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第三話「歓迎」


こと。


木製の皿の上に、やはり木製の小さなカップが置かれた。

風呂を出たアイナはリビングの椅子に腰かけていた。普通サイズの方である。

着ていた絹の衣服はどこかに持っていかれ、

代わりに少し大きめのシャツとスカートを着せられた。袖と腰をまくって調整してある。リボンはない。

カップの中に入った黒っぽい液体を飲んで良いものか逡巡していると、

「……飲まんのか? 美味いぞ」

向かいに座ったエルフが、きょとんとこちらを覗き込んで来た。

「ふもとに――ああ、ここはちょっとした丘の上なんじゃが、

 ふもとに一応人間の集落があっての。定期的にウィナリスと船で品物を行き来させとるから

 こういうウィナリスの品物も手に入るんじゃよ。

 お財布にかなり優しくない、とっておきのコーヒーなんじゃがなあ」

そう言ってエルフ――フェンネルは困ったように笑った。しかしアイナはくすりとも笑えない。

黒い水面に映った自分の唇が、小刻みに震えているのがわかる。

目の前に一瞬にしてたくさんの人々を焼き殺したエルフがいるのだ、冗談でも笑えるはずがなかった。

「もしかして、コーヒー嫌いかの?

 すまんが、私の顔を立てて一口は飲んでくれると助かるんじゃが」

「……」

「ほれ、おんしの後ろ」

フェンネルがカップを口に運びつつ、アイナの背後を左手で指差す。

示される前に振り向いてみれば、背後に青い縦線を背負った石人形が

嘆くように顔を手でおおってしゃがみ込んでいた。やや声を低くするフェンネル。

「アポロンが落ち込むでな。頼む」

「おお、お、美味しいですよ、アポロンさん!」

無論、本当にコーヒーが嫌いなわけではない。慌てて温かなそれを口に含み

必死に笑顔を取り繕った。ふりふりエプロンに三角巾のアポロンがようやく嬉しそうに立ち上がる。

アイナがほっとしていると、苦笑いのような表情を浮かべられた。

「すまんの、許してやってくれんか。こいつが私以外と顔を合わせたのは十五年ぶりでな」

「十五年!?」

思わずテーブルに身を乗り出すアイナ。フェンネルはコーヒーをすすりつつ頷いた。

客人のことかコーヒーのことか、「久しぶりじゃなあ」とつぶやいて続ける。

「私はエルフじゃからの、おんしら人間とは時間の感じ方が違う。

 もちろんアポロンだってそうなんじゃが、私ほど寂しさに慣れてはおらんもんでな。

 海に釣りに行かせたんじゃが、そこで偶然おんしを見つけたらしい。

 たぶんむりやり連れて来られたんじゃろ? 許してくれんか」

「あ、いえ……むりやり連れて来られたわけではないんですけど」

「おお? だって、言葉が通じなかったんじゃ」

「何も言ってくれませんでしたが、何を言いたいのかはわかりました」

「……なるほどの。上手いこと言う娘じゃな」

楽しそうに破顔するフェンネルを、背中のアポロンはどこか恥ずかしそうに見ていた。

釣られて笑ってしまいそうになったが、こらえた。気を許すのはいろいろと良くなさそうだ。

第一印象が良くても、このエルフは間違いなく大量殺戮を行っているのである。


今となっては後悔するしかないが、どうして自分はもう少し地理を真面目に勉強しなかったのか。

アポロンの描いた地図に描き込まれた、この小さな島。

ウィナリスの人間達が禁忌として触れようとせず、

地図には適当に描いていた島をアポロンが正確に書き記してしまったせいもあるのだが。

どうして思い出せなかったのか。ここはウィナリスを追われたエルフの隠れ里『クロノガルデニア』だ。

「ここは……クロノガルデニアという島ですか?」

何から説明すればいいかの、などと首をひねっているフェンネルにアイナは言った。頷かれる。

「良く知っとるの。その通りじゃ」

あまり嬉しくないが、裏づけは取れた。

アポロンに命じてお茶請けを持って来させているフェンネルの耳を睨みつつ、アイナは脳内検索をかける。


エルフ。この世界のあちこちに存在する、亜人の一種である。

人間と同程度に世界に分布しており、当然生活様式や細部も居住地によって違うが

共通している性質はいくつかある。


身体的特徴として、エルフ族の耳は大きく尖っており、

体はぜい肉がなく、やせ細っている。

不老不死と噂されるほど寿命が長く、いつまでも若々しい姿で生きることも有名だ。

そして何より、魔法を操る。人間にはどうやっても扱えない人知を超越した技術が

エルフの社会では体系化されているのだ。船を焼いた炎も魔法の力だろう。


ウィナリス、及びその周辺の島にエルフはほとんど存在せず

数の少ないエルフ達は皆、クロノガルデニアに隠れ住んでいるともっぱらの噂だ。

「……」

アイナは視線でフェンネルを舐め回す。

この地方独特のエルフの特徴として、背が低く、余所者を拒む性格があるらしいが

フェンネルにはそのどちらも当てはまらない。

背丈は170センチ前後といったところだろうか、やせてこそいるが、小柄ではない。

閉鎖的でもない。アイナを家に招き、からからと笑顔を見せている。

演技という可能性は捨て切れないが、それはないだろうとアイナは思っていた。


さっきの話が正しいなら、この家にはフェンネルとアポロンが二人で暮らしているのだろう。

誰もいないはずの風呂を警戒する者はそうそういない。誰か入っていることに気付かず

服を脱いで風呂場へと入っていくくらいはするかも知れない。

しかし、いくらアイナが子供だったとはいえ、女同士であったとはいえ、

見知らぬ他人がのぼせないよう気を使って、相手を風呂からあがらせたりするものだろうか。

しかもフェンネルは全裸のままアイナが目覚めるのを待っている。

自分だったら対処は服を着てから、百歩譲ってタオルを巻いてからにする。

フェンネルがかなり社交的――というか、末恐ろしいまでに他者に気安い性格なのは間違いない。

根拠はないが、やはり演技でだけはない気がする。


その印象は船を沈め人を殺す冷酷なエルフとはかけ離れていた。

しかめっ面で頭をフル回転させているアイナの前にクッキーが置かれ、

「どれ、他に聞きたいことはないかの?」

さっそく手を伸ばしたフェンネルが、頬杖をついて尋ねてきた。一番の疑問をぶつけてみる。

「私は……ウィナリスに帰れるんでしょうか?」

「帰れるぞ」

それは待ち望んだ答えであるはずなのだが、あまりにあっさりと口にされたので

理解するのに数秒かかってしまった。

「ど、どうやって」

「さっき、ふもとに人間が住んどると言ったじゃろ?

 貿易で来る船に乗せてもらえば、三日くらいでウィナリスに着く。簡単じゃ。

 まあ、金はかかるが……おんし、いくらくらい持っとる?」

首を横に振るアイナ。持ってきた路銀は今頃海の底だろう。

「やっぱりの」

誰のせいだと思っている。というアイナの心中の罵声は、当然フェンネルには届かない。

「まあ、ふもとの連中とは仲が悪いがの、

 だからこそおんしをエルフから引き離すのに協力は惜しまないはずじゃ。

 今はゆっくり休むことじゃな。大丈夫、怖いことはないぞ」

大ありだ。というアイナの心中の罵声は、当然フェンネルには届かない。

毒づきながらも、ふと思ったことを口にする。

「その船って、いつ頃来るんですか?」

アイナの質問に、フェンネルはクッキーを頬張りながら腕組みしてうなり、やがて言った。


「二ヵ月はかからんじゃろ」


お互いがお互いの人生に大きな影響を及ぼし合うことになる三人の、初の共同生活の始まりであった。





その日の夜。窓の外を見ると、空に空いた穴のような満月がこちらを見ていた。

アイナは用意された部屋のベッドに座り、真剣な表情でほのかに輝くランプを睨んでいた。

お題は、逃亡の手順である。


フェンネルは船が来るまでこの家にいるといいと言ったが

殺人犯と同じ家で生活などできるはずがない。いつ殺されるかわかったものではない。

そう考える割にはその殺人犯と夕食のテーブルをともにしてしまった自分を責めつつ

アイナはどうにかしてこの家を抜け出す方法を考えていた。


まず真っ先に窓から出ようと考えたのだが、ここは二階だ。

アポロンに合わせて天井が高いこの家だから、普通の家の二階より高さがある。飛び降りるのは気がひけた。

駄目押しとばかりにちょうど真下が石畳になっている。洗濯物を干すためだろうか。

シーツを切ってロープにできないかと考えたものの、この部屋のベッドにシーツはなかった。

頑丈に作られたタオルケットと毛布は、彼女の細い腕では破れそうにない。


家の中をうろうろしていても庭をうろうろしていても特に何も言われないのだが、

家を離れようとしようものならアポロンが走って来て

「森は危ないから、目の届くところにいてくれ」

とでも言いたげなジェスチャーを繰り返し、涙も流せない眼で泣きそうになってこちらを見るのである。

悔しいが、あの瞳を踏み越えることはできそうになかった。


そんなこんなで夕食を食べた後、部屋にアポロンがやってきた。

胸に『何かあったら遠慮なくこいつに言うこと byフェンネル』と書かれた紙が貼ってあったので

ついつい「新聞が読みたいです」と口走ってしまい、

頭を抱えて苦悩するアポロンをなだめ、そのまま他愛もない会話を始めてしまった。

言葉が話せなくとも、意外に意思の疎通は楽であった。思いがけず会話は弾み、

アポロンが一礼して部屋を出て行く頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていたのである。

仕方なく眠いのも我慢し、夜更け時に逃走方法を考えているわけだ。


「んー……」

ふとすれば落っこちそうになるまぶたをこする。眠ってしまいたい衝動を必死にこらえる。

アイナは自分の部屋の柔らかなベッドを思い出してため息をついた。

家にいたなら、今頃は夢の中にいるであろうに。

そこまで考えて唐突に思う。


今なら、フェンネルも寝ているのではないか?


思いついたら行動は速かった。持って行かねばならない荷物など何一つない。

アイナは音が立たないよう慎重に扉を開き、辺りに人影がないことを確認して部屋を出た。

ランプは持っていかなかった。漏れ出る明かりで気付かれる可能性がある。

暗闇に十分目を慣らし、抜き足差し足で階段を降り始める。

広い家ではあったが、アイナの自宅はまだ広い。間取りを覚えるに苦労はなかった。

何の妨害もなく最後の段まで降り終え、アイナが静かに顔だけを出して廊下を覗き込み――

「……」

絶句した。

廊下では、アポロンが崩れていた。



どういう理屈でくっつき、関節としての役割を果たしていたのかは知らないが、

とにかく磁石のように吸い付き合って体を構成していた大小の石が

廊下に足の踏み場もないほどばらばらに散らばっていた。

踏まないように注意を払いつつも急いで駆けより、眼球になっていたらしい顔の

青い宝石を抱え上げて揺すってみる。反応はない。

「アポロンさん!?アポロンさんっ!?しっかりしてください!」

さっきまであんなに元気だったのに。どうして。

ぴくりとも動かない宝石に知らず涙がこぼれ落ちそうになる。

アポロンが助けてくれなければ、自分は今頃どうなっていたのだろう。死んで欲しくない。

「アポロンさん……っ!」

「どうかしたかの?できれば夜中に大声は出さないで欲しいんじゃが」

振り向くと、眠そうに目をこするフェンネルの姿があった。

柔らかそうな金髪のてっぺんが軽く跳ねている。仇であることも忘れ、アイナはフェンネルに飛びついた。


「フェンネルさん、アポロンさんが、アポロンさんが!」

「アポロンがどうかしたかの」

「見てわからないんですか!?」

顔面に叩きつけるような調子でアイナが宝石を突き出す。

フェンネルは眠気も吹き飛んだようで、しばし宝石とアイナの泣き顔を交互に見比べた後、

「ああ……驚いて当然かの。ちょっと待っておれ」

宝石をアイナからひょいと奪い、返す腕で天井高く放り上げたフェンネル。

アイナが目をむくのを横目に見やりつつ、重力に引かれる宝石に向かって右手を突き出した。

五本の指が、まるで影絵をするようにデタラメに曲げられていったかと思えば、


きぃぃぃぃぃぃぃ……!


青い宝石が内部から白い光を放ち、ぴたりと空中に静止した。

「!?」

「……魔法を見るのは始めてかの? いや、そうじゃろうな」

驚くアイナの目の前で、今度は散らばっていた石達がかたかた震え出す。ほどなくして浮き上がった。

真っ先に浮き上がった石には、大きな穴が空いていた。アポロンの頭だ。

ふよふよと漂い、浮いている宝石を穴に収めた石に続いて

胸、肩、二の腕と同時に腹部、肘と上から順に石が組み合わされ、かちんかちんと人の形を取っていく。

数秒もしないうちに完全な人型となったアポロンは、言葉もないアイナと平然としたフェンネルに小首を傾げた。

「……」

「簡単に説明するとじゃな、アポロンは太陽の出ている明るい間しか動けん。

 曇り空や部屋の中が暗い分には問題ないのじゃが、夜になるとああして崩れる。

 私が魔法をかけるか、朝になるまではただの石じゃ」

フェンネルの説明に、アポロンは納得したように頷いた。そしてその場に寝転んでしまう。

「というわけじゃ。別に病気じゃないから安心して良いぞ。

 それじゃアポロン、騒がせたの。おやすみ」


……がららっ。


いきなり崩れたアポロンの前で震えているアイナの肩をぽんと叩き、

「おんしも夜更かしはいかんぞ。トイレは突き当たりを右に行ってすかさず左じゃ。おやすみ」

フェンネルは何事もなかったように自室らしき部屋へと消えて行った。廊下にアイナだけが残される。




次の日の朝。エプロン姿もすっかり見慣れたアポロン手製の朝食で空腹を満たし、

アイナはぼんやりとリビングの空間に目をやっていた。

思い出すのは昨晩の魔法と今後への不安、逃亡方法が見つからないことへの焦り。

逃げたところで、無事にふもとに辿り着けるかどうかもわからない。

考えたくはないが、ふもとの人間が自分を受け入れてくれるとも限らない。

さんさんと光を放つ青い空を恨めしげに見つめていると、

「耳がー、耳がー、エルフの尖ったみーみーがー、あらよいしょ、かーゆーいー、っとくりゃあ」

妙な歌を口ずさみながらフェンネルがやってきた。

アイナが身を強張らせたのを悟ったのか、「まだ眠いかの?」と軽口を叩きつつ揺り椅子に座る。

手には細長い棒が握られていた。銀色の輝きから金属製だろうと悟ったが、細部まではわからない。

視線にも頓着せず、フェンネルはそれを尖った耳の中に突っ込んだ。

耳掃除だろうか。綿棒のかわりにしては、あの棒は硬くて危なそうだが。

「消耗品を買いに行くのが面倒での。なに、慣れればこっちのほうが気持ちいいぞ」

しまった、とアイナは眉をひそめた。疑問が声に出てしまっていたらしい。

猫のように目を細めたフェンネルが気持ち良さげに耳を掘る様子を、見たくもないのにじっと見つめてしまうアイナ。

人の目は動くものを捉えるようにできている、と自分への苦しい言い訳を考えていたら

フェンネルが片目を開けてこちらを見ているのに気がついた。


「……何ですか?」

「いや、こっちの台詞だと思うんじゃが。見てたじゃろ?」

それを言われると返す言葉がない。

「ひょっとして、やってみたかったりするかの?」

純粋なフェンネルの問いかけに、アイナは顔を青ざめさせ

栗色の髪の上から両耳を押さえた。

冗談ではなかった。自分の耳は。

「ち、違いますっ!」

「何じゃ、別に構わんぞ?痛くせんしの……ほれ」

フェンネルは椅子を立つとカーペットの上に正座し、細いももをぽんぽん叩いた。

その様子を蒼白になって見ていたアイナが、バランスを崩しながらも後ろ歩きで扉に辿り着いた。

「からかわないで下さい!失礼します!」

「からかってなど……あ、おーい」


アイナは耳を押さえたまま脱兎のごとく走り去り、

洗濯物を取り込んできたらしく、布製品満載の木のかごを持ったアポロンとすれ違った。

アポロンはアイナの背中を目で追い、それから不思議そうにリビングを覗き込む。フェンネルと目が合った。

「……私、なんか言ったかの?」

アポロンは何も言わなかったが、フェンネルは軽くうなずく。

「もちろんじゃ、別に怒らすようなことを言ったわけじゃないんじゃぞ。

 何って、『耳掃除してやろうか』って。そう言っただけじゃ。嘘じゃないぞ。――何?」

フェンネルの話し方は、独り言とは明らかに違った。この二人は会話ができるらしい。

「何じゃ、そういうことか。変だとは思ってたんじゃが。――いやなに、こっちの話。

 しっかし、おんしも知ってたなら言ってくれれば良かったものを……

 あ、すまんの、冗談じゃて」

アポロンが憤慨したように拳を突き上げ、フェンネルは冷や汗を流しつつ頭を下げた。



庭には切り株があった。正確には、土に埋められた太い丸太である。

アイナはちょうど良いとばかりにそこに腰を落ち着けていた。

フェンネルが追いかけて来る様子はない。ほっと一息、耳から手をどける。

「ふう」

外の日差しが心地良かった。別に日焼けをするのが嫌いなわけではないし、

室内でじっとしているよりは庭にいたほうが楽しいかも知れない。

木から木へと飛び歩く鳥の一羽を適当に選び、気まぐれに目で追っていると

背中のほうからのしのしと土を踏みしめる音が聞こえてきた。アポロンだ。

目が合うと軽く会釈し、家の陰へと消えて行く。そしてすぐに戻ってきた。

右手には自らの体よりも角張った石、左手には彼の図体にあつらえた巨大な斧。

アイナが自分を見ていることを察し、慌てて首を横に振ったが

「大丈夫ですよ、武器ではないんですよね」

いい加減アイナもその気弱さに慣れ始めている。

軽く微笑んでみせると、アポロンも安心したようにアイナの隣に腰を下ろした。


どうやら、石は砥石だったらしい。しょり、しょりと小器用に斧の刃を研ぐアポロン。

「何の斧なんですか?」

眺めていたアイナが口を開く。アポロンは家の陰を指差した。

ちょっとした後付けの屋根の下に、手頃な太さの丸太が大量に積んである。

「……ああ、薪割り用ですね」

アポロンは頷いた。そうしてよそ見をしている間にも、刃物を扱う手を止めない。

間違って刃に触れても、彼の指は傷付きそうになかった。そういう余裕があるのかも知れない。

石はあらかじめ濡らしていたらしい、しょり、しょりと水研ぎを続けるアポロンを眺めていたアイナが

「私にも何か手伝えることはないですか?」

言った。言い、言った自らが一番驚いたようだった。両手で口を塞ぐ。

そんなアイナをアポロンはゆっくりと見上げたのち、少しして薪置き場を指差した。

「え……あ、薪?」

戸惑うアイナに、足もとに落ちていた小枝を拾って、丸太の上に置くアポロン。アイナが手を打つ。

「……ああ、持って来いってことですか」

こくり。

「わかりました」



どうしてこんなことを言い出したのかはわからないが、どうせ退屈していたから構わない。

深く考えず、低い背をめいいっぱい伸ばしてアイナは薪を掴む。

とりあえず手頃に五本ほどを抱え、アポロンの元へと歩いていく。

家では元傭兵の父に簡単な体術を仕込まれていたアイナは、貴族の娘にしては力がある。

五本程度なら軽いものだった。指示された場所に薪を並べ、次を取りに走り出す。

「……やはり、五本くらいは大したことないですね」

今度は十本を胸に積み上げてみた。重さはさほどでもないが一本一本が不ぞろいのため、

積み上げた薪を運ぶにはバランス感覚が要求される。

「お……っとと……と」

先ほどよりもたついたが、どうにか運ぶことができた。小さな達成感がこみ上がってくるのを感じた。

えへへ、と笑いつつ、三たび薪置き場の前へ。慎重に十五本を抱え込む。

「うわ……」

今度はさすがに無理をしすぎたか、とアイナは自分の失敗を悟る。

高く組まれた薪は不安定で、重さもそこそこになっていた。酔ってもいないのに千鳥足になるアイナの足取り。

あわわわわ、と上だけを見つめて歩いていれば、それは当然下への警戒も薄くなる。

お約束とばかりに石につまづくアイナであった。


がらごと、ごと、ぼとっ……


「あうっ…… ?」

つまづきはしたが、転びはしなかった。

人として有り得はしない傾き加減で、それでもアイナは立っている。胸の辺りが締めつけられていた。

「大丈夫かの? 無理をするものではないぞ」

首だけを回して後ろを見れば、いつの間に家から出てきていたのか

フェンネルが両手でアイナの後ろ襟を掴み、体重を後ろにかけて支えていた。

妙に腰が入っている。やせ細った体を見たときから思っていたが、非力なのかもしれない。

「あ、ありがとうございます……」

「なに、気にするでない。――アポロン、私は狩りに行って来るからの。アイナを頼むぞ」

言葉通り、フェンネルの背中には弓と矢筒、腰には剣が取り付けられている。

複雑な表情をしているアイナの横で、几帳面にもアイナが落とした薪を拾い集めていたアポロンが頷いた。

「……ごめんなさい」

手伝おうと思った頃には、アポロンは全ての薪を拾い終えている。

頭を下げたアイナに「気にするな」と言った様子で首を振り、アポロンはちょい、ちょいと丸太を指し示した。

何をしてほしいかは予想できる。

「薪割りのお手伝いですね」

アイナは詰んである薪のそばに屈むと、一つを丸太の中心に立てた。屋敷で見たことがある。

アポロンは嬉しそうに頷き、研いだばかりの巨大な斧を軽々と振りかぶった。


ぱこーん。



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