第七話「逃亡」
空もオレンジ色に染まりかけていた頃、河原に立ち尽くす影があった。
フェンネルだ。石の踏み荒らされた個所――アポロンが破壊された場所に立ち、何かをこらえるように空を見ている。
口の端から何かが流れ落ちて白い肌を汚す。
赤い絵の具を水に溶いたようなその液体は、破れるほど強く噛み締められたフェンネルの唇から滴る真っ赤な血液。
「やってくれたの、あの若造……時間がないと言うのに」
言うなりフェンネルは両手を地面にかざし、指を複雑に動かし始める。
きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……!
森の鳥達がばたばたと騒いで飛び立った。
「ん……」
目を開けても真っ暗だった。
体の隅々まで問題なく動くことを確認してからアイナは静かに体を起こす。
辺りに人の気配はない。板を何枚も連ねた壁の隙間から、上弦の月が覗いていた。
「夜になったのか……」
どのくらい眠っていたのかはわからないが、体にだるさはない。半日以上ということはないはずだ。
もともとエルフに襲われたのは昼過ぎだったし、眠っている間に夜になったのだろう。
「アポロンさんは無事なのでしょうか」
しばらくすると目も暗闇に慣れてきた。見渡せば、そこは木造の物置小屋らしい。
土が剥き出しの床に、狩りに使う道具が散らばっていた。
エルフに襲われたのは覚えている。変な霧に包まれたところを不意打ちされたこともだ。
とすれば、自分はエルフに幽閉されたと考えるのが自然である。というか、他の可能性はない。
体の自由が奪われていないのは子供だと甘く見られているからだろう、この状況ではありがたかった。
外に誰かがいるかも知れない。なるべく音を立てないよう、物置小屋から役に立つものを探す。
「暇だな」
少女を放り込んだ物置小屋の見張りに立っていたエルフが、あくびを噛み殺しながらつぶやいた。
すぐに隣のエルフがたしなめる。
「そりゃ、見張りなんだからしょうがないだろ」
「でもよ……普通、こういうのって閉じ込めた奴が脱出を考えたり
そいつの仲間が助けに来たりするもんじゃないか?」
「紙芝居の見過ぎだぞ」
「てめえ、紙芝居じゃねえよ、本だ、本」
どん、どん。
物置小屋の中から、壁を叩く振動が伝わってきた。
「起きたか?」
「そうみたいだな」
どん、どん。
中の少女は考えなしに壁を叩いているようだ。
いかに薄い板張りの壁とはいえ、少女の細腕で壊せるはずがない。
仮に扉を叩いたとしても、扉には太いかんぬきがついている。脱出は考えられなかった。
どん、どん。
「おい、うるさいぞ!」
見張りの一人が大声で叫んだ。しかし、壁を叩く音は収まらない。
「おい!聞こえないのか!」
どん、どん。……ばきゃあっ!
ふいに異質な音がまじった。見張りのエルフが顔を見合わせる。
「まさか……壁を破ったのか?」
「馬鹿言え、素手で破れるかよ」
「で、でもよ。スコップとか、矢じりとか……あるんじゃないか?」
「……ヤバいぞ」
エルフは目に見えて慌て始めた。ここで少女を逃がしてしまえば、オニバスに合わせる顔がない。
焦りにぎこちなくなる手つきでかんぬきを外し、腰の剣を引き抜いて扉を蹴り開けるとそこには、
「引っかかりましたね」
ちょっとした土いじりに使う鉄製のスコップを右手に構えた少女が、引きつった笑みを浮かべていた。
どっ――!
「ご、おっ!?」
少女――アイナは男達が戦闘準備を整えるよりも早く踏み込み、エルフの一人に肩からぶつかっていた。
思わず倒れ込んだエルフの腹を尻で押さえつけ、両腕の付け根に膝を落とし、完全に反撃の手を封じると
スコップの柄を拳の端から出し、眉間に三発ほど叩き込む。
急所に痛烈な打撃をもらい、あっという間にエルフは失神した。その手から剣を奪うのも忘れない。
「て……てめえっ!」
残ったエルフが怒りの声とともに剣を振り下ろしてくるが、
――きゃりぃんっ!!
魔法を使ってくるならまだしも、正統な剣術が伝わっていないこの島のエルフに
剣と剣との果たし合いでアイナが敗れるはずがない。
彼女は幼き頃より父から、実戦で通用する剣術――否、剣の扱いを学んでいるのである。
即座に振り返ったアイナは自らの刃で敵の刃を押さえ込み、鋭い視線をエルフに向けていた。
「くっ!?このガキ!」
いかに非力なエルフといえ、男が少女に力負けするのは認めたくない。
そんな思いをわかりやすく顔に出し、エルフはよりいっそう剣に力を込めるものの
そんな意地などアイナにはどうでも良いのだ。
入れた力が災いした、アイナが剣を傾けてやると刃は刃の上を滑り落ち
それに引っ張られてエルフの体も前に流れる。後ろ頭、首筋、背後――ありとあらゆる急所がアイナに向けられた。
があんっ!!
よりどりみどりの弱点から後頭部をチョイスし、先ほどスコップでやったようにアイナは柄尻でエルフの頭を殴りつけた。
成人はしているのだろうが、背丈はさしてアイナと変わらないエルフが
滑稽劇のようにぱったりと昏倒して動かなくなる。
「お仲間を呼ばないでいただき、助かりました。感謝します」
当然ながらあまり経験のない真剣勝負の興奮に息を荒くし、アイナは頬を震わせて皮肉を残した。
剣の鞘を奪い、自らの腰に巻いて走り出す。
アイナは走った。
どんな場所をどう走ったかなどいちいち覚えはしなかった。
もうすぐ帰れるというのにこんなところで捕まっているつもりはない、
フェンネルか、アポロンのもとに行ければどうにかなると信じて走り続ける。
しかし慣れない森の中、どうしても荒れた地面につまづいてスピードは落ちた。
その点向こうはこの森を知り尽くしたエルフ達である。簡単に追いつかれてしまった。
「くそっ……」
思わず悪態をつくアイナ。足音はすぐそこまで迫ってきていた、魔法でも使われたら終わりだ。
「くそっ……」
獣道をそれ、肌を傷付けながら茂みに飛び込む。
とにかく逃げねば。アポロンのところまで。フェンネルのところまで。
森に住む者達とはいえ、さすがにうっそうと生い茂る草木の中に立ち入ったことは
向こうの足を鈍らせることに貢献してくれたらしい。抜いた剣でばしばしと草を刈り、進む。
しばらく行くと、森は唐突に開けた。はるか下から響くかすかな水音と、一転して岩だらけとなった景色。
「崖……やった!」
希望を顔ににじませ、アイナは崖沿いに進路を変更した。
この崖はアポロンとともに釣りに出かけたあの谷だ、これに沿って進めば、谷の付近に建っているフェンネルの家に辿り着けるはず。
わずかに見えた光明に足はやや軽くなったが、それが動かされることはなかった。
「……いたぞ、こっちだ!」
フェンネルの家の方向に、エルフが数人現れたのである。
抜き身の剣を構えたアイナであったが、背後からがさがさと草を掻き分ける音を聞いて凍りつく。
「う……あ……!」
前は敵、後ろも敵、左右はうまく動けない森と落ちたら確実に死ぬ高さの崖。
逃げ場はなかった。
「油断のできない女だ」
一人が肩で息をし、呆れたように汗を拭う。
「長老に言って、計画を早めてもらったほうがいいかもしれないな」
「確かにな……いつ逃げられるとも限らない」
「とにかく捕まえようぜ、話はそれからだ」
エルフが近寄っていくと、少女は不適に笑った。笑顔がぎこちない。
「……どうも話を聞いていると、私に死なれては困るようですね」
じゃり。
固い地面を擦るように、少女の足が一歩を踏み出した。その方向は崖である。
「と、言うことはです。ここから私が飛び降りれば、あなた達に一矢報いることも可能なわけですね?」
少女の目は本気であった。ここから飛び降りるつもりでいる。
エルフの戦士達が目を見開いた前で、少女はもう一歩後ろに下がった。
地が崩れ、小石がからころと壁面を伝って落ちていく。
「お、おい!捕まえろ!」
「誰か『惰眠』を唱えておけ!」
男達が飛びかかるより早く、少女の体は宙を舞っていた。
「ああっ……!」
伸ばした手は少女に触れる寸前で空を切り、エルフの男に悲痛な声をあげさせる。
絶句する男達の大きな耳に、何かが川に落っこちた派手な水音が届いた。
――ばしゃあんっ。
「……」
「マジかよ……」
皆がみな小刻みに震え、エルフ達は少女が身を投げた崖を見つめていた。
「こ……これで、俺達の集落の運命は……」
「ば、馬鹿言うな!川に落ちたんなら、生きてるかもしれねえ!
あのガキが生きていれば――死んでなければいいんだろ!?」
男が崖下を覗き込むが、少女の姿はない。男達を絶望が支配する。
「な、流されたのかも知れないだろうが。あの川は深いし、急だ」
「とにかく、探さねば……誰か、長老に報告を。長老の判断を――」
つぶやいたエルフの眼前に、一人の少女が降り立った。
「仰がねば……え?」
絶句する男の視界が、真っ白な光に満たされる。
賭けであった。
自らの手札をすべて使っての、伸るか反るかの一発勝負だ。
アイナは本気で崖から飛び降りる気でいた。しかし、投身自殺をするつもりは毛頭なかった。
まず、アイナは飛ぶと同時に、自らに『重力制御』の魔法をかけていた。
フェンネルに教わったいくつかの魔法のうちの一つだ、物体にかかる重力を自在に制御する。
極めれば重力の向きさえもコントロールし、それを使って空を飛ぶことさえ可能だとフェンネルは言っていたが
初心者のアイナにそんな大それた真似ができるはずがない。
自らの体重を限界まで軽くして、壁面に張り付いていたのである。
次に、自らの身代わりとなる石ころを落とした。これは崖の岩を蹴飛ばして落としただけだ。
うまいこと風に流され、川に落ちてくれた。川に流されたと思ってくれるだろう。
ここで下を覗き込まれてはすべてが台無しであったが、エルフ達は動揺したのだろうか、自分の生死をすぐには確認しなかった。
完全にツキは自分に来ている。それを確信し、アイナはでこぼこした岩を伝って位置を変え、
『重力制御』の魔法にさらなる魔力を送り込んだ。
数秒ではあるが、アイナの体重は胎児よりも軽くなった。
しかし、筋力まで胎児並に劣るということはない。アイナは軽くなった自らの体を思い切り上へ跳ね上げた。
力はそのままに体重だけが軽くなったアイナは、エルフに気付かれることもなく天を目指して上昇する。
ここで見られても終わりだったが、張り付く位置を変えたのが幸いした。エルフ達は自分に気付いていない。
そもそも、人間が魔法を使うなどとは考えていないだろう。アイナはその隙を突いたのだ。
地形からくる強風に体を流されないよう体重をもとに戻し、アイナは一番端のエルフのそばに降り立つ。
足のしびれは意思の力で強引にねじ伏せた。すぐさま神経を左手に、意識を地面へと集中させるアイナ。
左手で構築する魔法は、生まれて初めて習い覚えた魔法。
きぃぃぃぃぃぃぃぃっ!
地面が強い光を放つ。ありったけの魔力を込めて放ったアイナの魔法『光源』は
その光で夜の闇を照らし、何の警戒もしていなかったエルフの視界を完全に奪った。
アイナの目も光に痛んでいたが、光ることがわかっていればどうとでも耐えられる。
「ああああああぁっ!!!」
聞きようによっては泣き声と取れなくもない裂帛の気合で剣を振るい
アイナは目を押さえてうずくまるエルフの肩口に刃を叩き付けた。
服の中に革鎧を着ているようで斬れはしなかったが、その激痛にエルフは気を失う。
たとえ鎧を着ていようと、剣で殴られればそれは鉄で殴られたことと同義である。傷を負わないわけがなかった。
光の中を駆け回り、次々とエルフを打ち倒していくアイナ。
全力で魔法を使ったせいなのか、めまいがひどい。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
光を消すと、アイナの周囲にはエルフの男達がばたばたと倒れていた。
口の中にまとわりつくような濃い味の唾を吐き捨て、口の端についたものはブラウスの袖でこすり取る。
貴族の一人娘らしくない仕草であったし、普段の彼女なら絶対にやらないだろうが
魔法が原因の精神の衰弱と殺し合いの興奮が、誰にでも少なからずある乱暴な一面を表に出していた。
「アポロンさん……フェンネルさん……!」
よろよろと地を蹴る。この谷沿いに進めば、フェンネルの家がある。フェンネルの家が。
フェンネルの家にはアポロンがいる。フェンネルもいる。行けば助かる。
アイナがここまで逃げて来れたのは、何より常に冷静でいられたからだ。
どれほどの恐怖だろうがどれほどの混乱だろうが、アイナを縛ることはできなかった。彼女は常に冷静だった。
その背骨が崩れ去ろうとしている。今のアイナの頭の中はフェンネルとアポロンのことでいっぱいになっていた。
見知らぬ地で、頼れる者と引き離され、何か良からぬ目に合わされようとしている。
危機的状況は確実にアイナを蝕んでいた。だから、飛来する飛び道具にも気付かない。
「……は!」
びゅおっ!
アイナの頬を光るものがかすめていった。飛び散る鮮血。バランスを崩して倒れ込む。
「あんっ!」
顔面から石の地面に倒れ込んだが、痛いとは感じなかった。うつ伏せのまま前を見ると、新たなエルフの集団がいた。
さっきの者達のような魔法の明かりではなく、たいまつを灯している。
逃げ出したアイナを追いかけて慌てて明かりを用意したのではないことを意味していた。
それはつまり、事前に十分な準備をしていたことを意味する。奇襲は通じないだろう。ならば。
「……いけぇっ!」
きぃぃぃぃぃぃっ!
アイナが素早く左手で印を結ぶと、先頭のエルフの眼前に光の玉が現れた。
目も眩むような凄まじい光量だったが、しかしエルフは鼻を鳴らしてその光を消し去ってしまう。
「魔法を教えてもらっていたとは驚いたが」
『光源』の魔法で呼び出した光は『解除』の魔法を用いることで消す。
それは自分で構築した『光源』に限ったことではない。技量さえあれば、誰の魔法だろうと消すことは可能だ。
「エルフの魔法を使って、エルフを倒すつもりでいたのか?」
諭すような口調で言ったのは、痩せ細った男のエルフだった。オニバスと言う名を、アイナは知らない。
「……っ」
四つん這いに身を起こし、アイナは次の手を考えた。
単純な剣の技量で勝る自信はあったが、所詮は多勢に無勢である。肉弾戦では勝ち目はない。
かといって魔法の打ち合いなどに挑めるはずがない。戦う手段はなかった。
「だったら!」
アイナの左手が新たに動き始める。手首を返し、指を複雑に動かして構築したのは『重力制御』の魔法だ。
自重を軽くすれば、空に逃げることができる。戦えないなら逃げるしかない。
アイナの判断は間違ってはいなかった。だが誤算だったのは、それもエルフの魔法であったことに気付かなかったことだ。
「……!?」
手を動かし終えても、魔法が発動した様子はない。
「『重力制御』か。なかなか才能はあるようだが……
どんな魔法にも解除の方法はあると、フェンネルに教わらなかったのか?」
愕然とするアイナ。戦おうにも逃げようにも、彼女の打つ手は今の一言ですべて潰されたも同然だ。
「――なまじ、傷付けずに捕らえたのがいけなかった。やれ」
きぃぃぃぃぃぃぃ――
「あの女の子が見つかったらしいぞ。谷沿いの辺りだ」
「谷沿い?危なかったな、フェンネルの家の近くじゃないか」
仲間の報告を受けたエルフの戦士達が夜中の森を走っている。
一人は片手にたいまつを握っている。暗い森にもそれなりに視界を確保することができた。
だからこそそれに触れる前に、それの存在に気付く。
「フェンネルに合流されてたら危なかったな……お?」
視線の先に半透明の板があった。薄汚れたガラスを通して見たように、奥の景色が白くにごっている。
男の一人が砂利を投げてやると、半透明の板にぶつかった瞬間に火花を散らして弾けた。
「……『結界』の魔法? なんでこんなとこに」
「女が駆り出されたって聞いたか?」
彼等の集落で、『結界』の魔法を使うのはエルフの女戦士の役目だった。
だいたい数人から十数人が集まって協力することで
最大十数メートル四方の結界を張り、その間の行き来を封じることができるのだ。
「いいや、聞かない。長老がやったんじゃないのか?」
「なるほど、中に少女を追い込んだか。とりあえず迂回して合流しよう」
エルフの戦士達は結界に沿って歩き出した。が、行けども行けども半透明の壁は続いている。
十数分ほど歩いたときだろうか。一人のエルフが言いにくそうに切り出した。
「……あのさ」
「どうした?」
「この結界を張ったのってさ、女じゃなくて……いや、その、女なんだけれども。
女達じゃなくて、長老じゃなくて、その、さ」
「なんだよ、はっきり言えよ。どうしたん――」
あらかじめ計画しておいたように同じタイミングで、エルフの戦士達は立ち止まった。
この結界を張った人物に思い当たったのだ。
かろうじて生きてはいた。
全身は黒いあざと赤い裂傷に彩られ、フェンネルの仕立てた服は奴隷のまとうぼろきれのように穴だらけだ。
穴という穴から何らかの液体を垂れ流し、アイナは木の幹に寄りかかってぐったりしている。
悔しさのためか痛みのためか、涙を流し続ける目の焦点も合わなくなってきていた。満身創痍という表現が相応しい。
「……あっ……えっ……えっ……」
低い嗚咽が痛ましいが、目の前に立つエルフ達に同情した様子はない。
「許して……痛い……助けて……」
「それはできない」
オニバスの言葉に、アイナはどうにか首だけをそちらに向ける。
ときおり助けを哀願して、後は泣き続けている。怒りも悲しみもない。とにかく苦痛からの解放を望んでいた。
オニバスに抱きかかえられた拍子に瞳に溜まっていた涙が落ち、地面に吸い込まれる。
「おねがい……たすけて……おとうさま……あぽろんさん……」
「あぽろん――ああ、あのゴーレムか」
アイナの言葉尻を捉え、ぼそりとつぶやくオニバス。
「あきらめろ。あのゴーレムなら俺が壊した。もうこの世にいない」
泣き腫らしたアイナのまぶたが限界まで見開かれたが、オニバスに動じた気配はなかった。
「呪いたいなら呪えばいい。俺が受けよう。
朽ちた楽園を取り戻す大儀のため、生贄となってくれ」
かちかちかちかちかち、白い歯を何度も打ち鳴らすアイナ。
震えているのか、歯を食い縛ろうとして力が入らないのかはわからない。
一度少女を哀れむような目で見た後、オニバスは振り返って配下の戦士達を見やった。
「これでもう逃げはしないだろう。儀式は明日の昼に実行する、計画の最終段階だ」
アイナを運ぶオニバスを先頭に、数十人のエルフの戦士達が森を進んでいた。
お世辞にも規則正しいとはいえない足音に傷がうずくのか、思い出すようにアイナがうめく以外は
皆とくに言葉も発さず、道中は静かなものだった。
そんな静寂が破られたのは、オニバスに従っていたたいまつ持ちが自らの影に目を落としたときだった。
「……だいぶ長く森にいたようですね、夜が明けてきました」
先頭を行くオニバスに話しかけると、オニバス以下、周辺にいた全てのエルフに妙な視線を向けられた。
「何を言っている?」
「え?ですから、夜が明けてきたと」
「お前、寝ぼけてるのか?これから夜も更けようって時間だろうが」
「え?……え?だ、だって見てくださいよ、ほら」
たいまつ持ちは皆の足元を指差して言う。
「影が薄くなってるじゃないですか。夜が明けてきたんですよ……あら?」
空を見上げたたいまつ持ちがぽかんと口を開けた。
雲に隠れていた月が出たのか、先ほどよりも明るくなったのは確かだが
空はまだまだ黒一色、星達のまたたく一面の夜空である。間違ってもまだ明けないだろう。
しかし、確かに皆の影法師は薄くなっているのだ。
エルフ達は周囲に視線を巡らせ、そして硬直した。森が光っている。
きぃぃぃぃぃ……
周辺の木が、木の葉が、草が、土が、蛍のそれのような淡い光を放っているのだ。
もちろん、この森に光るような習性を持つ動物や植物はない。
唯一可能性があるとすれば『光源』の魔法だが、これだけ多くの物体を光らせるには相当な人数がいるはずだ。
あるいは、その人数分の魔法を一人でまかなえるほどの熟達した魔法使いか――
「……皆!その場を動くな、警戒しろ!」
「警戒しろとはご挨拶じゃの」
オニバスの声に答える者があった。どことなく老成した響きを持つ、若い女の声。
そんな矛盾した声の持ち主を、オニバスは一人しか知らなかった。
ずん……
獣道の奥から、重く土を踏み締める足音が響いた。
ずん……ずん……
エルフ達の表情が青ざめていく中、アイナの表情だけが輝きを増していく。
ずん……ずん……ずん……
森の輝きに照らされて現れたのは、直立したゴリラのようなシルエットの巨大な石人形。
それはこの島に遭難したアイナを助けてくれた心優しきゴーレム――アポロンの姿に他ならない。
礼をするボーイのように長い腕を腰に当て、真っ直ぐエルフ達へ近寄ってくる。腰の手には長く細い足を組んで座る人影があった。
長く薄い金髪。
大きく尖った耳。
背は高いが痩せた体付き。
「フェンネル……」
オニバスが震える唇でどうにかその名を紡ぎきる。
アポロンの手の平に腰かけていたフェンネルは、いつもの老成した笑みをオニバスに向けた。目だけが笑っていない。
「オニバス。私が怒っているのはわかるな?だが、許してやらんこともない。
今すぐアイナを渡せ。そうすれば、今までのことは水に流してやっても構わんぞ?
アポロンを壊したことも、アイナを傷付けたことも、の」
「どうやって……ゴーレムは破壊したはずなのに!」
「破片があったからの。一から作るのはさすがに無理じゃが、部品があればゴーレムの一つや二つ、簡単に直せるわ。
さすがにアポロンを直すのは骨が折れたがなあ」
絶句した。自分の意思を持つほど高度なゴーレムの核を
粉々になった状態からこの短時間で修理するなど、オニバスには考えられなかった。
できないとは言わない。が、「骨が折れた」の一言で済ませられる簡単な仕事ではない。
「で? 返答は? まさか、断ったりはせん……よな。
おんしはそこまで馬鹿ではないと思っておったが、買いかぶりか?のお」
「……」
フェンネルがぴょんとアポロンの手から飛び降りる。無意識にオニバスは後ずさりしていた。
「オニバス?」
端正な顔をしかめて言葉を選んでいたオニバスの背後、戦士達の気配が変わった。
各自が顔を見合わせたかと思えば、その表情に並々ならぬ覚悟をにじませて魔法を構築し始める。
「恐れるな!相手は二人だ、殺せ!」
戦士の中でも階級が上らしい一人がそう叫んだが、それはフェンネルに聞こえてしまっていたらしい。
「殺す?」
面白そうに片眉を跳ね上げ、唇を吊り上げてフェンネルは指を鳴らす。
ふいにフェンネルの十本の指がざっとぶれたかと思えば、
――ぎゅるああああああっ!!!
轟音とともに光り輝く森のすべてが活動を始めた。
足元の土が蛇のように細長くうねってエルフ達を縛り上げ、
周囲の木々が生物となったようにもぞもぞと動き出し、根で歩き、枝を腕に見たててエルフ達を羽交い締めにする。
腰を抜かしてへたり込んだエルフは、しゅるしゅると伸びてきた草木に四肢を絡め取られ
慌てて魔法を『重力制御』に切り替え、飛んで逃げようとするエルフは天井の結界に頭をぶつけて落ちてくる。
神秘的な雰囲気すら感じ取られた輝く森。しかし今、そのようなものはまったくない。
あるのは何がなんだかわからないままに自由を奪われたエルフ達の、助けて、助けてと泣き叫ぶ悲鳴だけだ。
「殺すのか。私を」
くすりと微笑んだフェンネルが指を鳴らすと、一瞬で木は元の位置に収まり、土は崩れ、草は引っ込んだ。
「百をちょっとばかり過ぎた小童が、私を殺すとは良く言ったものじゃな。
も一度言ってみろ。ぶっ殺す」
解放されてもなお怯えてすすり泣くエルフ達を冷笑をもって見下ろし、
フェンネルはオニバスへと視線を戻した。
「アイナを渡せ」
「……どうして……お前達は……!」
オニバスはアイナを放り捨て、腰の剣を引き抜いた。フェンネルの冷たい微笑みが消え、怪訝そうな表情に変わる。
「お前達は……お前達はどうして人間の味方をする!
どうして人間の味方になれる!? 答えろ!」
「質問をしているのは私じゃぞ」
「いいから答えろ!」
オニバスの瞳は怒りと決意に満ちていた。夜とは思えない明るい森で、フェンネルは静かに言う。
「……おんしには、同じように見えるかも知れんがな。私は人間の味方をするつもりはない。
ただ、その娘だけは。アイナだけは助けねばならん。母さんが何を考えていたのかを知りたいんじゃ」
フェンネルのその言葉に、オニバスは何も言わずにいた。
何も言わずに剣を持った右手を引いて身構える。歯ぎしりの音がフェンネルの耳まで届いた。
「答えたぞ。アイナを渡せ」
「断る……!」
「散々引っ張っておいてそれか。つくづく馬鹿な男じゃな……まあ、それも良かろう」
無造作に細身のバスタードソードを抜き、フェンネルは空いた左手で挑発的なジェスチャーをしてみせた。
「かかって来い、若造」