第十一章§歪んだ現実
雨が降っていた。
カーテンを開けるまで、耳元を撫でていたかすかな違和感の正体がわからないほど、静かな雨だった。
朝の鍛錬を自室で軽くすませ、雨時々雪の天気予報を確認した後、家を出る。
はっきりとしない天気のせいか、どこか鬱屈とした雰囲気が漂っており、気持ちの良い朝ではなかった。
悪天候の日、とくにそれが冬場であればホームの雰囲気が変わる。
いつもより若干混み合っているにも関わらず、不気味なほど統率が取れている。まもなく入ってきた電車に乗り、葉子と二人で壁際に寄った。
「今日も寒いねえ。雪降るかもだって。山間部だと積もるって言ってた」
「この時期に二度も雪が降るのはめずらしいな」
「だね。いつも一月の中頃ぐらいからしかちょくちょく降ったりしないのに。今年は特別寒いのかな」
後数日と経たず、仕事は終えられるはずだ。そうしたら、今度は葉子との約束に頭を切り換える必要がある。
クリスマスイブ。いままでまるで意識していなかったせいで、どう過ごせばいいのか見当はついていない。
「イブも雪降らないかな。知ってる? 香里駅前、ライトアップされるんだよ。雪が降ったら、すごくきれいだよね」
面映ゆそうに笑う葉子を見て、彼女がなにを求めているのか考える。彼女は博信をどのように見ているのかと、いまさらながら気になった。
普通運行の電車しか止まらない柏井駅に着いたとき、見知った顔が入ってきた。
志築と蔵兼だ。そういえば、慎也から聞いた情報によれば、この二人はこの辺りの中学校が出身だったはずだ。
「あれ、折橋君じゃない。朝はやいねー」
「俺はいつもこの時間だ」
「そうなんだ。あたし達は今日はいつもより二本早いんだよ。っていうか佐穂に起こされて出てきたから眠い。いつもなら後十分は寝てるのに」
まださほど顔も合わせていない相手だが、蔵兼は旧友にでも会ったかのように、ほどほどな距離感を保ちながらも親しげに声を掛けてくる。
志築はわずかに会釈し、電車の駆動音にかき消される程度の声でなんらかの挨拶らしき言葉を発した。
この志築には、昨日、超能力者とやり合った記憶はない。博信との会話も覚えていない。木岐原にしては、まともな対応だった。
葉子が二人に「おはよう」と声をかける。蔵兼は快くそれに応じた後、首を傾げた。
「あれ、二ノ宮さんじゃない」
二人はクラスが隣同士で、もともと顔見知りらしい。
「二ノ宮さんは折橋君の知り合いなの?」
「うん」
葉子は笑って頷き、博信の腕元の制服をつまんで揺らした。なにかを主張するような動きだが、どういう意味があるのかはわからなかった。
「ノブ君は幼馴染みだよ」
「へえ。なんていうか、仲良いんだね。もしかして付き合ってたり?」
蔵兼が声をひそめて聞くと、葉子は一瞬だけ含み笑いをみせたが、次の瞬間表情を隠すようにあわてて両頬を手で直していた。
「へえ。……へえ?」
「なにが言いたい」
「いやあ、折橋君も隅に置けないなあと思ってね。で、どうなの」
蔵兼だけでなく、志築、そして葉子までなにかを期待するように博信をじっと眺めてくる。博信は小さくため息をついた。先ほどの葉子の反応を思い浮かべながら答えた。
「そう言っても、おかしくはないだろうな」
三人はそれぞれ違ったリアクションを見せたものの、博信の答えが彼女達の期待に沿ったものであろうことは、その反応から疑いようがなかった。
三人は電車が千賀駅に停車するまで騒がしかったが、乗車口が開き、人が増えそうなのを見ると声量を落とした。
矢那慧まで後一駅だが、この調子だと駅を降りてからまた騒がしくなるかもしれない。
さすがに混み合ってきた車内で、三人を壁側にやり、乗客の顔ぶれを眺める。矢那慧の生徒の姿がいくらか見えた。
「あれ?」
不思議そうな声をあげたのは葉子だった。蔵兼が真っ先に応じる。
「どうかした。二ノ宮さん、忘れものでもしたの」
「え、ああ、そうじゃなくて。あの人……」
言いよどみながら、博信を見上げてくる。何事かを口元で呟いているようだったが、電車の駆動音にかき消されていた。
葉子はじれたように、博信の肩に手を乗せ、顔を寄せてきた。
「ね、ノブ君。うちの学校のあの女の人、先輩なんだけど――」と、視線で女生徒を示す。
「どうかしたか」
「あの人、昏睡してた人だよ。起きたのかな」
どくん、と心臓が不気味に鳴った。
自身でも理解できるほど、博信は激しく動揺していた。
それは危機の予感ではない。異常な事態がいままさに起きていることを、明確に示していた。
なにをするべきか判断がつかなかった。博信はしばらく視線を泳がせ、必死にこの場を打開する為の方法を考えた。
電車はすでに動き出している。葉子達を連れて逃げ出すこともできない。
矢那慧まで一駅、時間にして五分はかからない程度だ。
五分。
たった五分と安く見たいところだ。しかし、人が密集しているこの状態では、博信もろくに動けない。
あの女生徒が昨日の男並の超能力者であれば、五分どころか、三分もあればこの車両の人間をすべて殺せるはずだ。
「志築、すこしいいか」
女生徒から意識を外さないように注意しながら、声を掛ける。
「……は、はい。あの、なんですか」
「次の駅に到着するまでの間、ここでなにか起きるか。わかるようなら教えてくれ」
志築はわずかに戸惑ったが、すぐに真剣な表情で中空を眺めた。
話を聞いていたのか、ほとんど同時に、蔵兼が人差し指を口元に当てながら博信に迫ってくる。
「ちょっと、しーっ、しーっ。ダメ、ダメだよ。こんなところで、そんな普通に話しちゃ」
「心配するな。聞いたところで、なにも知らない人間が理解できるようなことじゃない」
「それは……そうかもしれないけど、あんまりおおっぴらにしちゃマズいよ。ほら、やっぱりいろいろあるし……」
「表立つことはない。本物を目にしたところで、誰も信じはせんからな」
超能力を持つ人間が身近にいるなどと、誰が理解するのか。想像だけならするかもしれない。しかし、常識はその存在を許さない。
なにかそれらしい事象を見ても、ただの勘違いだと自分を納得させる。そういうものだ。
「ええっと、ノブ君? どうしたの」
「葉子、壁際に寄ってじっとしていろ」
肩を軽く押さえて促すと、葉子は困惑しながらも、素直に奧へ身体を寄せた。
「……折橋君」
志築の整った顔立ちが、引きつった表情で歪んでいた。
「なにが見えた」
「火が……、あの矢那慧の人です」
「他に危険な奴は。被害を拡大させそうな奴はいるか」
「たぶん、いません」
火を発生させるといえば、パイロキネシスという超能力だろうか。
「どれぐらいの規模で被害が出る」
「何人かが、……火に包まれて……」
痛みを耐えるように志築が言葉を絞り出す。服に燃え移り火だるまになったとすれば、死亡する確率はきわめて高い。
そして、このまま放っておけば、あの女生徒はそれを実行する。
「わかった、もういい」
葉子達を置いて、博信は早々に一人で女生徒の元へと向かった。混み合っている電車内で人をかき分けて進む彼に、怪訝な視線がいくらか向けられる。しかし、幸いにも、わざわざそれを声に出して注意してくる人間はいなかった。
女生徒と数人分の間を空けて、表情を窺う。
どこか夢を見ているような目をしていた。香里駅の商店街で博信が抑えこんだ男の状態と似ている。慎也は確か、半覚醒状態だと言っていた。
あのときは数発打撃を与えた後に、地面に抑えこむだけで終わった。なぜあのタイミングで攻撃が止んだのか。
あの男は『新緑の従者』が雇っていた高校生の口封じをする為に動いていたのだから、時間経過によるものとは考えにくい。
だとすれば、おそらくは、博信と交戦した拍子に、意識になんらかの影響を与えたと推測できる。
つまり、一瞬で意識を激しく揺さぶる的確な攻撃ができれば、抑えることができるはずだ。
女生徒の側面を取り、間合いを詰める。一瞬、一撃で終わらせる。
博信は女生徒に気づかれないよう、じりじりと距離を詰めた。急所を捉えられる距離にまで近づき、身体の力を抜いてその瞬間を待つ。
外の風景を視界の端で捉える。もう半分ほど来ていた。駅到着まで残り三分もない。もしなにかが起きるなら、後一分以内だろう。
いまさら志築の予知を疑うこともなかった。昨日も化物と戦うときに助けられている。
彼女が起きるというのであれば、それは起きる。志築の見る現実を否定することは、博信の見た現実をも否定することになるのだ。
見えない力の流れを追い、意識を研ぎ澄ませる。
女生徒の一挙一動を見逃さないようにすれば、見えない力も捉えることができる。そのことは連日の超能力者との立ち合いでわかっていた。
女生徒がおもむろに顔を上げて、前方の中空へと視線を向ける。
奇妙な耳鳴りが聞こえてきた。
その音を感じとったのは博信だけではなかったようだった。
周囲にいる人々のうちのいくらかが、耳を押さえ、疑惑の声をあげながら不快そうに眉根を寄せている。
足下に鞄を降ろし、構えを取る。
女生徒がその目をゆっくりと大きく見開き始めた。次の瞬間、熱気が上方で音もなく爆発した。顔を熱い空気が包みあげていく。
まだ攻撃には入っていない。あれは、おそらくは溜めだ。
博信は重心を整えた。誰かが悲鳴をあげ、周囲にざわめきが伝播する。
そして炎が中空を駆けたと同時、博信は女生徒の背後から掌底を打ちこんだ。
女生徒の短い呻き声は、飛びかう悲鳴の中でか細く空気を揺らす。発生した炎は、何を燃やすこともなく、そのまま幻のように消えていった。
倒れるようにもたれかかってきた女生徒の両肩を抱きとめる。隣に立っているスーツ姿の男が、女生徒の異変に気づいたようだった。
「君、大丈夫か……」
そして、女生徒の後ろにいた博信の姿に驚いた様子を見せた。
「ん、君は、いつからそこに。千賀駅で乗車したときにはいなかったと思うが……」
「ああ、この先輩を見つけたのでこちらに移動してきたんですよ。どうも、先輩の具合が悪そうに見えたので」
博信が女生徒を視線で示しながら答えると、男は何度か小さく頷いた。
「そうか。それは良かった」
男は電車の上方を見やった。そこには、まだ周囲のざわめきが向けられている。炎がどうだ、なにかの部品がどうだ、と口々に隣人と話し合っているのが聞こえた。
「いまのは、部品が焼けた、というわけでもないか。自然発火というやつか? 冬場は摩擦でも発火することがあるというが、まさかこんな密室でも起きるなんて」
男が、博信に説明するようにつぶやいた。同意を求めるというよりは、意見を求めている言い方だった。
自分で口にしながらも、その理屈に自信が持てないのだろう。その気持ちはよくわかった。
理解を妨げる事実があったならば、代替となる理屈を持ち事実の有り様を書き換えようとする――男の常識的な理屈を聞きながら、博信は木岐原に初めて会ったときに言われた言葉を思い出す。
正しく認識することは、理解を遠ざける。なるほど、その通りだ。
「……さあ、どうでしょうね。どうやら世の中には、理解できないことが多すぎるようだ」
駅に着き、女生徒を伴って降りる。まだ意識は不完全なのか、博信の呼びかけに返答はなかった。
全身をさっと見渡し、ドリームキャプチャーらしきものを探す。緑色のヘアピンを見つけ、それを回収した。
そのままベンチに座らせると、葉子達があわてて駆け寄ってくる。
「ノブ君、なにか騒ぎがあったみたいだけど、その先輩どうしたの」
「具合が悪いらしい。看てやってくれ」
葉子が気遣わしげに女生徒をのぞき込む。その後ろで、蔵兼が頭を抱えていた。
「えーと、なにがどうなってなにがどうなるの」
「どうもなってないし、どうもならん。気にするな」
「ああ、そうなんだ。じゃあ気にしないでおこう。そうしよう」
うんうんと蔵兼が自身を無理やり納得させるように頷く。説明を求めてこないのは助かるが、物わかりが良すぎるのも不気味だった。
女生徒を葉子達に任せ、博信は携帯を取りだした。連絡は誰からも来ていない。すぐに慎也へ発信する。
応答を待っていると、志築が寄ってきた。携帯を手にとっている博信の横から、なにか言いたげにじっと見上げてくる。
「……なにか用か。またなにか起きるのか」
「い、いえ。あの……そうじゃなくて」
志築は胸元で両手を組み、しばらくして「あの――」と、彼女にしては大きめの声量で注意を促してくる。そして、丁寧に頭を下げてきた。
「ありがとう、ございます」
「礼を言われるようなことをした覚えはないが」
「でも……悪い未来が、当たらなかったから……」
その言葉に違和感を覚えた。携帯から視線を離し、志築の表情を窺う。
「まるで、当たらないことがないみたいな言い方だな。お前は未来が見えるんだ、未来を変えることぐらい簡単にできるんじゃないのか」
「ううん。わたしは……、わたしの力だと、未来を変えられないの。邑木先輩が言うには、わたしの予知は、わたし自身の動きもいれたうえでの未来なんじゃないかって」
「……なんだと?」
「だから、いつも悪い未来に対してなんの役にも立てなくて……」
「……ちッ、あの男」
思わず出てしまった舌打ちに、志築が恐る恐るといった様子で顔色を窺ってくる。
「奴――木岐原が言っていただろう、覚えていないか」
「木岐原先輩が……? あっ、折橋君に予知のことを知ってもらっていたら、わたしの役に立つからって」
「最初からこういった事態を見越していたんだろうな。そういうことか」
志築の超能力について、志築自身よりも詳しい。あの男はいったいなんなのだろうか。
「まあいい。奴の思惑に乗るのは癪だが、もしお前が悪質な、悪い未来を見たときは俺に言え。手が空いていれば、貸してやる」
博信が言うと、志築は小さく頷いた。
慎也の話によると、やはり他の昏睡者も次々に目を覚まし、各地で超能力を使って事件を起こしているらしかった。
同時多発テロとして処理されており、自衛隊もすでに出動態勢に入っているようだ。
「木岐原は?」
『すぐに連絡を取ったが、ダメだ、繋がらん。矢那慧でもなんか起きてるんじゃねえのか』
「狙いは木岐原のようだからな。だが、誰の仕業だ。これも『新緑の従者』か」
『いや、それはない。裏は取れた。もうアレは完全に壊滅だ。だが、確かに誰かがいる。もう一つ、意図が絡んでいる。昏睡事件も、『新緑の従者』も操っていた奴がいるはずだ』
「それが誰かわからんことには、どうしようもないだろう」
『だがわかっていることもある。こんだけしでかしてるんだ。これが、最終局面ってことだろうよ。混乱に乗じてやるのか、混乱そのものに目的が込められているのかまではわからんがね』
「根拠はあるのか」
『根拠はない。だが、オレならここまでやったら、後は一気に最後まで行く。これだけの舞台と役者を揃えるのにどれだけ労力がいるか。ここまできて、結末を先延ばしにする意味はない』
「……」
超能力、『新緑の従者』、ドリームキャプチャー、木岐原時雨。
すべてが揃い、すべてのカードは切られた。あとは結果が確定するだけだ。
それがどんな結果であっても、もう時間はない。慎也の言うことは至極もっともだった。
『オレは警察署でやることがある。こうなっちまったら、事態に収拾をつける為に情報が必要だろうからな、できるだけ提供してくる。それが終わったらすぐに矢那慧に向かう。お前は?』
目の前に正しい姿の現実がある。ならば、目を逸らすわけにはいかない。
「黒幕を引きずり出してくる。超能力合戦は今日までだ」
§ § §
ひさしく人が踏みいれてなかったであろうくすんだ屋上に一人、時雨は立っていた。
ところどころ破壊されている校舎を泰然と見下ろす。先ほどまで校舎を揺らしながら鳴り響いていた破砕音と悲鳴は、もう収まっていた。
時雨は、この異常事態の全容を把握できずにいた。
濫造されただけの超能力者は、昨日、彼らが持つ現実と共にすべて葬り去ったはずだ。しかし、登校してきた生徒の中になぜか超能力者が複数いた。
他の地区でも超能力者が暴れ回っており、同時多発テロが発生したなどというニュースが広まっているようだった。
矢那慧では、邑木と京雅がそれぞれ超能力者を押さえ込み、時雨も『タイムリフレクト』を一切使わずに超能力者を叩き伏せることで、おおよその混乱を回避することはできた。
すでに登校していた生徒達は、突如訪れた非現実に興奮こそしているものの、安全が確保されたことを知ると、口々に喜びに満ちた驚きを語り出していた。
それは彼らが諦観しつつあった、現実への期待を改めて自覚した瞬間だったのだろう。
「こんなことが本当に起きるなんて」という子供じみた驚きだ。
しかし、決して悪くはない。その驚きこそが、新しい期待を生み、いずれは新しい現実を作る礎となるのだ。
なにより、不測の事態は、時雨が好んでいるものの一つだ。勝敗のわかりきったゲームにしない為に、時雨はルールを裁定するのだ。だからこそイレギュラーが映える。
なにが起きるのか、誰が起こしているのかわからない。だからこそ次の展開を考える楽しみが出てくる。
そう、この事態は時雨の手を離れ、そしておそらくはこれを引き起こした張本人の手からすらも離れている。結末はもはや誰にもわからない。
無論、されるがままに結末を受け入れてやるつもりはない。
すでに罠は仕込んである。
問題は、相手がその罠を発動させることができるほどの相手なのかどうかだ。
相手がただの無能、有象無象であれば、時雨が仕掛けた罠は発動しないばかりか、時雨自身の首を絞めることになってしまう。わりの良い手段ではない。むしろ、だからこそ実行したと言ってもいい。
この状況においてもっとも重要な点は、時雨が殺されるか否かだ。
通常の殺人では、この木岐原時雨を殺すことはできず、歪んだ現実でもそれは同様だ。
時雨にとって非常に残念なことに、いままで彼は一度も殺されたことがない。どのような状況にあってもだ。
国家は当然のこと、宇宙、この世界における全域――第一世界とでも名づけるべきだろうか、それらをすべてを敵に回してもなお、時雨は死ななかった。
だが、今回だけは特別な期待があった。この木岐原時雨を殺してみせる人間がいるのではないかという、ごく単純で、強い期待だ。
歪んだ現実は常態を求めて広がっていく。
普遍の現実というものは、それを支える認識の数が多数あるからこそ成り立っていると言っていい。信仰そのものだ。
都合の良いように歪めた現実を、人々は正しいと認識し、現実を成り立たせている。
それを神と言いかえてもいいかもしれない。創造神という現実、受け入れなければならないという現実。それこそが歪んだ現実の在り方だ。
では、そんなふうに歪みきっている、普遍の現実を崩す為にはなにが必要か。
ただ現実から抜けだしているだけでは駄目だ。外側をいくら整形しても、現実は整形された形のままに歪み、何事も無かったかのように続いていく。現実を変えるのは内側にある存在でなければならない。
つまり、それを為し得るのは、ルールの中でルールに縛られない存在、イレギュラー以外にないのだ。
現実は普遍であっても、不変ではない。必ず変化し、必ず創造される。いかなる現実であっても、必定に回帰する。
この歪んだ現実世界に無限の可能性など存在しない。歪みはただ人を閉じこめ、緩やかな波で人を削っていくだけだ。
そうして人の形を保てなくなったとき、その人間は死んでいく。現実はそういうものだ、と誰にともなく言い訳しながら。
だが、そんな現実を振り払い、時雨の前に姿を表した一人の青年がいた。折橋博信だ。
彼は彼自身の現実をもって、生まれながらの超能力者であった男の現実を叩き伏せた。
こんなことは、本来起こり得ない。
歪んだ現実の中では起こり得ないことが起きたのだ。ならばそれは、歪んだ現実の規格を打ち壊すイレギュラーに他ならない。
時雨の思惑を超えた相手の存在があること、そして同時に折橋博信がその真価を発揮すること。この二つの条件が揃ったとき、時雨が用意した罠は発動する。
だから、これは期待なのだ。折橋博信というイレギュラーは、舞台さえあれば時雨の思惑を超えた結果にきっとたどり着く。
無限の連続を内包する、幻視世界へと。
超能力者が中庭に姿を現したことに気付き、時雨は校舎の屋上から中庭へと飛びおりた。
どうやら中庭に一人で現れたのは、瞬間移動の超能力を持っている男子生徒のようだった。
他の超能力者と同様に、その意識は覚醒していないようだが、時雨の姿に気づくと、すぐに自分の邪魔をするものだと認識し、敵意を投げかけてきた。
おそらくは『新緑の従者』が仕込んだのだろう。悪質というよりは、質の低いやり方だった。濫造ここに極まれりといったところだろうか。
時雨の前から男が姿を消した。
時雨は振り向きざまに上方を蹴り上げ、男の腹を捉える。男は二、三度地面に転がり、俯せに倒れこんだ。瞬間移動など、目を瞑っていても捉えられる。
「ふッ――女でなくて良かった、とでも言うべきか。女を蹴り飛ばしでもしたら秋人に怒鳴られそうだ」
精神に干渉することで超能力者を無力化できる邑木ならともかく、時雨や京雅は身体一つで相手を抑えなければならない。あまりに肉体的に弱い人間が相手だと、加減も難しかった。
倒れた男の首根っこを掴み、引っ張り起こす。気絶はしていないようだが、もう暴れる様子は無さそうだ。
『新緑の従者』の仕込みがどれだけ雑か、よくわかる結果だ。死ぬまで暴れ回るような兵器を作れば良いだろうに、技術の問題としてそれすらできなかったわけだ。
そもそも『新緑の従者』自体が、元々はオリジナルの力を崇拝するものだったはずなのに、それが叶わないと知って暴走した側面があるのだ――。
時雨の視界が一瞬、崩壊した。
時間が、歪んだ。干渉なのか、超能力なのかはわからないが、誰かが時雨の持つルールを無理やりねじ曲げた。時間か空間をいじったようだ。
「ほう」
感心するのと同時、時雨は矢那慧の校門前へと飛ばされていた。男の瞬間移動によって場所を変えられたのだろうか。
まだ意識があったということにも驚いたが、周囲の状況に気づいたとき、時雨はふたたび感嘆のため息をついた。
「数を揃えてきたか」
そこには、超能力者が十数人いた。どうやら登校してきたばかりの生徒達のようだ。先ほどの時間操作はこれを用意する為に行ったのかもしれない。
濫造品には、それらしい使い方があるらしい。これを考えた人間からはセンスは見てとれないが、敵意はしっかりと感じとれる。
木岐原時雨をなにがなんでも排除したいという意志だ。
そう、一度攻勢に入ったなら、相手に一分の隙も見せないまま徹底的にやらなければならない。
しかし、この程度では足りない。時間や空間をいじる程度では、そもそもこの木岐原時雨を殺すことはできない。
「一人当たり三秒で終わらせれば一分で片が付くな」
『タイムリフレクト』無しでも、濫造品の超能力者如きに手間取ることはない。時雨は秒数を読みあげるような感覚でテンポよく超能力者を倒していった。
念力、火、電気、身体強化、その他にもいくらかいたようだが、わざわざ確認はしなかった。
これならば、三年前に『新緑の従者』に乗り込んだときのほうがよほど歯応えがあった。
超能力者そのものの質がいくらか良かったという点もあるが、それなりに影が濃い団体だけあって、腕が立つ傭兵もどきまでいたのだ。殺意の多寡でいえば、較べようがない。
秒針が一周するのを待たずして、時雨は超能力者達を一蹴した。幻視で倒れている生徒達を確認していると、博信が走ってくる。彼は時雨の周囲に倒れている生徒達を見やった。
「これは……超能力者か」
「お前が昨日相手にしたオリジナルの超能力者に比べれば、話にならんほどの粗悪品だがな。博信、例のドリームキャプチャーもどきは持ってきたか」
「ああ。これだ」
博信が差しだしてきた緑色の腕輪を受け取り、幻視する。
「なるほど、これが……」
見えるものに対して、わずかに戸惑いを覚える。時雨の幻視は未来と過去の在り方、そしてそれが持ち得る変化の範囲と固定の強さを見定めることができる。
しかし、この腕輪からはいずれも読みとることが出来なかった。
物質というものは、如何なる存在であっても発生と消滅がある。それが無いということは、この腕輪は存在という概念から切り離されているということだ。
「最初から俺用の対策を施していたのか」
ドリームキャプチャーの存在を利用し、時雨の力を理解している。さらには『新緑の従者』まで自分の目的の為に使ってみせた。どうやら入念な準備の上で仕掛けてきたらしい。
「すまんな、どうやらこの道具から作成者まで遡ろうとすると、ルールに抵触するようだ」
「……お前がルールの裁定者なんじゃないのか。どうしてそんな人間がルールに縛られる」
面倒そうに問いかけてくる博信に、時雨は口角をあげて答えた。
「なにを言う。ルールを作る人間が真っ先に、そして厳格にルールを守らずにどうする。俺はあらゆる行動を許される神になりたいわけではないし、神の存在を認める気もない。現実を正しく認識し続ける為には、理解も必要だが、自制も必要なのだよ」
「たいした持論だな、傾聴に値する。もっとも、それがこの火急の事態でなければな」
気づくと、時雨達はふたたび超能力者達に囲まれていた。今度は矢那慧の人間ではない。他校の制服を着た生徒がその姿を見せていた。
「……ククッ、油断か、これは。それとも相手のほうが上手だったか」
時雨と博信は、数十に及ぶであろう超能力者達に囲まれていた。先ほどの時間への干渉は、時雨にではなく、時雨を取り囲む為に引き起こしたようだ。
各地にいた超能力者を一度にここに集めたようだ。偽ドリームキャプチャーは、どうやら作成者が超能力者達を自由に行使する為のものらしい。
「物の数ではない。ないが――」
「これだけではすまんだろうな」
博信がスッと拳を前に据えた。ずいぶんと堂に入っている。
「ほう、武道か」
「……ただの護身術だ」
「力から、自身の命を守れるのであればなんでも構わんさ。さて、山場を崩しにいくか」




