入る。正しいことなんていうものは強い奴が知っていればいい。自分には関係のないことだ。
振り返り、扉を思いきり開けた。
逃げるのだ。逃げれば、また金を手に入れることができる。
女を手に入れることができる。臆病で居続ければ、いくらでも、手に入れ続けることができる。
そうして、楽しく毎日を過ごすことが、きっとできるだろう。
友人三人を突き飛ばして、そして扉を閉めた。
――臆病者は、どこまでいっても臆病者だ。
扉に背を預け、向き合う。
――だから、友人を失うなんて恐ろしいことは、絶対にできない。それもわかっていた。
「逃げろ!」
バーの中には、男が一人いた。一人しかいなかった。
マスターも、先輩も、女子大生も、女子高生も、女子中学生も、いなかった。
ただ、人の姿をした何かが血を撒き散らして転がっているだけだった。
いままで嗅いだことのないような強烈な臭いが立ちこめていた。鼻が曲がるような臭いに、なぜか目元が熱くなった。
「逃げろ!」
後ろで扉を叩く音が聞こえる。名前を呼んでいる声が聞こえる。
「とっとと逃げろぉッ!」
男が身体をこちらに向け、ゆっくりと歩いて来ながら首を傾げた。
恐ろしかった。
圧倒的な強さ、それが目の前の男にもあることが感覚でわかった。絶対に勝てるはずはないと、もうわかっていた。
「お、俺は、空手をやっていたんだ!」
男が近づいてくる。へらへらと笑いながら。
「三年間、サボったことなんて一度もないんだ!」
臆病者だからこそ、サボるなんて大それた真似はできなかった。面倒でも、つまらなくても、苦しくても、ひたすら繰り返した。
正面に構える。手が震えて上げられなかった。それでも、構えた。
繰り返す。繰り返すのだ。
何千、何万回と繰り返してきた。そのうちの一度、たったそれだけだ。
それでも動けない、そう思っていた。
男が間合いに入ってくる。
「オオッ!」
声を出すと、身体が、動いた。
正面に突きが出た。
何の変哲もない、見慣れた、いつも通りの突きだった。
しかし、届かなかった。間合いにあるにも関わらず届かなかった。空気の壁のようなものにさえぎられていた。
「お前らは、もう用済みになったんだあ。悪いなあ。ちょっと痛めつけるだけのつもりだったんだけどなあ、全員死んじまった。人間相手にするなんてひさしぶりでなあ……いやあ、まいったな」
残心。腕を払って、半身に構え直す。
「オオォッ!」
回し蹴りを放つ。当たらない。すぐに戻し、構えをとる。
「……はあ。やれやれ、なにやってんだ、お前。クズがさあ、このボクをどうにかできるとでも思うわけ。ここにいたやつら、全員大人しく死んでくれたんだけどなあ。ちょっと気味が悪いぐらいやかましく泣き叫んでたけど。面白かったぜえ、女盾にして逃げる男の姿とか。奴隷にでもなんでもなるから殺さないでとかほざく女とか。でもお前はなんだかなあ、これ。なんて言うんだろうなあ……」
足を動かしながら、勢いをつけ、前蹴りを放つ。届かない。
「気分わりぃわ」
カウンター前にあった椅子がすさまじい勢いでひとつ飛んできた。
避けられない。椅子を右手で突き上げ、防御する。それでも防ぎきれず、椅子の足が額を直撃した。
どん、と鈍い音を立てて椅子が床に落ちる。
額から血が流れるのがわかった。拭う必要はない。
「オオッ!」
突きから蹴りへの二連、三連撃を加える。
男は一歩も動かずそれを見ていた。
「なんとか言えよ、なあ。あ、そうだ。女やろうか。ほい」
男が後ろを向くと、人間だった何かが一つ、浮かび上がって飛んできた。
目の前にまで来る。顔が潰れ、身体が潰れ、それはもう人間ではないことは間違いなかった。
血にまみれたその服には、見覚えがある。いつだかにデートしたとき、プレゼントしたものだ。
息を吐きながら、男を見る。
呼吸を少なくし、鼓動を落ち着かせていく。
「オオォッ!」
突きの連打、蹴りの連打、ただひたすら、繰り返した。目の前に誰がいるかなど、知ったことではなかった。
倒すのだ。
ただ、倒す。
負けてもいい、死んでもいい。
構えて、打つからには、倒すことだけを考える。
「オオッ!」
身体を反転させる。
飛び後ろ回し蹴りを放つ。
それは、空手の友人にやられた一撃だった。
三年間、そのすべてを粉砕した、最後の一撃だった。
これなら――そう思った。
今日までこれこそ最強の一撃だと、ずっと思っていた。
だが、それでも。
それすらも届かなかった。
「めんどくせえ奴だなあ、もう死ねよ」
男が舌打ちすると、全身に途方もない圧力がのしかかってきた。
一瞬、血が噴き出そうになる。身体が押され、扉に押しつけられた。
もう駄目だと、そう思った。
もうここまでだろう。すべて終わった。すべて無駄だった。
負けて、死ぬ。それだけだ。
臆病者に相応しい末路だろう。
逃げ続け、負け続け、そして最後は逃げ切れなくなって死ぬ。なにもかも失って死ぬ。
そういうものだ。
「……ハァ?」
それでも、あの日からずっと考えていた。
あの一撃。
最強の一撃。
あれを避けて、反撃する自分の姿を、ずっと想像していた。
あのときに戻って、来るとわかっている飛び後ろ回し蹴りを避けて、反撃をして勝つ。
過去が変わって。
すべてが変わって。
そうしたら、どうなっていただろうと。
空手を続けていただろうか。
臆病者では、無くなっていただろうか。
自分のことを強いと、そう心から信じられるようになっていただろうか。
臆病者だった自分と一緒にいてくれた友人達は、そこにいるだろうか。
「オオ、雄ォッ!!」
出せるだけの、今持っているものすべてを声に出した。
鼓膜が震えた。
自分の声が遠くに聞こえ、しんと静まりかえった。
左手で一本目の中段正拳突きを放つ。
「うっるせえなあ、目の前で叫ぶなよクズが、死ね」
届かない。
その瞬間、身体が潰れる音がした。
突き出した左手が奇妙な音を鳴らし、血を吐きだして板っきれになった。
右手を引きながら踏みこむ。
目から何かが噴き出る。片目が見えなくなった。どちらの目だろうか。どちらでも構わなかった。
「派手に散ってんなあ、ほら、もういっちょ」
左腕がはじけ飛ぶ。
肺が潰れたような気がした。だが、もう、必要ない。
最後に発声をしようと思ったが、声は出なかった。
心の中で一度だけ、発声をした。
それだけで十分だった。
右手で二本目の上段正拳突きを、放つ。
§
顔面に衝撃があったと思ったときには、男は後ろに倒れこんでいた。
「は?」
何が起きたのか。さわって見ると、鼻が変な方向に曲がっている。
なんだこれは、いったいどうなったらこうなるのだろうかとただ不思議に思う。
前方には、ゴミのような女で作った展示品が転がっており、その先に制服姿の男が一人立っている。
そう、先ほどまでこの男が目の前にいたはずだ。
どうして自分は倒れこんでいるのか。
瞬間、男が突き出している手を見て、悟った。
殴られたのだ。
この自分が、芽吹きを知る人間が、畜生にも劣る凡愚風情に。
「はあ? はあァ? なにしてくれてんの、おい、なにしてんだよ貴様、皮一枚ずつ剥がしてやろうか」
突き出されている右腕を吹き飛ばす。男は何の反応も示さない。
見開かれている片目を潰す。反応はない。
胴体を壁に押しつける。さすがにこれで痛みを感じないということはないはずだ、そう思ってよく見ると、もう男は死んでいた。
心臓が潰れている。先ほど潰したときに潰れていたようだ。
「……あァぁああっ!」
両手で激しく頭を掻きむしる。はらわたが煮えくりかえった。
この自分にこんなことをやっておきながら何を勝手に死んで楽になっているのか。死ぬより恐ろしい責め苦を、死ぬより恐ろしい現実をいくらでも見せてやれたはずなのに、なぜ許可も無しに勝手に死んでいる。
男の身体をサイコキネシスで持ち上げ、弾く。
バラバラに、さらにバラバラに。
原形の一切を失うほどに細かく吹き飛ばし、そして潰した。
「はあ……ッチ、なんでボクがこんなクソ共の相手しなくちゃなんねえんだろうなあ、全員殺そうかなあ」
もう今となってはただの有象無象で、何の価値もない『新緑の従者』にわざわざ付き合ってやっているのは、木岐原時雨を殺させてくれるという言葉に乗ったからだった。
居場所さえわかるならとっとと殺しに行くのだが、『新緑の従者』は準備ができるまで教えられないなどとのたまう。
若い男女を催眠によって超能力者にし、超能力者を大量に作るというのだ。
そんなものは必要ない。自分一人で十分だ。
たかが人間一人を殺すことなど造作もないことだ。
ゴミをいくらかき集めても自分一人の足下にも及ばない。無駄な時間になることはわかりきっている。
この自分に匹敵する、超えるとすれば、あの子だけだ。どこにいるのだろう。
崇高で、美しく、愛らしく、人間の中で唯一存在を許していいと思える少女。
もう三年が経った、今頃は素晴らしく精巧な芸術品になっているだろう。
だが、今はこの腐臭すら見える造型の醜い凡愚共で作った展示品を回収しなければいけない。深甚なる人とかいう凡愚に金を吐き出させる為、超能力がどういうものかと示す材料にするという話だった。
金など、全員殺して奪えばいいだけなのに、何を考えているのか。凡愚の考えていることはあまりに面倒だった。
こんな作業を、今日だけで後五回も繰り返す必要がある。
残りは全部で八〇体ほどだろうか。
「あぁ、痛い、イテぇなあ、ちくしょうが、クソ」
鼻にじくじくとした痛みがある。
殴られるというのは、こんなに痛いものなのか。
一度も殴られたことなどなかった。凡愚に身体を触れられることなど、あり得るはずがないと思っていた。
思い出すと、苛立ちに頭を支配された。
なぜこの自分がこんな思いをしなければならないのか。
店内の装飾を片っ端から壊しながら、先ほど殺したばかりの男を、何度も殺す妄想を繰り返した。
何度殺しても、鼻の痛みは消えなかった。