序章:始まり
僕は、モップで床を拭いていた。
ここ、国立電子工学研究所の廊下は、いつも掃除する必要がないぐらい清潔に保たれている。今日も、透けるような乳白色が、見渡す限りどこまでも続いていた。
廊下の掃除をするのが、毎日の僕の仕事の一つだ。
前に一度、研究室内の掃除をさせてもらったら、バケツの水を転んだ拍子にパソコンにぶちまけて、何台かゴミ箱送りにしてしまった。
それ以来、研究室の掃除はさせてもらえていない。
僕が一生懸命にモップを動かしていると、背後から二つの靴音が聞こえてきた。
振り返り、その靴音の主の姿を確認して、体が強張る。
「お、おはようございます、お父さん」
「何度、注意すればわかっていただけるのでしょうね? 奏お坊ちゃん、先生は、ご自分の事を『お父さん』ではなく、『鬼村様』とお呼びになれとおっしゃられていたはずですよ? 聞き分けの良い奏お坊ちゃんならば、わかっていただけるはずですよね?」
お父さんの議員秘書をしている阿武隈さんが、嫌味たっぷりの口調で僕をたしなめた。
「阿武隈、奏などに無駄に時間を使う暇は無い。今日は、大事な用があって来たのだ。行くぞ」
「かしこまりました、先生」
お父さんは、僕に期待など、微塵もしていない。
そんなことは、物心ついた時から気づいていた。
でも。
「お父さん、待って下さい! 僕は……」
お父さんが歩みを止め、振り返り、僕を汚いものを見るような眼で睨んだ。そして、僕への言葉を吐き捨てた。
「……役立たずが。お前など、何の役にも立たん。早く、私の視界から消えろ」
呆然と立ちすくむ僕を、気にも留めずに、お父さんは行く。
阿武隈さんが、数歩後ろを、僕とお父さんを交互に見つつ、含み笑いをかみ殺しながら続いていく。
そして二人は、廊下の端にある研究室に入って行った。
落ち込んだが、慣れていた。
いつものことだ、お父さんが僕に辛く当たるのは。
それよりも、一つの事が頭から離れない。二人の入った、研究室。
確か、いつも、この研究所の主任の沼丘さんが何かやっている場所だ。
いつも、何をしているのか気にはなっていたけど、あの場所にお父さんと阿武隈さんが来るなんて。
あそこに、何があるんだろう。
気になって、その研究室のドアを三人に気づかれないように、少しだけ開けてみる。
案の定、三人が何か話している。僕はそっと、聞き耳を立てた。
「ようやく、例のモノが完成したようだな、沼丘」
「はい、やっと完成いたしました。今日は、このようなところまで、ご苦労をお掛けします、総理」
「全くですよ。当初の予定では、もっと早期に完成する予定だったのでしょう? ずいぶん、のんびりと研究をされていたのですね」
「ちっ(このチビが、えらそうに)、……申し訳ありません、何しろ研究データのほとんどが消去されていまして。その復元に、かなりの時間がかかってしまい……」
「言い訳はいい。ふん、杉原が生きていれば、もっと早く出来たのだろうが、それを言っても仕方がない。奴は、死んでしまったのだからな」
「ちっ(コイツも癪に障ることを…)、………どうぞ、こちらへ。準備は出来ております。あとは、総理のご命令のみです」
暗闇で覆われた部屋の全面に、巨大なディスプレイが一つと、小さなディスプレイが無数に浮かびあがっている。
巨大なディスプレイは、この国立電子工学研究所の最上部に設置してある、巨大なアンテナを映し出している。
無数の小さなディスプレイは、街のいたるところ、いたる人々を映していた。
「やっと、先生の夢が叶うのですね。調子に乗ったガキ共を支配するという夢が」
「違うな、阿武隈。夢ではなく、野望だ。だが、ここまで本当に長かった。ようやく、我が野望が実現する。このためだけに、私は議員となり、総理にまでなったのだ」
「総理の発案したこの研究と、先頃成立させた法案によって、年々増加、悪質化を辿っている少年犯罪は完全に無くなることでしょう。この研究は、失われるはずの多くの命と、罪深き多くの子供達を救うこととなるのです」
「お前の御託は要らん。早く始めろ、沼丘」
「では、……エネルギー充填率98・25% 目標、日本全土、電磁波、照射!」
この時、ゆっくりと、しかし確実に運命の輪は動き出していた。
五人の子供達、後に「Eternal Children」と呼ばれる少年達の運命が。