序章§木岐原時雨
折橋博信が信号待ちで足を止めているところに、セダン車が右折で入り、横断歩道を横切っていった。
直後、急ブレーキの音が鳴り響く。
博信がそうしたように、周囲にいた矢那慧高校の生徒が一斉に車へと注意を向けていた。
一瞬の静寂の後、小さなざわめきが起きた。
騒ぎの中心で、猫の身体が道路に横たわり血と内蔵を垂れながしている。
その状況に対して最も早く反応したのは、おそらく車の運転手だった。
車は少しバックをして反対車線に乗りだし、猫を避ける為に車道を目一杯使い、大回りして走り去っていった。
急ブレーキの跡と、猫の死体だけがその場に残された。
ざわめきが周囲に広がる中、近くにいた男子生徒の一人が車道に出て猫の死体に近づいていく姿が見える。
博信は興味を失い、その場を去ろうと歩きだす。
足を止めていた他の生徒も傍らにいる友人と声を掛け合っていたようだが、それもわずかな間で、博信と同様に駅へと向けて移動し始めていた。
野良猫の死を悼む奇特な人間は、一人いれば十分だ。誰かが動けば、自分が関わらなくていい理由になる。
道路に転がる猫の死体は理不尽さの象徴でしかない。そんなものに関わりたい人間などいるはずがない。
だからこそ、理由が必要なのだ。ふいに意識してしまう、変えようのない現実をねじ伏せることを可能とする、絶対の理由が必要なのだ。
世界はいつでも、存在すら定かではない神の手によって、正しく理不尽に在り続けている。
博信はふとそんなことを考え、あまりの馬鹿馬鹿しさに、思考を閉ざした。
彼がふたたび前を見据え、数歩進んだところだった。
猫の鳴き声が聞こえてきた。
思わず、猫の死体へと意識が向かってしまう。だが、鳴き声はそこにはなかった。
半身で振り返った博信の脇を、猫がさっと走り抜けていく。
その模様は、今轢かれたはずの猫だったように見えた。
あれで死んでいなかったのかと訝しみながら、猫の死体が倒れていた場所を確認すると、道路を汚していた血と内蔵が無くなっている。
男子生徒が車道に立っており、車のブレーキ跡は残っていた。猫の死だけがそこに無い。
立ち止まって事故現場を眺めていた博信の問いに答えるように、男子生徒の視線が向けられていた。
男は学生鞄を担ぎ、なぜかまっすぐ博信の元へと歩いて来る。
笑みを浮かべ、友人を相手取るかのように親しげに片手をあげてきた。
少なくとも、顔見知りの相手ではない。
「君の世界は、塗り潰されなかったか」
見下した話し方をしているわけでもなかったが、まるで博信の思考を見透かしているとでもいうような、ひどく癪に障る笑い方をする男だった。
その男が、木岐原時雨だった。
「塗り潰す? 何の話だ」
「現実は生物の生き死に程度の変化など許容しているということだ。君はその現実の回帰から免れた。つまり、……そうだな、君が今いる世界と、君が見て理解した世界は別物だと言ってもいい。君は起こらなかった事象を幻視したんだ。君は猫が轢き殺されたことを確かに認識したはずだ。だが猫は死んでいなかった、その現実が今ここにある。なぜだと思う?」
いま目の前にいる男は、頭がどうかしていると率直に感じた。
妄想が過ぎて現実を都合の良いように解釈しているのだ。そうでもなければ、歩道で男が二人向かいあっている状況で世界がどうだのと語り出す奴はいない。
勘違いだったのだ。猫は轢かれてなどいなかった。
血と内蔵に見えたのは影で、猫が倒れて動かなかったのは、突如迫ってきた高速の巨体に驚いてへたり込んだだけだ。
猫でも恐怖で倒れることぐらいある。
男を捨て置き、帰路に着こうと踵を返す。
しかし、木岐原は博信のそんな考えを先回りし、奇怪な事象を引き起こしてみせた。
「そして現実は過去と未来を塗り替える――『タイムリフレクト』」
木岐原はそう言うなり、手品でも披露するかのように指を鳴らし、道路の先を指し示す。
身振りに釣られて視線を向けると、あったはずのブレーキの跡が消えている。
まっさらな道路が何事も無かったかのように続いている。
自然、目を見開いていた。今し方まで確かにブレーキ跡があったはずだ。
「答えはこうだ。猫は轢かれなかった。あの車は急ブレーキなど踏まなかった。それが現実だ。君が認識した現実とは、違うのではないか」
博信は何が起きたのか、冷静に考え始めた。
車が右折し、その先で猫が飛び出してきた。運転手は急ブレーキを踏んだが間に合わずに猫を轢いてしまった。
それが博信の認識だったが、まず急ブレーキを踏んだところは見たわけではなく、音を聞いただけだ。
当然、猫と車が接触したところも見ていない。
しかし、音に気付き視線を向けたとき、倒れた猫、急ブレーキの跡、停まった車が猫を避けて走り去ったところまでは認識した。
あの状況であれば『猫が轢かれて死んだ』と推測するのは間違いではない。
そして、さきほど見た光景は、その推測に合致していたように思える。
その内、猫は消え、ブレーキの跡は消えた。
結果から過去の出来事を推測する、それにしてはあまりに不自然な状況の変化だったが、博信は自分が幻覚を見たのだという結論に達したことを認めなければならなかった。
急ブレーキの音と、停まった車、道路に倒れていた猫。
その状況を目の当たりにし、推測を妄想にまで仕上げてしまった。血と内臓に見えたものは、おそらく影だ。
「ククッ、これも必定というものなのか、君は世界がいつでも塗り替えられるということをその目で見てしまった」
「下らんな。ただ早計だっただけだ。状況から類推し、頭の中で補完したことが実際に起きたことと比べて差異があっただけ……よくあることだ」
「ほう、そうくるか。つまり心理的なトラブルによる錯覚を見たのだ、と。ククッ、そうだな、まったくもって正しいやり方だ。理解を妨げる事実があったならば、代替となる理屈を用いて事実の有り様を書き換えようとする、それは至って真っ当な方法だ。少なくとも、自身を納得させる為にはな。だが残念なことに、真っ当な現実など、何処にも存在しないんだよ。俺達がこうしているこの現実も含めてな」
「気が触れた人間の妄言にしか思えないな。現実を見たらどうだ」
「見ているさ、誰よりも正しくな」
木岐原は踏みだしてくると、すれ違いざまに馴れ馴れしく博信の肩を叩いた。
「俺は木岐原時雨だ。世界を塗り替えたければいつでも訪ねて来ると良い。錯覚ではない……本物の、誰の目も届かない現実というものを見せてやる」
木岐原時雨と名乗ったその男は、話がまるで通じそうにない、気味の悪い男だった。
世界がどうだの、現実がどうだのと非日常的な単語を平然と口に出来るのは、そういった役を演じている為かと納得した。
異常者でも気取り、人の気を引こうと考えているに違いない――だが、そう自分に言い聞かせながらも、ただ見過ごすにしてはあまりに不自然な出来事だった。
猫の鳴き声が妙に耳元に残っている。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、木岐原という名前は深海に消えた古代文明を形作る一要素であるかのように、深く、博信の脳裏に刻まれた。