表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

第四話「困惑」

割り終えた全ての薪を所定の位置に収め、アイナは満足げに作業の成果を見つめていた。

整然と並べられた、四つ割りの木。割ったのはアポロンだが、運び並べたのは自分だ。

こういう達成感を味わったのは久しぶりの気がする。

「頑張ったなあ」

笑顔でうんうん頷いているアイナの肩に、ごつい手がぽんと置かれた。

「……あ、アポロンさん」

終わりましたよ、と続けようとしてその言葉は途切れた。

アポロンは長い棒を差し出していた。材質は細い竹で、先端に糸が取り付けられ

他のものに絡まないようぐるぐる巻きつけられている。糸の先には湾曲した針。釣り竿だ。

もう少し太目のものをアポロンは逆の手に持っていた。使えということだろうか。と、いうことは。

「釣り、ですか?」

こくり。

アポロンは頷き、そして「行きたくないか?」というジェスチャーか、可愛らしく小首を傾げた。

「い、い、行きます!」

鼻息荒く宣言するアイナ。釣りに誘われるなんて、十四年生きてきて初めてだ。



器用に岩壁を削り上げて作られた大きくて急な階段を、慣れた様子でのしのし降りていくアポロン。

自分の釣り竿と二人分の荷物を持ち、その代わりアポロンの肩に乗せられているアイナ。

「家の近くにこんな谷があったのですね」

くるくる辺りを見渡しているうちに、崖の底――澄んでいるが流れの急な川に辿り着いた。

海に行くものかと思っていたが、ここで釣るらしい。


肩からそっとアイナを降ろし、アポロンはてきぱきと準備を始める。

アイナが危なっかしく竿から針を外し、巻きつけた糸をほどくうちに

アポロンはさっさと竿の準備を済ませて荷物からえさ取り出していた。

「あの、餌は……」

アポロンが差し出したのは、昨日のスープに入っていた小麦だんごだ。小麦粉を練って丸めたもの。

ミミズか、虫か、とにかくそういうものを想像して顔をしかめていたアイナは

その生き物ですらない餌にきょとんとしてしまう。

「それでいいのですか?」

こくりと頷いたアポロン。見本のつもりか、率先して小麦だんごをちぎり

曲がった針の先に、粘土を盛るように刺しつけた。

アイナが見よう見まねで同じようにすると、アポロンがそっと手を取ってくれる。

「え?」

アイナの取りつけた餌の位置を微妙に調整し、針の先端を隠す。

なるほどとアイナは感心した。針が見えていては、釣り餌だと魚にばれてしまう。


ぽちゃっ、ぽちゃっ。


水面に二つの細長いウキが浮かぶ。

アイナは胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。釣りなど初めてだ。釣れるだろうか。釣れないだろうか。

手近な丸石を腰かけに、どきどきする胸をかきむしるようになでていると、

「……?」

ウキが沈んでいる。半分ほど水につかっていたウキが、今は先端まで呑まれていた。

何か壊したのだろうかと首をひねっていると、隣のアポロンが慌てたように自分の釣り竿をくいくい揺らしている。

「え……あ、ちょっ、まさか、かかってる!?」

まさか、こんな簡単に釣れるものなのか。

その様子に当たりが来たことを察し、さらに大慌てでアイナが竿を引き上げるが、

「……あ」

手元に戻ってきた針には、餌がなかった。

アポロンがかいがいしく世話を焼こうとするが、それを丁寧に断って自分で餌をつけてみる。

「針先が、見えないように……と」

今度は上手くいった。見ていたアポロンも頷いてくれる。再び水に放った。

「ごめんなさい、今度は釣りますから」

申し訳ない気持ちを感じてうつむくと、アポロンはアイナの頭をそっとなでる。

硬く、冷たく、痛みさえ感じる手であったが、その優しさが嬉しい。

そう言えば、アポロンが自ら触れて来たのは、自分を運んで移動する時だけだった気がする。

「ありがとうございます、頑張ります」

アイナがアポロンに馴れ始めたように、アポロンもアイナに馴れ始めてくれたのだろうか。

そう考えると少しだけ嬉しくなり、少しだけ不安になる。


そんな人間――もといエルフではないと思うが、もしフェンネルが船を沈めたあの時のように

何らかの方法で自分を殺そうとしたなら、アポロンはどうするのだろうか。

どう考えてもアポロンはフェンネルにつくだろう。付き合いが違う。

この者達はいつ自分をどうしようとおかしくないのだ。そんな者達に心を許していいものだろうか。


ばしゃ、ばしゃしゃっ――


ふいに聞こえた激しい水音に顔を上げると、アポロンが糸を手元に寄せていた。

その糸の先に、手のひらより一回り大きな魚がぶらさがっている。さっきまでの暗い考えも忘れ、アイナは歓声をあげた。

「すごい、釣れた!すごいですね、アポロンさん!」

アポロンは一瞬ぽかんとしていたが、すぐに照れたように頬を掻いた。

「すごいな……入れ食いなんですね、ここ」

昔、本か何かで、釣り人が多いと大きな魚の警戒心が強まると読んだことがある気がした。

その通りだとしたら、ここの魚は本当に餌を警戒していないのだろう。

そしてそれは、釣り人が極端に少ないことを意味している。

この竿はフェンネルの使うものに違いないだろうから、恐らくアポロンとフェンネルだけのはずだ。

興奮を伝えるように竿を握り直すアイナ。こうしていると、水底に映る影が全て魚に見えてくるから不思議だ。

今にも餌に魚が食い付いている気がする。落ちつかねば。もう失敗はしたくない。

「……」

アイナはウキを睨みつける。ウキは動かない。

「…………」

それでもなお睨みつける。やはりウキは動かない。

「………………」

負けずに睨みつける。ウキは揺れたが、沈まない。

「……………………釣れないですね」

簡単ではない、とアイナは苦笑してみせる。ウキが沈んだ。


ちゃぷん。


アポロンが再び慌て出す。今度はどうしたとウキを見れば、ウキの先端は引っ込んだり出たりを繰り返していた。

「うわ、うわわわわわ、よそ見してる時にぃーっ……」

今度は落ちついて、慎重に糸を引き上げる。

意外にあっさりとそれは顔を出した。アポロンの釣ったものより小さかったが、魚が一匹かかっていたのだ。

「っ……!」

びちゃりと河原の石の上に落ちるや否や元気良く跳ね始めた魚を、アイナは頬を紅潮させて観察していた。

「……釣れた」

アポロンが釣れた時にはあんなに喜んだのに、今はどう騒いでいいかわからない。

唇をわなわなと震わせながらアポロンを見る。アポロンはうんうんと頷き、アイナの魚に手を伸ばしていた。

針を外そうとしているらしい。片手で制して自分で魚に触ってみる。ぬるぬるしていた。

「うー……」

口元を押さえつけ、一生懸命針を外そうとするが

そもそも釣り針とは外れにくいようにできているものだから、素人がそう簡単に外せはしなかった。

両手の指をしばしわきわきさせていたアポロンは、それを手伝ってやるかどうか逡巡し、

やがてやり場のなくなっていた手を自らの釣り竿に戻した。


針が外れる頃には魚はすっかり生気を失い、そうしている間にアポロンは五匹ほどを釣り上げていた。





「おー!大漁じゃのー」

夕刻。オレンジ色の光に目を細め、ロッキングチェアに揺られていたフェンネルは

バケツの中の大量の魚に目を丸くした。

「これだけあると腐るの、あとで燻製にでもしておいてくれ、アポロン」

台所にバケツを置いたアポロンが、何か言いたそうにフェンネルを見下ろした。

するとフェンネルがそっぽを向いてしまう。何事かと見守るアイナの前で、

「……その、じゃな。強く引きすぎて弓がぶっ壊れての。――いや、もう直したぞ。

 本当じゃってばな、確信犯とは人聞きの悪い……

 私だって本気で力いっぱい引けば弓くらい壊すわ!……何?うるさい、魔法は疲れるんじゃ。

 剣は手入れが面倒だしの」

うそ臭いほど老いた口調に反した子供っぽいしぐさで言い訳をつぶやくフェンネル。

勝ち誇ったようにアポロンが腕を組んだ。夕日の中でもそれとわかるくらい、みるみるフェンネルの顔が赤くなっていく。

「何じゃと!?」

そのトマト顔はぐり、とアイナに向けられ、

「おんし、魚釣ったのか?」

「え? ……ええ、五匹くらいですけど。小さいのを少し」

「五匹……」

スポットライトに照らされ、ずるずると崩れ落ちるフェンネル。腰に手を当ててふんぞり返るアポロン。

何を言っているかはわからないが、予想はできた。

「ええい、うるさいの! そうじゃとも、私は狩りも釣りも下手じゃとも、えーそうじゃとも!

 文句があるなら態度で示せ!なんなら私を煮込んで食うか!?」

アポロンは手の平を上に向けて「やれやれ」のジェスチャーを作った。かぶりを振る。

「……やかましいっ! 誰が食べるとこ少なそうじゃと!?

 ゴーレムの分際でマスターにふざけた口を聞くな!」

腕をばたばたと振り回すフェンネルをとうとう無視し、アポロンは夕食の準備を始めてしまう。

エプロンをつけ始めた石人形に「無視するなぁ……」とつぶやいた後、フェンネルはうらめしげにアイナを見た。

「……なんじゃ、おかしいなら笑えば良かろ。おんしまでそんな顔するか」

言われて初めて、アイナは自分が笑いをこらえていることに気がついた。



台所ではアポロンが武術の演舞のような動きで料理の仕込みを続けている。

うっかり手伝おうとすれば殴られてしまいそうだ。仕方なくエプロンのフリルを眺めていたアイナを

手招きで呼ぶ人物がいた。当然、フェンネルだ。

「アイナ、ちょっと来てくれんかの」

アイナは身を固くする。とうとう自分を殺すのだろうか。

できればアポロンの近くにいたいのだが。特に理由はないが、フェンネルと二人きりになるよりは安心できる。

「……何となく私を嫌ってるのはわかるがの、別に取って食いはしないから。

 来てくれんか?プレゼントじゃ。悪いもんじゃないぞ」

そう言ってフェンネルは手に持っていたものを差し出してみせた。

洋服だ。アイナが船で着ていたものに近いデザインの、白いブラウスに赤紫のスカート。リボンもある。

「おんしが着てたのを参考にしたんじゃ。それだと大きかろ?こっち着てみんか?」

「……それなら、ここで着ても良いのでは」


がたーん!


アポロンの手つきが目に見えて狂った。フェンネルが笑う。

「と、言うわけじゃ。信用してくれないならそれでも構わんが、

 ここで着替えたほうが危険じゃぞ。コショウとか油とかがわんさか飛んでくる」

「……」



そして通されたフェンネルの私室。アイナは少なからず感心していた。

家ではドレスを一つあつらえるだけで、職人がせっせと寸法を測って回るというのに

フェンネルはアイナの着ていた洋服を少し測量しただけで

そんな職人の作とさして変わらない出来映えの服を繕ったのだ。

絹の滑らかな肌触りとは違う、少し固めのごわごわした感触が新鮮で心地良い。

「どうじゃ、ぴったりじゃろ? 百歩くらい譲って狩りも釣りも下手かも知れんがな、

 裁縫だけはそこらのエルフにゃ負けない自信があるんじゃよ。

 ま、貴族のお嬢様に木綿の服をあつらえるのは抵抗があったがの」

「……あれ?私が貴族の生まれだと話した覚えは」

「何百年と生きておるがの。

 絹のブラウスなんぞ着ている奴を見たのは、私はおんしが始めてじゃ」

「――なるほど」

鏡を見つつケープの位置を直し、リボンを結んでいたアイナは

後ろでからから笑うフェンネルを鏡ごしに見やった。


「そう言えば、ゴーレムって何ですか?」

「ほえ?」

「さっき言ってたじゃないですか、アポロンさんに『ゴーレムの分際で』って」

「あー……なんて言えばいいのかの。魔法で作った擬似生物、かの?それをゴーレムと言うんじゃ」

「擬似生物……?」

「うむ、生物であって、生物でない。ごくごく簡単に言えばそんなところじゃ。本当はもっと面倒な定義があるんじゃがの」

「魔法で作ったってことは、アポロンさんの生みの親はフェンネルさん?」

「そいつは違うの。アポロンは私の母親が作ってくれたものじゃ。誕生日のプレゼントにな。

 ……いつの誕生日だったかは忘れたがの」

「へえ……」

「あいつがいなければ、今頃私は飢え死にしとる。

 狩りも釣りも母に教わったんじゃが……どうも覚えが悪くてのお」

神はニ物を与えないらしいからの、と笑うフェンネル。

笑い声に少し自慢げな響きがあった。

「良い母君だったのですね」

「ああ…… ときどき私やアポロンを困らせてくれたがの、いい人じゃよ。

 私にはもったいないくらいじゃった」

「母君は今どちらに?」

「死んだよ」

あまりにさらりと出た発言だったため、アイナにはその意味を理解するのに時間がかかった。

フェンネルは薄ら笑いを浮かべたまま――そしてどこか寂しそうに――窓の外の空を眺めていた。

橙と藍が絶妙な色合いに交じり合った空が切り取られ、壁に飾られている。

「正確には、死んでいるだろうって決めつけておるんじゃがな。私が」

「……生きてるかも知れないんですか?」

「限りなく可能性は低いがの。『せめて好きなことをして死にたい』っつって

 寿命もつきようって老体でこの家を出て……それっきりじゃ。どこぞでくたばっておるんじゃろ」

「……」

アイナの複雑な表情に気付いたのか、フェンネルは肩をすくめて人当たりの良い笑顔を作る。

「暗い話になってしまったの、許してくれな。さ、戻ろう」

柔らかい金髪をとかしながら部屋を出て行くフェンネル。アイナがぼそり、とつぶやいた。

「……生きてるかも知れないなら、それでいいじゃないですか」





家のことが恋しくなってきたのだろうか。

「お父様……?」

父に起こされた気がして、喜んで目を覚ましてみれば夢だったらしい。

二度寝をするのもなんだったので窓を開けると、下ではフェンネルとアポロンが庭に出ていた。

早起きなものだと思いつつ、外に出ることにする。今日も天気は良い。


「おお、アイナ、おはよう」

「おはようございます」

フェンネルが陽気に笑い、アポロンが手を振った。

アイナは複雑な顔で挨拶を返す。この二人を心から信用することも、嫌いになることもできずにいた。

「何をしているのですか?」

「アポロンはこれから水を汲みに行くところ。私は朝の体操じゃ」

歳を取ると朝が早くての、平然とそう語るフェンネル。

いかにエルフが見た目で年齢を判断しにくい種族とはいえ、とてもそんな長生きをしているようには見えないのだが。

アイナの姉と言っても通じそうな、若々しい見た目なのに。

「どうかしたかの?」

「いいえ…… ずいぶん年寄りくさいことを言うな、と」

「長生きはしとるからの。まだ若いのも事実じゃが」

「矛盾してますね」

「それを言うな。……これでも、おんしらの年齢に換算したら二十歳よりちょっと上程度なんじゃぞ?」

「そうなんですか?」

「そのはずじゃ。――えーと、おんしらが百年生きるとして……二十歳なら五分の一か。

 私らがざっと二千年生きるから……うむ、二十三歳くらいじゃな。って、何じゃ、私もまだまだ若いのお!」

一人で嬉しそうにフェンネルが手を叩き、

アポロンが何か言ったらしく「何じゃと!一の位は切り捨てがセオリーじゃろう!」と食ってかかられていた。

「……でも、そのくらいの歳にしてはそんな喋り方なんですね」

「ま、それでも四百年は生きとるからな。

 最初は冗談半分で始めたんじゃがの、今ではすっかり慣れてしもうた」

「え? 歳をとったら、自然とそういう喋り方になるのではないのですか?」

「いや、それはないと思うぞ。個人差はあるじゃろうがの」

フェンネルはおかしそうに笑った。頭では「笑ってばかりいるエルフだ」などと思っているが

体のほうは照れたような笑顔を返している。どちらが自分の本心なのだろう。

「どれ、おんしも私に付き合わんか? さすがに今回は、アポロンの手伝いもできんじゃろ」

アポロンは鉄の六尺棒の両端に巨大な陶器の水がめをぶら下げて肩にかけていた。

あのような圧倒的物量にアイナができることなどたかが知れている。頷くしかない。


仕方なくフェンネルに付き合い、その動きを真似て柔軟体操を行っていると

「……ずいぶん、柔らかいんじゃな。体」

前屈を終えたところで声をかけられた。アイナはぺたりと手の平が地につくが

フェンネルは指先を触れさせるのがやっとのようだ。少し優越感を抱く。

「何か運動でもしてるのかの?」

「父に剣術を教わってました」

「剣術?――ほお。そうか、剣術か」

腕を組んで頷くフェンネル。しばらくそうしていたのが、何を思ったか急に腰の剣を抜く。

「!?」

ついに殺すのか、と身構えるが、フェンネルは気にした様子もなく近づいて来る。

アポロンのような配慮がない。突然信用していない相手に武器を抜かれたらどうなるか、考えたことはないのか。

「のお、アイナ。これの使い方を教えてくれんかの?」

「――え?」

アイナの足が止まった。怯えが驚きに変わる。

「知らないで持ってたんですか?」

「かっこいいじゃろ? ……でも高い金を払って買った剣じゃからな。

 いつまでも我流で振っては手入れだけ繰り返す、ってのも面白くないんでの」

「なるほど」

アイナは剣を受け取った。凝った装飾の施された、かなり細身のバスタードソードだ、

本来この剣は腰に差すのではなく背中に負うものなのだが、剣についての知識がないのだろう。

一応真剣だが、アイナが訓練に使う木剣より軽いかも知れない。

刃を活かせずに棍棒こんぼうとして使うのであれば、これ以上ないほど威力のない武器だ。

使い方を覚えたいと言うのもわかる気がする。

「軽いんですね」

「非力なもんでの。こればかりは仕方がない、血の成せる技ってやつじゃ」

「エルフが非力って本当だったんですね。

 ――それでは。両手で握る時は、左手の小指と薬指に力を入れてですね」

剣を構えてみせるアイナ、それを真剣に見つめるフェンネル。

水がめを冷たい水で満たしてようやく帰ってきたアポロンには、さぞ仲の良さそうな二人に見えたことだろう。




フェンネルは一人庭に残って

「剣先が地面を向かないよう振りかぶって!真っ直ぐ振る!

 右手を肩の高さに!左手を胸の高さに止める!

 ほんで左手をへそから拳一つ離し!剣先を敵の喉に突きつけて構える!

 剣先が地面に向かないよう振りかぶって!真っ直ぐ――」

もくもくとアイナに教わった基本の型を繰り返していた。

いちいち大声で復唱する声がとても嬉しそうである。新しい遊びを教えてもらった子供のようだ。

「……元気ですね、フェンネルさん」

リビングの窓からそれを見たアイナが言い、アポロンが自分の頭を指差した。

人差し指を『くるくる』と回し、ついで五本の指を伸ばして『ぱー』を作る。

「くるくるぱー……って、いいのですか?」

アポロンは「聞こえてないなら何を言っても良いのだ」と主張するように力強く頷き、アイナに茶を出す。

木製のソーサーに乗せられたカップには、覚えのない香りの茶色いお茶が入っていた。

親切なアポロンがミルクと砂糖を忘れるはずがない。そのまま飲むのだろう。

ぬくい茶を口に運ぶ。不安そうに首を傾げるアポロン。

「……ん、美味しいです」

率直な感想だったが、アポロンは嬉しそうに頭を掻いた。

少々渋みが強く、砂糖を入れない紅茶のようであったが、不思議と飲めないことはない。

のんびりと味を楽しんでいると、汗をふきふきフェンネルがリビングへと戻ってきた。おかしいくらい晴れやかな笑顔だ。


「ああ……なんだか百年分くらい強くなった気がするのお。今なら熊にも勝てる気がするわ」

恍惚こうこつとした表情で怪しい笑いをするフェンネルに、またもアポロンが何か言ったらしい。

「ええい、気のせいなのはわかっておるわ!いちいちツッコミいれるでない!」

のっしのっしと石造りの床を踏みしめてフェンネルの剣から逃げ回り始めた。

斬られても剣のほうが折れるだけだろうに。こんなやりとりで日常を過ごしているのか。楽しそうだ。

「……覚えておれ、いずれお前を真っ二つに切り伏せてやるからの。さて」

フェンネルはアイナの向かいに座り、人差し指を招くように動かした。

「何ですか?」

「なに、私だけ教わりっぱなしと言うのは何だか悪い気がしての。

 ひとつ面白いことを教えてやろうと思ってな」

断る間もなく、フェンネルは自分の右手の指を複雑に曲げて差し出した。

「やってみよ」

「……?」

「違う、もうちょい中指が下じゃ。そうそう。それじゃ、次はの」

わけもわからないままに指を何度も曲げさせられ、変な形を作らされた。


薬指を手の平と垂直に、中指を手の平と平行に曲げ、他の指を伸ばす。

次に親指を折り、その上に人差し指と中指をかぶせて薬指と小指をそろえる。

今度は握った拳の中指だけを立て、続けて人差し指もそろえて立てる。

最後に、五本の指を勢い良く全て伸ばす。

「……あの、これ、何のおまじないですか?」

「まあ見とれ。今のは全部覚えたの?それを繰り返してやってみるんじゃ」

有無を言わさぬ口調。憮然としながら教わった通りに繰り返すと、もう少し速くと注文をつけられた。

それならと素早く指を動かすと、その調子じゃとほめられた。少し嬉しいと思ってしまう自分に嫌悪感を覚えた。

一連の動きをニ、三度繰り返させられたところでフェンネルがにこりと笑う。

「うむ、筋がいいぞ。それじゃあ仕上げじゃ、左手を出してみよ」

「……?」

「その左手を良く見て意識を集中させると同時に、右手に神経を集中させるんじゃ。

 特に重要なのは右手に集中することじゃぞ。そしてそのまま、さっき教えた通りに指を動かしてみよ」

「はあ。……左手に意識を集中させて……右手に神経を集中させて……」

つぶやきつつ、先ほどの手順を繰り返してみる。

薬指を手の平と垂直に、中指を手の平と平行に曲げ、他の指を伸ばす。

次に親指を折り、その上に人差し指と中指をかぶせて薬指と小指をそろえる。

今度は握った拳の中指だけを立て、続けて人差し指もそろえて立てる。


きぃぃぃぃぃぃぃ……!

 

最後に、五本の指を勢い良く全て伸ばす。

変化はすぐに現れた。握り拳を作っていたアイナの左手が、まばゆい光を放ったのだ。

「きゃあああああああああっ!!!???」

悲鳴をあげてひっくり返るアイナ。背中をしたたかに打ちつけたが、痛みを感じている場合ではない。

左手がランプの火のように輝いている。痛くもかゆくもないが、握っても開いても振っても何をしても消えない。

どうしたのだ。左手はどうなってしまったのだ。自分がやったのか。

「そう驚くこともなかろうに……ほれ」

フェンネルが物凄い速さで右手の指を動かしたかと思えば、光は消えた。

興奮のために息を荒くし目を丸くし、どうにか右手でスカートを押さえてひっくり返っていたアイナをそっと抱き起こす。

「面白いもんじゃろ?」

「なっ、なっ、なっ……な、な、なんなんですか、今のは!?」

「魔法じゃよ」

大したことでもなさそうに言うフェンネル。アイナは愕然とした。

魔法とは人間には使うことの出来ない、亜人と怪物にのみ許された技術ではなかったのか。

「わ、私、人間ですよ?」

「おんしらは人間には魔法が使えないと思い込んどるがの、

 たまにおるんじゃぞ、才能のある人間が。

 魔法の才能がある人間に、人間に魔法を教えるような酔狂な亜人がおれば

 人間にも魔法を使うことができる。まあ、酔狂な亜人も魔法の才のある人間も少ないんじゃが」

言われてみれば大陸では人知を超えた能力を持ち、

それで数々の奇跡を起こしてみせる超能力者の存在が玉石混交に確認されている。

魔法の才のある人間が、師となる亜人に出会って手に入れた魔法。それが超能力の正体なのか。

「……私に、才能があったと?」

「飛び切りじゃな。なんでおんしが人間の世に生まれたのか不思議でならん」

朝食を運びながら気遣わしげにアイナを覗き込むアポロンと二、三言葉を交わして

すぐに言い負かされたらしく、フェンネルは面白くなさそうに椅子を直し始めた。

「どれ、ご飯が終わったらもう少し教えてやろう。

 今のままじゃ、光らせることはできても消すことはできんからなあ」

差し伸べられた手につかまって立ち上がったアイナは、呆けたまま頷いた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ