天使の約束
誰もいない、ひっそりと静まり返った、寂れた夜の公園。
ブランコと小さな砂場、そして、ベンチのみの小さな小さな公園。
その公園に、少年は、たった一人で佇んでいた。
小さな外灯に照らされ、彼の姿を浮かび上がらせる。
時折、チカチカと切れかかり、一瞬、辺りを暗くする。
青年と呼ぶには、まだ早い幼い顔のきれいな顔立ちをした少年。
少年のその顔は、どこか物悲しげで、憂いを帯びている。
ふいに、澄んだ瞳を濡らし、一滴の涙が、ツーッと頬を伝う。
(やっぱり、僕には、この仕事は向いていないんだ)零れ落ちた涙を拭こうともせずに少年は思った。
少年の名はライト一一
そして、彼は、新米の天使なのである。
天使のお仕事…つまり、亡くなった魂を天国へ導く仕事。
天国へと言っても、全ての人間が快く付いてきてくれる訳でもない。
ほとんどの者が、人間界に未練を残し、留まる事を望む。
でも、それは、許されないこと一一
人間界に残った魂は、いつしか悪霊となり、永遠に苦しみ続ける。
二度と成仏出来なくなるのだ。
それが分かっているのだから、無理矢理にでも、連れて行かなければならない。
大抵の人は、人間界に留まれるよう、なだめ、懇願し、そして、それが無駄だと知ると、最後には罵り、罵倒される。
心を鬼にしなければならない。
気が弱く、優しすぎるライトには、辛い仕事た。
それでも、彼は、転生せずに天使になる事を望んだ。彼女を探し出す為だけに一一一
「あぁー、天使さまだぁぁぁー」
突如、甲高い女の子の声が閑静な住宅街に響き渡る。ライトの心臓がドキリと跳ね上がる。
(まずい…………)
一瞬にして、ライトの顔がサーッと青ざめる。
教育係だった先輩の言葉が脳裏を駆け巡る。
「普通、人間には、天使の姿を見る事は出来ない。ただ、時として、死期の近い人間や純粋な小さな子供には、姿が見える事がある。だから、人間界に行く時は、必ず翼とリングを隠すんだ」
(あんなに、きつく言われていたのに…)
とりあえず、声の主を探そうとキョロキョロと辺りを見回す。
声の主は、すぐに見つかった。
公園の入口から、此方に向かって駆けてくる2、3歳位のピンクのコートを着た女の子。
肩まである髪が、肩の上で揺れている。
思った通り、小さな子供だったので、少しだけホッとする。
(子供なら、なんとか誤魔化せそうだ)
そんな事を考えているうちに、いつのまにか女の子は、ライトの足元まで来ていた。
ライトの周りを一周ぐるりとピョンピョンと飛び跳ねるように廻る。
そして、クリクリした大きな瞳を目一杯見開き、キラキラと輝いた瞳で、じーっと真っ白な翼を見つめた。
「本物の天使さまだ」
囁くような小さな声で呟いた。
女の子の吐き出した息が白い。
今は、12月一一ライトは、寒さを感じる事はないが、それ位、寒いという事だ。
女の子の登場に、ライトは、どうして良いか分からず、呆然と立ち尽くす。
「…あれっ…天使さま、泣いてるの…?どこか、痛い痛いなの?」
ライトの涙跡に気が付いた女の子が問う。
「…ち、違いよ。目にゴミが入っただけ…泣いてなんかないよ」
小さな女の子に見付かってしまい、恥ずかしくなって、大袈裟に両手をブンブン振って、否定し、ゴシゴシと涙跡を拭う。
そんな、しどろもどろで、あきらかに様子がおかしいのだが、純粋な女の子は、素直にライトの言葉を信用する。
疑う事を知らないのだ。
「泣いてない?どこも痛くない?」
「うん、痛くないよ」
女の子と目線を合わす為、その場に、そっとしゃがみ込んだ。
目が合うと、女の子は、にっこり嬉しそうに微笑む。
「痛くない、良かった。痛いのイヤだものね」
「うん、心配してくれて、有難う」
ポンポンと女の子の頭を優しく撫でる。
女の子の髪は、とても、柔らかい。
心地よさそうに、満面の笑みを浮かべている。
…が、次の瞬間、ライトは、はっと我に返った。
(いけない。こんな事している場合ではなかった)
キョロキョロと辺りを見回し、女の子の両親を探す。
しかし、女の子の両親一一というより、二人以外は真っ暗なこの公園内にはいない。
「どうしたの?」
キョロキョロするライトの様子を不思議に思ったのか、女の子が訊ねる。
「えっと…パパとママはいないのかな?」
「パパはいないけど、ママはいるよ」
「えっ、どこに?」
慌てたように、再び公園内を探すが、やはり誰もいない…
「家に」
女の子の返答に、思わず、ずっこけそうになる。
一一まるで、コントのようだ。
そんなライトが、可笑しかったのか、女の子は指を差してケタケタ笑う。
(まったく、人の気も知らないで)
少々、ムッとしたように、「じゃあ、誰と来たのかなぁ?」
「一人だよ」
女の子は、悪びれた様子もなく、さらりと答えた。
(一人…こんな時間に…!!)
公園内に設置されている時計を見ると、とうに7時は過ぎている。
普通の人間には、暗くて見る事の出来ない時計だが、天使のライトには見る事が出来る。
明るいも暗いもないのだ。
ちなみに、暑さ寒さも感じる事がない。
(こんな小さな子供が、まして、こんな時間に一人で出歩くなんて。親は、何をしているんだ?勝手に出て来てしまったのだろうか?)
女の子の小さな肩に手をかけ、言い聞かせるように言う。
「一人で、こんな時間に出歩いては、駄目だよ。ママが心配するよ。とにかく、お家まで、送るから帰ろう」
「駄目だよ!!」
女の子は、目を見開き、突然、大きな声を上げる。
その声に驚いた近所の犬がワンワンと吠えだした。
「わ、わかった、わかったから、大きな声を出さないで」
なんとか女の子を宥め、落ち着かせる。
一一犬も鳴き止み、辺りは、再び静寂に包まれる。
辺りに人気がないのを確認し、ホッと胸を撫で下ろす。
「どうして、お家に帰れないの?ママと喧嘩でもした?」
女の子を興奮させないよう、小さな声で、優しく話しかける。
「ママのお友達が来てるから帰れないの…」
消え入りそうな声で、俯きながら、話しだす。
「お友達?」
「あの、おじさんが来ると、これが鳴る迄帰れないの」
そう言って、コートのポケットに右手を無造作に突っ込み、白い携帯電話を取り出して差し出す。
女の子の手には、それは、とても大きく見える。
携帯を持つ手は、寒さで赤くなっている。
少しでも、温めてあげようと、その手を優しく包み込む。
「あれっ!!これ、どうしたの?」
袖口が少し捲れ上がり、その隙間から、手首周辺に青黒い痕が見えたのだ。
(痣?一体、何の…?)
慌てライトの手を振り払い、袖口を引っ張り隠す。
「こ、転んだの」
プルプルと二三度頭を振り、今にも泣き出しそうである。
これ以上、訊くなと言いたげに…
(もしかして、この子は、親に虐待されているのでは?)
そう思ったのだが、それ以上追求する事はしなかった。
ライトは、天使なのだ一一
知った所で、何もしてあげられない。
かえって、この子を傷付けるだけなのだ。
無理に帰す訳にもいかず、安心させるように言った。「じゃあ、僕とそれが鳴る迄、待っていようか」
「うん」
女の子は、再び笑顔を取り戻した。
一一外灯の下より、一目の付かない薄暗い場所へ移動する。
ライトの姿は普通の人には、見えないので、女の子が一人で話していると変に思われるからだ。
白い翼と頭の上のリングに意識を集中させる。
ポゥっと、白いモヤがかかり、翼とリングが霞む。
そして、モヤが消えると同時に翼とリングも掻き消えた。
万一、誰かに見られる事があっても、大丈夫なように隠したのだ。
「あれっ!!羽なくなっちゃったぁ」
(…羽……)
ライトは、眉をひそめる。高貴ある翼を羽呼ばわりされて、少々、自尊心を傷付けられたが、なにぶん小さな子供の言う事と我慢する。
「天使である事は、内緒なんだ」
人差し指を唇にあて、しーのポーズを取る。
「うん、分かった。内緒ね」
ライトの真似をして、小さな唇に小さな人差し指をあてる。
女の子の唇は、寒さで青くなっていた。
「秘密だから、誰にも言っては、駄目だよ…えっと…」
そこで、名前を聞いていない事にはたと気付く。
そして、自分も名乗ってない事に。
「えっと、お名前は?」
「ひかりだよ。良い名前でしょ?」
(…ひかり…)
ライトは、考える間もなく、反射的に女の子の肩をがっしり掴み、その顔をじっと覗き込む。
彼女の面影を探し出そうと…
「痛い、痛いよ」
ひかりが、尋常でないライトの様子に、怯えたような声をあげる。
我に返り、ライトは慌てて手を離した。
「ごめんね」
多分、彼女ではない。
何故と聞かれても困るのだが、ライトには、何故だか違うと分かった。
第一、今世でも、名前が同じであるはずがないのだ。
(ただ、名前が同じというだけで、何を期待しているのだ、僕は)
天を仰ぎ、ゆっくり瞳を閉じる。
真っ暗な闇が目の前に広がる。
まるで、ライトの気持ちを現すかのように。
多分、違うと分かっていても、期待せずには、いられなかった。
辛い仕事をしてまでも、転生を望まなかったのだから…
フゥー
大きなため息を一つつく。気持ちを切り替えるように。
目を開くと、ひかりは痛そうに、肩を擦っていた。
「本当にごめんね、ひかりちゃん。僕の探している人と同じ名前だったから、つい…」
申し訳なさそうに項垂れる。
辛い気持ちを隠すようにギュッと下唇を噛み締める。
そんな様子に気付いたひかりは、慰めるように
「同じ名前…良い名前だよね。ひかりの名前は、ママが付けてくれたの。ママとパパの希望のひかりだからって。でも、パパは、ひかりが小さい時にりこんっていうのをしたから、いないんだって。天使さま、お名前は?」
少し得意気に、そして、少し寂しげにひかりは言う。「ライトだよ。日本語で光という意味なんだ」
昔、彼女に言われた事を思い出し、懐かしそうに遠くを見ながら、教えてあげる。
よく、判らないのか小首を傾げている。
「……一緒ってこと?」
「そうだよ」
コクンと頷いた。
ひかりは、パァーっと顔を輝かせ、
「ひかりとライトは一緒。ひかりとライトは同じ」
ライトを元気づけるようにクルクリ回り、踊り出す。ピンクのコートの裾が、まるでスカートのように広がる。
何か思い付いたように、ピタリと踊るのを止めて、ライトの方へ向き直る。
「きっと、会えるよ…ひかりとライトは、一緒、一つのものなんだから。どこかで繋がっている。だから、ひかりとライトは会えたんだよ」
小さなひかりが、大人のように思えた。
(繋がっている)
その言葉がライトの胸を打つ。
何故、ひかりが彼女と同じ事を言うのか、不思議に思う事さえ出来ない程に…
昔、彼女が鈴の音のような可愛い声で、甘えるようによく言っていた。
「なんだか、ライトは他人って気がしない。名前も同じ意味のものだし…きっと、私達は、一緒、一つの者なのね。違う者でも、一つの者なのよ。どこにいても、離れていても、繋がっているのよ」
そして、別れの時でさえも、繋がっているから、何時か必ず会えると
(離れていても、繋がっている…か…僕には、今、君を感じ取る事すら、出来ないと言うのに…)
ライトは、涙が溢れるのを感じ、慌てて膝をかかえて、しゃがみこみ、その膝に顔を埋めた。
ひかりに涙を見られるのが恥ずかしかったからだ。
「どうしたの?」
急にしゃがみこんでしまったライトに心配そうに尋ねる。
「……」
ライトは答えられなかった。
答えたら、声を上げて泣いてしまいそうだった。
踊り疲れたのか、それとも、ライトが泣いているのに気が付いたのか、判らないが、ひかりは、ただ黙って隣に腰を下ろし、ライトにもたれかかる。
彼女も、ライトが落ち込んでいる時、よくこうしてくれていた。
ポツン、ポツン一一
しばらくして、何かが自分の上に降り注ぐのを感じて、ライトはそっと顔を上げた。
いつの間にか、涙は止まっていた。
変わりに、空から水の雫が落ちてきて、地面を濡らす。
「あっ、雨だ!」
ひかりも、気が付いて、空を見上げる。
雨粒が、ひかりの頬に落ち、まるで泣いているように見えた。
最初は、少しだったのが、しだいに強まる。
ライトは、真っ白な翼を出し、大きく広げる。
ひかりが濡れないように…
(誰かに見られるかも…)
一瞬、頭によぎるが、それよりもひかりを濡らしたくなかった。
「ありがとう」
ひかりはライトにお礼を言う。
「あっ、そうだ!!」
何かを思い付いたように、左側のコートのポケットをごそごそ探る。
小さな手に何かを掴み出す。
「はい、あげる」
グゥの手をライトに突き出す。
何を持っているのか分からないが、そっと手の平を差し出す。
それを確認すると、ひかりは手を広げ、ライトの手の上にポトンと落とす。
…それは、ピンク色の小さな飴玉だった。
「ママにもらった元気の出る飴、ライトにあげる」
ひかりは、ライトが元気がない事に気が付いていたのだ。
「貰えないよ。ママに貰った大切な飴でしょ?」
「いいの。ひかりは元気だから、ライトに食べてもらいたいの。ママの飴、すごーく美味しいんだから」
ライトは手の平の飴を見つめ、ギュッと握りしめる。
「ありがとう。いただくよ」
ひかりの気持ちが嬉しかった。
「うん」
キラキラした瞳で、早く食べてといわんばかりにライトを見つめる。
ライトは、天使なので、飴を食べる事が出来ない。
ひかりの優しい気持ちを大切にしたかった。
とりあえず、包みを開け、口に入れるふりをする。
ひかりを悲しませたくなかったのだ。
「ライト、美味しい?元気になった?」
「うん、すごく元気になったよ」
(嘘はついていない。ひかりの優しさだけで、十分元気になれた)
「やっぱり、ママの飴すごいんだ」
ひかりは満足そうだ。
「ひかりちゃん、ママの事好き?」
ふと、思った事を口にする。
「うん、大好き」
思った通りの返答。
とても嬉しそうだ。
「お家に、帰れなくても?」
「うん…ひかりが悪いの。ママ一人で、大変なのに、ひかりが我が儘ばかり言ったから、ママ疲れちゃったの。ひかりが良い子になって、いっぱい、いーっぱいお手伝いしたら、また、優しいママに戻ってくれるもん。だから、それまで頑張る」
小さな手を、めいっぱい広げ、いっぱいと言う言葉に力を込める。
(なんて、強くて優しい子なのだろう。酷い事をされているのに、母親を庇っている。僕なんかより、余程大変なのに、僕の事を気付かって、大切な飴をくれたり…少しでも、元気付けられれば)
ひかりが少しでも元気になれるよう色々な事を話した。
前は、ママとよくこの公園に遊びに来ていた事。
誕生日のお祝いにママとショートケーキを半分こして食べた事。
そして、貧しくても二人で頑張ろうと約束した事。
ひかりの話から、どれ位ママの事が好きかよく分かる。
一体、どれ位話していたのだろう。
タンタン、タンタン、タッタッターン
軽快な音楽が鳴り響く。
「あっ、ママだー」
ひかりは、携帯を取出して、確認する。
この曲は、ライトも知っている曲一一アマリリスだ。
既に雨は、止んでいた。
時計の針を見ると、8時50分を回っている。
楽しい時間は、もう終わりだ。
正直、ライト自身もひかりといるのは楽しかった。
辛かった心が自然と楽になっていた。
本当に、光のような子だ。
こんな小さな子を女手一つで、育てるのは大変な事くらい、ライトにも容易に想像出来る。
だからといって、子供をこんな時間に、外に放り出して良い理由にならない。
「ハァー」
ライトは、大きくため息を吐いた。
「ひかりちゃん、お家まで送るよ」
「うん」
家に帰れるのが嬉しいのかニコニコしていた。
帰り道、ひかりは道に出来た水溜まりを楽しそうに飛び越える。
時折、失敗して水溜まりの中へ落ち、水しぶきを上げていた。
ひかりの家は、公園から5分位のとこだった。
人通りの少ない路地を真っ直ぐ行った所の狭そうな古ぼけたアパート。
「ひかりのお家、あそこだよ」
二階の部屋を指差して教えてくれる。
部屋の窓から、灯りがついているのが、見てとれる。
「そっか、じゃあ、ここでお別れだね」
「うん…」
寂しそうに頷く。
…が、すぐに顔を上げ
「また、会える…?」
「会えるよ」
ライトは、間をあけずに答えた。
「本当?」
「うん、本当」
「じゃあ、約束」
「…約束…」
ライトは、オウムのように、ひかりの言葉を繰り返す。
ひかりは、ライトに小指をそっと差し出す。
ライトは、その小さな指に自分の指を絡めた。
ひかりは、絡めた方の手で、音程をとりながら、可愛い声で歌いだす。
「指切りげんまん、嘘付いたら、針千本のーます。指切った」
二人は、同時に小指を離す。
そして、顔を見合せ笑った。
(いつか、また会える…)
それは、多分、遠い未来。
この子の命が尽きる時に一一
ひかりは、多分、気付いていない。
約束が、守られるのは、そんな、ずっと先の未来である事に一一
(約束する。必ず、僕が迎えに来るよ)
それまでは、どんなに辛い事があっても、天使の仕事を続けようと、決心した。
ひかりは、自分のアパートの方へパタパタと駆けて行く。
ライトは、黙って、それを見送った。
アパートの前まで、来るとクルリと、こちらを振り返り、ライトの決心も、いざ知らず、天使のような笑顔で、バイバイと手を振っていた。
謎の部分が多いので、続きを書こうか、どうか迷っています。