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第五話「来客」


草の陰に身を潜めて弓に矢をつがえたアイナは

ぴょこんと顔を出し、獣道を挟んだ向かいの草むらを覗き込んだ。

ブラウスの上に簡単な上着を羽織り、下はスカートではなく裾の長い頑丈なズボン。

リボンも普段とは巻き方を変え、薄い栗毛をポニーテールにまとめている。

反対側の草むらでは、同じような格好をしたフェンネルが

やはり同じように弓の準備をしていた。

親指と人差し指で輪を作って小首を傾げるアイナのサインに、親指を立てて返答する。


天を覆う大量の木の葉が、その隙間から光をたらす裏山の獣道。

草木が深くなり、自然と道が途切れた突き当たりにその者はいた。

ずんぐりとして、それでいて曲線的な印象を抱かせない筋骨隆々とした体、

針のようにちくちくと生え揃った毛並み、豚を思わせる大きな鼻。

音を立てないよう慎重に草むらから体を出し、アイナとフェンネルは弓の弦を引き絞る。

「……1」

アイナの声に反応したのか、その者は草を食むのをやめた。

「……2の」

フェンネルの声に反応し、その者はくるりと尻を向けていた方向に――アイナとフェンネルに向き直る。

「「……3っ!!」」

二人が同時に右手の握力を緩める。弦が唸りをあげ、空気を切り裂いて二本の矢が放たれた。

矢の一本は狙い違わずその者の脇腹へ、もう一本はその者の背後の木へ突き刺さる。

肉をえぐられる痛みにその者は悲鳴をあげたが、対峙する二人からしてみれば

それは自らに傷を負わせた者に対する、怒りの雄叫びにしか聞こえなかったに違いない。


――ぶもおおおおおおおっ!!!


背を向けて走り出したアイナとフェンネルを憤怒の形相で睨みつけ、

その者――体長二メートルを超える巨大なイノシシは、足元の草を勢い良く掘り返した。





アポロンは薪割りの台にするために埋めてある丸太に腰を下ろし、

スープに使った雑穀のもみがらを庭にまいていた。

こうすると、もみがらを食べるために小鳥達が寄って来る。

餌付けの習慣をつけておくことで、家の食べ物を荒らされるのを防ぐ――とフェンネルには説明しているが、

実際は取り立てて趣味のないアポロンの暇潰しだった。

アイナが手伝ってくれるようになってから、釣りが普段より早く終わってしまうようになっていた。


ちちち、ちちちち、ちちちちち、さえずりながら細かな食料を突っ突く小鳥達に

友達の少ないアポロンがその切ないロンリーハートを癒されていると、


――ぶもおーーーーっ。


裏山のほうで妙な鳴き声が聞こえた。そこそこの音量だったため、小鳥はあっという間に飛び去ってしまう。

小さな羽を無数に浴び、アポロンはしばしあっけに取られたようにそちらを見て

やがて納得したように手を打った。フェンネルが何かやったのだろう。

今日は狩りにアイナも連れて行っていた。彼女が怪我をしなければ良いのだが。

危険がないことを悟って舞い戻ってきた鳥達にたかられつつ、アポロンはぼんやりとそんなことを思った。




「フェンネルさんっ、少しは当ててください!」

「おんし、必死に頑張ってるエルフにかける言葉がそれか!?」

言いながら放った矢は、まるで見当違いの方向にすっ飛んでいった。

舌打ちまじりにアイナが矢をつがえ、足を止めて振り向く。


――びょう、どっ!


矢はイノシシの太い前足を捉えたが、イノシシの突進が弱まる気配はなかった。

乱立する木々が横幅のあるイノシシの通行を邪魔し、二人に味方してはいるものの

それで二人が有利になっているかと言えば、そうでもない。ハンデがあって互角の勝負である。

イノシシはやじりが肉を抉る痛みも意に介さずに突撃を続ける。慌てて走り出したアイナに、フェンネルが叫んだ。

「アイナ!見えたぞ、目印じゃ!」

嬉しそうなその声に、やっと見えましたかとアイナも安堵する。

細い木の枝に、遠目にもそれとわかる鮮やかな赤の布が結んであった。

二人は矢筒から新たな矢を取り出しつつ、ぎりぎりまでイノシシを引きつけて左右に飛んだ。

何も考えていなさそうに勢い余って若木を踏み潰したイノシシがゆっくりと振り返り、

自らを狩りに来た人間とエルフを見据えた。


ぶもおおおおおおっ!!


果たしてイノシシとはこんな声で鳴くものなのか、

アイナの知るイノシシとは違う種類なのかも知れない。巨大すぎる。

そんなことを考えつつ狙いをつけていたアイナの耳に、フェンネルがやや緊張したつぶやきが入ってきた。

「うう、怖いのお。私の人生はこれまでかも知れんな、

 最期に恋愛くらいはしてみたかったわ」

「フェンネルさん、あなた週に五日は狩りに出てたんじゃないんですか?」

「射っても射っても矢が当たらんからの、みんな怒ったりなんぞせんでな。

 矢が落ちたり刺さった音で、さっさと逃げてしまうんじゃ」

「……」

黙ってしまうアイナをフェンネルはひとしきり眺め、やがて言った。

「ふむ。ここは一つ、極限状態の中、新たな嗜好しこうに目覚めてみるかの」

「黙れ」

「そんな口調を変えて怒ることもないじゃろ、きれいなお姉さんは嫌いか?」

「ここできれいなお姉さんの首を差し上げれば、イノシシさんも私を許してくれるかも知れませんね」

「すまん、私が悪かった」

「よろしい。――では、真面目に狩りに戻りましょう。私はこんなところで死ぬ気はありませんので」

「私だってないわ。……アイナが本当にお嬢様なのかどうかを疑ってしまった

 クロノガルデニアのフェンネル、ときに四百六十と少しの冬であった」

「今は初夏です」


びょうっ!


二人が図ったように同じタイミングで矢を射るが、やはりフェンネルの矢は外れる。木の欠片を散らした。

「ええい!ズルじゃ!ひいきじゃ!インチキじゃ!

 どうして私の矢だけ当たらんのじゃあっ!」

「騒いでる暇があったら早く次の矢を射ってくださうひゃあっ!」

間一髪でかわしたアイナの衣服を、イノシシの硬い毛がかすめていく。

イノシシの体当たりそれ自体はかわしたアイナであったが、土から気まぐれに顔を出す木の根に足をとられ

その場に尻餅をついてしまう。ついでに尻を落としたところに石が顔を出していたから大変だ、

飛び上がるような激痛に悲鳴をあげるアイナだったが、実際に飛び上がれはしない。

そうなったらどれほど喜んだだろう、飛びかかってきたイノシシにのしかかられてしまったアイナ。

「きゃああっ!?」

「おのれ、イノシシのくせに馬乗りになるとは!アイナを放すんじゃ!」

フェンネルが鋭い瞳で弓を引くものの、


びょうっ――がすっ!!


放った矢はアイナの耳元をかすめ、地に突き刺さった。アイナの顔が青ざめる。

「フェンネルぅーっ!!」

「すまん!ホント申し訳ないっ!!」

平謝りを呪いの言葉でもって掻き消し、アイナはもがきにもがいて腰からメイスを引き抜く。

棒の先に攻撃用の突起を取りつけた殴るための武器、戦槌とも書くそれは

年端もいかぬ少女であるアイナが振り回すには違和感があるごつい装備だ。

しかし所詮は田舎の島、武器屋に行けばこれしか売っていなかったのだからしょうがない。

不自然な態勢から精一杯の力を込め、右手の槌を叩きつける。鈍い感触が腕をしびれさせた。


――ぶもおおおおおっ……!


当人はあまり期待していなかったのだが、意外にもイノシシはもんどりうって倒れた。

アイナが知るはずもない知識だが、彼女の殴った耳の下――こめかみの位置は

痛覚神経の集中するイノシシの急所である。倒れるのも無理はなかった。

「こっ……やああああっ!!」

どうしてイノシシが倒れたのか、深く考える余裕などない。

さっさとマウントポジションから脱出したアイナは

勇ましくも立ち上がりかけたイノシシの眉間めがけてメイスを打ち下ろす。

両手に感じる確かな手応え。やったか、と気を緩めてしまったアイナのメイスを


ぶもおおおっ!!


イノシシは鼻で払いのけてしまう。目をむいたアイナは、次の瞬間強烈なタックルを見舞われ

有無を言わさぬ低空飛行を味わうこととなった。

数メートル吹っ飛ばされ、地に触れてもなお転がり、木の幹に体を打ちつけてしまう。


ぼすっ。


「っ……」

呼吸を詰まらせたのはフェンネルだった。背中に感じる柔らかさに振り向けば、エルフの苦悶の表情が目に入る。

木とアイナの間に割って入り、アイナにかかる負担を軽減させたのだ。その分、フェンネルにダメージがくる。

「フェンネルさん!?」

「ぉ……おおっ……け、怪我はないかの」

「は、はい、ありがとうございま―― っ!?」

飛ぶがごとく迫るイノシシの足音に気付いたアイナ。

痛む体を叱咤し、フェンネルを抱えようとするが、うまくいかない。イノシシがその隙を見逃すはずもなかった。

「くっ……」


ぶもおおおおおおっ――!!


手負いの獣の恐ろしさを噛み締め、アイナは覚悟を決めて目を閉じる。


ぶもおおおおお――おおおおおおおおっ!!??


まぶたを閉じた暗闇の中、アイナの耳に響いたのはイノシシの咆哮ではなかった。

聞こえたのは木々を組み、草を敷き、土をかぶせてカムフラージュしておいた古典的な罠の作動音。


――めき、めきゃきゃきゃっ……ずんっ。


「……」

「……」

イノシシは落とし穴を踏み抜いた。

ぶもー、ぶもー、と叫びつつ、かなり深く掘り下げてある穴の底から脱出しようと必死にもがく。

恐る恐る覗き込み、それでも勝利を実感できずに首をひねっていたアイナは、

背中側でフェンネルが立ち上がる気配を感じた。何やら怪しい笑い声が耳につく。背筋が寒い。

「ふっふっふっふっふ……」

フェンネルは剣を逆手に構えていた。穴の底を突く気なのは明白であった。





「本当に、死ぬかと思いました……まさかここまで使えないとは」

「これアイナ、エルフを物みたく言うでない」

ことこと、ことこと。台所からイノシシの肉の煮える音がする。

アポロンに女連中の肌が見えないようキッチンの陰に座り込み、

フェンネルとアイナは怪我の手当てを行っていた。

ぐったりした様子で尻をさするアイナの厳しい感想を、フェンネルは陽気に笑ってごまかす。

「人には得手不得手というものがあるじゃろ?エルフも一緒じゃ」

「限度があります。あの程度の腕で罠も使わずに、獲物が狩れると思っていたことが恐ろしいですよ、私は」

「おーおー、あれは見事じゃった。落とし穴というのがあそこまで効果のある罠だとは

 四百六十年生きてきて初めて知ったぞ」

「腕がないならないなりに、知恵をしぼってみようとは思わなかったのですか」

「そう怒るな、お互いに命は助かった、久々の肉料理も食える。万事OKではないか」

「結果論にすぎません」

「そんな一刀両断にしてくれるでない。落ち込むじゃろうが」

唇を尖らせて腕の湿布の上に包帯を巻くフェンネル。見え見えの芝居であった、目が笑っている。

こめかみに青筋を立てて拳を震わせていたアイナだったが、しばらくすると深く息を吐き

救急箱から大きめのビンを取り出した。ふたを開けるとツンとする臭いが辺りに漂う。

「服を脱いでください」

「ほえ?」

「私をかばった時に背中を打ったでしょう。薬塗りますから」

「……ああ。それじゃ、お願いするかの」

頬を赤くしての申し出にフェンネルは優しげな笑みを返し、もぞもぞと背中の布をまくりあげた。

アイナは面白くなさそうにため息をつく。その表情は程なくしてはにかんだ苦笑いに変わった。



アイナがフェンネルとアポロンとの共同生活を送るようになって、二ヵ月が過ぎた。

「エルフが来たのは嫌だが、だからと言ってわざわざ生まれ育った島を出て行くのも癪だ」と言って

この島で暮らしている人間の集落にも何度か訪れ、次の貿易船でウィナリスに帰れるよう手配もつけてある。

集落はエルフの頼みを聞くことが不満そうであったが、フェンネルが問答無用とばかりに金を詰むと渋々承諾した。

その金の出所はどこだと聞けば、企業秘密と答えられた。その謎は今のところ解決していない。


最初の頃こそ疑ってかかっていたアイナだったが、今はフェンネルとアポロンを家族のように感じていた。

アイナは幼い頃に母を亡くしており、兄弟姉妹もいない。使用人も多いわけではない。

貴族であるがゆえに一般市民の友達はおらず、成り上がり貴族ゆえに貴族の友達もいない。

父親に愛されている自信はあったが、それでも寂しさを感じていたのかもしれなかった。

今やフェンネルとアポロンは時に親のように知らないことを教えてくれ、

時に兄や姉のように頼り甲斐のある存在であり、

時に弟や妹のように自分を頼りにしてくれる、大切な仲間だ。


ただ、そういう思いが強くなるにつれて、自然と疑問もふくらんでしまう。

どうしてフェンネルはあの時、何の罪もない人々を巻き込んで船を焼いたのだろう。





くつくつと煮えたぎる鍋に大きなさじを入れて、自分のぶんを取り分ける。

リビングのテーブルをアイナ、フェンネル、アポロンが囲んでいた。アポロンは食事をしないものの、食卓には同席する。

木製のスプーンで肉を口に運び、ゆっくり味わって飲み込む。やはり美味しい。

「美味しいです」

いつものように素直な感想を言うと、アポロンは後ろ頭を掻いた。はにかんでいる時の仕草だ。

そしてテーブルを人差し指でとんとんと小突く。にこにこ笑顔で鍋の実をよそっていたフェンネルが頷いた。

「残さないで食べてくれ、だそうじゃ。そうでないと、殺されたイノシシに申し訳ないからの」

「わかってますよ、感謝しないといけませんね」

アポロンは生き物を料理した日は決まってこう言う。

以前フェンネルに「植物は生き物扱いせんのかの?」と指摘され、頭を抱えていた。

「ま、ここまで美味ければ残しようがないがの。久しぶりの肉じゃー、幸せじゃー」

「私はこの家に来てから初めてです」

アイナが意地悪く言うとアポロンも面白がって何か言ったらしい、

フェンネルが「何じゃと!ウサギくらいは獲ったことがあるぞ!」と騒ぎ出した。

「いいなあ、アポロンさんと話せるんですよね。それも魔法なんですか?」

「いんや? 何て言うかの、ほとんど何となく『そう言ってるんじゃないか』って思うだけなんじゃな。

 おんしもアポロンと二百年くらい顔を合わせてれば、そのうちわかるようになるぞ」

「そんなに生きられませんよ、私」

「わからんぞ。あれだけ正確にイノシシを射抜く化け物じゃからな、おんしは。

 案外エルフより長生きして、いずれは世界を破滅に導く大魔王に変身」

「しません。あれはフェンネルさんが下手なんですよ。

 剣だけじゃなく弓も教えましょうか?」

「つつしんで辞退するかの。おんしの訓練は厳しすぎるわ――」

フェンネルがそう言い、少し考えて首を振った。

「――あ、いや。受けようかの」

「あら?どういう風の吹き回しですか?」

アイナは面白そうに聞くが、フェンネルの表情は曇っていた。

「だっての。おんし、もうじきいなくなるじゃろ?」

アイナの微笑みが固まった。


二ヵ月はかからんじゃろ。

アイナがウィナリスにどれくらいで帰れるかと聞いたときの、フェンネルの返答だ。

その言葉の通り、もう一週間もすればクロノガルデニア=ウィナリス間の貿易船がやってくる。

そうなれば、アイナがこの島に滞在する理由はない。


「思い出は欲しいしの。おんしがいなくなってから、肉が食えなくなるのもつらいところじゃし」

「……ええと、その」

「なんじゃ?」

アイナは少し言いにくそうにしていたが、意を決したように話し始めた。

「もう少しここにお世話になることって、できませんか?」

「……」

フェンネルは何も言わなかったが、話し始めて調子が良くなってきたのか

普段のおとなしい態度には似つかわしくない饒舌さでアイナは舌を回し続けた。

「もちろん、働きます。狩りもしますし、釣りもします。

 洗濯も掃除も覚えます。何でもします。ですから、もう少しだけ置いてもらえませんか?」

「……ウィナリスには、おんしを心配してる人がいるんじゃろ?

 確か、父親がおるんじゃなかったのか?」

「ですが……」

「おんしを死んだと思っておるか、生きておると思っておるかは知らん。

 だが、どっちにしても悲しんでおることに違いはないぞ。

 まずはそういう人を安心させてからじゃ」

「では、帰ったら改めてこちらに」

「来るな」

やや明るさを取り戻したアイナを、フェンネルは一言で切って捨てた。

息を呑んだ少女を見据えるその瞳はいつもの気安い印象がまったくない。

眼光の鋭さは、船を焼いた邪悪なエルフにこそ相応しいとすら思えてしまう。

「おんしの居場所はここではない」

「……」

「いずれ、おんしが人生に絶望するようなことがあれば、そのときは迎えてやる。

 しかしの、今のおんしには帰る家があり、待つ人があるんじゃ。

 ……本当なら、エルフと人間は他人と称しても親しすぎる、食い合う仲じゃ。

 おんしを私のそばに置くことはできん。私がおんしのそばにいることもできん」

「……どうしても、ですか?」

「ああ」

「……そうですか」


それっきり、二人は黙り込んでしまった。

アポロンがおろおろと見回す中、無言で食事を続ける。

鍋の煮える音だけが、リビングに小さくこだましていた。




「本当に行くんですか、長老」

暗がりの中、低い男の声が聞こえた。

夜の闇に包まれた中でもそれとわかる白い肌、大きく尖った耳。エルフだ。

人数は三人。その全てが若い男だったが、エルフならば当然だ。年齢を外見から掴むことはできない。

「ああ。とりあえずはその存在を確かめなければならない。

 それには正面からがもっとも手っ取り早い」

長老と呼ばれたエルフが口を開いた。他の二人に比べて、表情が落ちついている。

「しかし、相手はあのフェンネルですよ?」

「だからこそ、いきなりこちらを殺すような真似はしない。命の危険だけは考えなくていい」

そう言ったエルフの長老は、背中に二人を従えて歩き出した。

視線の先にはこの暗闇にあって光を放つ唯一のもの――フェンネルの家がある。





夕食が終わっても、気まずい雰囲気は去っていなかった。

アポロンは二人の様子を気にしつつ洗い物をし、

フェンネルは愛用の揺り椅子に揺られ、

アイナはその傍らに腰を落ちつけて本を読んでいる。

離れようとしないのがお互いを嫌っていない証拠だが、沈黙は続いていた。

「……んしょ」

フェンネルが一際大きく椅子を揺らし、棚に置いてあった耳掻き棒を取った。

無意識に一連の動きを目で追うアイナ。

そのことに気付いたのかそうでないのか、フェンネルは手にした耳掻きを自分の耳に差し入れず

くるくると指先で回しながら、独り言のように言った。

「おんしも掃除するかの?」

「え?」

口調はともかく、フェンネルの目は明らかにアイナに向けられている。

今の発言がアイナに対するものだとは明らかだ。

驚き戸惑うアイナの頭をそっとなで、椅子を立って正座するフェンネル。

「ほれ、寝てみよ」

「え……でも、私の耳は」

「知っとるよ、病気じゃろ?」

アイナは髪の上から耳を両手でふさいでいた。

共同生活を始めてからずっとこうだ、アイナは耳だけは見せようとしなかった。

「何で知ってるんです?」

「おんしを助けた時、偶然アポロンが見たんじゃ。それを教えてもらった。

 もう治っておるようじゃし、痛くはせんから、やってみんか?」

「……」

お願いします。アイナはぼそりと言い、フェンネルのももを枕に寝転んだ。


右耳を上にして頭の高さをちょうどよく固定し、手で耳を覆う薄い栗毛を払う。

「……なるほど、隠したくもなるの」

フェンネルがつぶやいた。それほどまでにひどい状況だったのだ。


アイナの耳は、耳としての外観を保っていなかった。

耳たぶをはじめとした耳の外側はほとんどが失われ、

その影響は周囲の皮膚にも及んだのか、かなり肌が荒れている。見た目の雰囲気は火傷に近い。

こめかみの横に突然ぽっかりと穴が空いているようにさえ見えた。

「小さい頃、炎症がひどくなって……その名残だそうです。

 すごく痛かったのは覚えていますが、詳細までは」

「そっか、耳を見せなかったのはこのせいじゃな」

「我がままでごめんなさい」

「いや、女として同情するよ。髪型の自由が失われたようなもんじゃからの」

彼女が髪を伸ばしていたのはこれを隠そうとしていたからだろう。

フェンネルは微笑み、手で温めていた銀色の耳掻きをそっと耳の中に差し入れた。

身を縮こまらせたアイナをなでて落ちつかせ、もぞもぞと棒を動かす。


「痛くないかの?」

「むしろ気持ちいいです」

言葉通り、アイナは目を細めてフェンネルに身を任せている。

洗い物を終えたらしいアポロンがのそりと顔を出し、二人の様子に気付いたようで

安心したようにエプロンを外す。喧嘩していないかと心配していたのだろう。

アイナに聞こえない声で何か言ったのか、フェンネルが「心配せんでも、しくじったりはせんよ」と苦笑していた。

「本当に失敗しませんか?」

「失敗して良いときと悪いときの区別くらいはつくつもりじゃよ」

「イノシシに向かって弓を射るのは失敗して良いことですか?」

「過ぎたことは忘れよ、そのほうが人生は楽しい」

「私にはあなたのように生きるのは難しいみたいです」

「嘆かわしい限りじゃな」

アイナが笑った。動くな、と注意しつつフェンネルも笑い返す。

「――さっきはすまんかったの」

「いえ、気にしないでください。やっぱり、父を心配させたままではいけませんから」

「ああ。じゃが、きつい言い方をしたのは悪かった。

 おんしがエルフについて間違った印象を抱くとあれだったんでの」

「間違った印象?」

「私のようなエルフがいるという認識自体が間違っておる。

 あまり私らに関わらない方が良い。おんしが肩身の狭い思いをすることになるからの」

「……」


納得しながらも表情は悲しげになってしまった。

ウィナリスの人間は、フェンネルのようなエルフがいることを信じるまい。

そんな中フェンネルの弁護を続けてしまえば、アイナに何らかの形で危険が迫るだろう。フェンネルはそれを避けたかったのだ。

所詮エルフは人間の敵だ。かつて住む場所を賭けて大量の血を流した、憎むべき仇敵なのだ。


「じゃから、私らに関わるのはよせ。忘れてくれても構わん」

「それだけは無理です」

きっぱりと断言してやると、フェンネルは一瞬ぽかんと口を開け、嬉しそうに微笑んだ。

「忘れたほうが楽だと思うんじゃがなあ。……反対の耳を見せてくれんか」

「あ、はい」

アイナは寝返りを打ち、ふと思い出したように口を開いた。

「どうして、船を沈めたんですか?」


沈黙。


アイナが自分への驚きに目を見開き、両手で口を塞ぐ。

とんでもないことを言ってしまった。言ってしまった。言ってしまった。

だが。

「……どうして、船を沈めたんですか?」

アイナは腹をくくって繰り返した。

いつかははっきりさせなければいけなかった。そのためには自分から話題を振るしかない。

口にしてしまったのは失態と言えなくもない。言ってしまったのはまったくの偶然である。が、良い機会なのも事実だ。

自分の意思では、今後おそらく永遠に言い出せなかっただろう。

アイナはころりと転がり、下からフェンネルを見据える。

殺すつもりならいつでも殺せという意味を込めた姿勢――と本人は考えたが、そうは見えない。

フェンネルはといえば右手に耳掻きを構えたまま、無表情にアイナを見下ろしている。

「どうして、沈めたんですか?罪のない人々を巻き込んで、どうして」

涙腺が刺激されたようだ。鼻の奥も湿ってきた気がする。

それでも厳しい顔付きを崩さず、アイナは気丈に言い放った。

フェンネルもまた無表情を崩さずにいた。長い沈黙を経て、やがて口を開く。

「……何のことじゃ?」


沈黙。


「……な、何のって、私の乗ってた船を――レクイエム号を沈めたじゃ」

その毒気のない発言に逆に涙目になったアイナが跳ね起きるが、

フェンネルは首をひねったまま不思議そうにしているだけだ。

「何のことかわからんが、そんな悪人はこらしめねばならんの」

「しらばっくれるつもりですか!?」

「……事情はよく飲み込めんが、たぶん濡れ衣じゃ。身に覚えがない。

 そもそも私はあんまり海には近づかんぞ。潮の香りというのが好きじゃないんじゃ。魚は食うがの」

アイナは泣きそうになってアポロンに向き直るが、アポロンもまた事態についていけない様子で頷くだけ。

フェンネルが海に近づかないということだけは肯定したのだろう。

「嘘……じゃあ、船を焼いたのは誰だって言うんですか!

 私は確かに見たんです、薄い長髪で、背の高いエルフで、右腕に刺青が――」


どん、どん。


ふいにアイナの言葉を遮った、玄関の扉を叩く音。次いで若い男の声が聞こえてくる。

「フェンネル、いるんだろう。出て来い」

珍しく冷静さを欠いたアイナを挟み、フェンネルとアポロンは顔を見合わせた。

「……あの若造め、何をしに来たんじゃか」

フェンネルはぼそりとつぶやきながら立ち上がった。

思わず服の裾を掴んでしまったアイナの手を解き、諭すような小声で言う。

「大丈夫じゃ。怖いことはないから、少しだけおとなしくしていてくれんかの。

 絶対に声を出してはいかんぞ。いないフリをしていてくれ」

「あ……は、はい」

「うむ、頼んだ。――アポロン、アイナを頼むぞ。

 オニバスなら大丈夫だとは思うが、万が一の時はアイナを連れて山に逃げろ。ケリがつくまで隠れておれ。わかったな」

アポロンが頷き、ひょいとアイナを抱えあげて膝に抱いた。

そのままリビングを出て行こうとするフェンネルに、アイナが上ずった声をかける。

「あ、あ……ちょ、どこへ?」

「なに、夜分遅くに尋ねて来た無礼な客人に『ぶぶづけでもどうぞ』と言ってやるだけじゃ」

フェンネルは最近ではめっきり使われなくなった言葉をつぶやき、ベルトに剣の鞘を取り付けながら玄関へと出ていく。



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