第二話「遭遇」
なんだかベッドがひどく揺れている気がする。それに、硬い。
まるで石のようだ。船の上にいるのだから揺れるのは当然かも知れないが
どうしてこんなにベッドが硬いのだろう。昨日までは普通、いや、むしろ家のベッドより柔らかかったのに。
アイナはゆっくりとまぶたを開いた。
「……え?」
青空が見える。どうして空が見えるのだろう。自分は確かに屋根の下で寝た。
混乱しかける思考をまとめるうちに、
こんな風にパニックを起こしたことがついこの間にもあったような気がしてきた。何があったのかと考え、
「……あ!」
自分の乗っていた船は沈んでしまったことを思い出した。
慌てて飛び起きる。体の節々は痛んだが、動けないほどではない。
続いて辺りを見渡し、自分が寝ていた石のようなベッドの正体を知る。
「……は」
腕だった。傭兵あがりの父も体は大きかったが、そんな父の腕よりも大きく太い。
石のように硬かったことも納得できた、その腕は石なのだ。
比喩ではない。青みがかった角の丸い石柱達が、人間の腕と手指の形に組み合わされて動いている。
頭では納得した。しかし、心が納得しない。石で作られた腕が動くはずがないではないか。
アイナが腕の付け根へと視線を巡らすと、
「……き」
自分を覗き込んでいるサッカーボール大の宝石と目が合った。
家のメイド達によく「何事にも動じない」と評されていたほど、自分でも不思議に思うほど、
それほどいつも冷静な頭が、ようやく自己の置かれた状況を理解し、説明してくれる。
どうやら自分は、石の人形にお姫様抱っこで運ばれているらしい。
「……きゃああああああああっ!!??」
じたばた暴れて悲鳴をあげるアイナ。助けを求めようと思ったが、
自分が――否、この石人形が歩いていたのは文字通りの獣道で
それを一歩でも外れればうっそうと生い茂る緑の森。とても近くに人間がいるとは思えない。
そもそも人がいたところで、この現実の出来事としてナンセンスな石人形に臆せず屈せず、自分を助け出してくれるのか。
だいたい何でこの石人形は自分を運んでいるのか。やはり化け物のセオリーとして、食べるためだろうか。
でもこの石人形、頭らしい円柱形の石には眼球らしい青色の宝石が一つあるだけで、口がない。
さっぱりわけがわからない。自分はどうなっていたのだろう。船から海に落とされたまでは覚えている。
自分はどうなってしまうのだろう。生き残れるのか。死ぬのか。
どうせ死ぬにしても食べられるなんて嫌だ。一思いに殺されるのが一番良いのだが。
涙目でもう一度石人形と目を合わせる。命乞いが通じる相手だろうか。やはり死にたくない。
「あああああああ……ら?」
アイナの顔から恐怖が消え、瞳に涙が引っ込んでいった。みるみる気分が落ち着いていく。
石人形は、アイナ以上に慌てていた。
暴れていたアイナが腕から落ちてしまわないよう細心の注意を払っていたようで、
アイナが暴れることをやめると、安堵したように強張った肩の力を抜く。
青い宝石がついただけの一つ目の顔にはその他のパーツがなく、従って表情もないのだが
石人形がどういう状態にあるか、アイナには一発でわかった。アイナに怯えている。
言葉を発せない人間は、話す以外の行動で感情を伝えることに長けると言うが
この石人形はその良い例らしい。もっとも、どう見たって人間ではないが。
石人形はゆっくりと道に膝をつくと、両腕を降ろし始める。若干左腕――アイナの足側が先に地につくように。
足が柔らかな土を踏み固めるや否や、アイナは素早く走り出した。
七歩走って振りかえる。石人形はしばし呆然とし、慌てて両手を振った。
「勘違いしないでくれ。自分はあなたに危害を加えたりはしない」
そういうジェスチャーに思われた。アイナもそう思うが、警戒を怠るわけにはいかない。
数メートルの距離を置き、少女と石人形が対峙する。
離れてみると、石人形がどのようなものなのか良くわかる。
胴長短足で、背丈は二メートルほど。その割に頭身が頭六つ分であるというのは
石人形の頭が人と比べ、かなり大きめであることを意味している。
腕は直立しながら指先が地面に触れそうなほど長い。
何型かと説明するなら人型なのだろうが、人とは明らかに体のバランスが違った。
緊張した面持ちでアイナがつぶやく。言葉が通じるのかは知らない。
「……あなたは、何者ですか?」
心配そうにアイナを見下ろしていた石人形は、アイナがしゃべったのを聞いてまたも肩を縮こまらせた。
「何者ですか?」
石人形はしばし硬直した後、ふいに傍らの木の枝をへし折った。
とてもアイナの腕では持てないような太いものだ。警戒したアイナが一歩あとずさると
それを見た石人形がわかりやすく慌てる。空いた手を顔の前でぱたぱた振った。
「違う。武器にするつもりじゃない」
そういうジェスチャーに思われた。アイナもそう思うが、警戒を怠るわけにはいかない。
アイナが逃げようとしないことを十二分に確認したらしく、おどおどと木の枝を土に突き立てる石人形。
がりがり枝が動かされれば、へたくそな文字がつづられていく。
無論、向かい合わせの位置にいるアイナには逆さに見えていたものの
どうにか読むことができた。枝の動きを目で追いつつ、アイナは文字を読み上げてみる。
「あ、ぽ……アポロン?」
石人形はこくこくと頷いた。
「……あなたの名前、ですか?」
石人形は頷くことをやめない。なるほど、何者かと聞かれたから名前を答えてくれたようだ。
そういう意味ではなかったのだが、この際良しとする。
どこか満足そうに石人形――自称アポロンは枝を捨てた。武器は持たないという意思表示なのだろうか。
「じゃあ、その、アポロン……さん。質問しても良いですか?」
アポロンは首を縦に振る。名前を文字で伝えた時からわかっていたが、言葉を話せないらしい。
「えっと、ここはどこなのですか?」
そう、言葉を話せない相手にこの質問はまずかった。アポロンは両手で頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。
「あっ、いや、その、えっと! はい、いいえ、で質問しますから!
それなら答えてくれますよね? ね?」
ようやく親に見つけてもらった迷子の子供のように顔を上げ、こくりと頷くアポロン。
決めつけてしまうのはまずいとわかってはいるものの、命の心配だけはしなくても良さそうだ。
字が書けるならそれで答えても良さそうなものだったが、
アポロン自身がそうしなかったのだから、どうやら自分の名前以外は書けないと見ていいだろう。
半分土に埋まっていた岩に腰を降ろしたアイナは、
おとなしく地べたに体育座りをしていた――アイナの座る岩の上の砂を払うという紳士ぶりを見せた――アポロンへと問いかけ始めた。
「……ここは、ウィナリスという国ですか?」
『ウィナリス』とはアイナの故郷である島国だ。船はまだ比較的島に近かったから
国のどこかに流れ着いた可能性もある。しかし、アポロンは首を横に振った。
少しだけだが期待していたゆえにため息をついてしまう。しかし、ここで落ち込んではいられない。
「あなたはウィナリスを知っていますか?」
アポロンは首を縦に振る。地理的な知識はあるらしい。
アイナはほっとした。とにかく、現在地を知らねばならない。
「では、ウィナリスはここから遠いですか?」
今度は首が横に振られた。
「近いのですか?」
次いで縦に振られる。
「……そうですか、良かった」
希望はある。故郷が近いなら、帰れないこともなさそうだ。
アイナが胸をなでおろしている内に、アポロンは指で地面に線を引き始めた。
何事かと見守っていたアイナだったが、すぐにそれがウィナリスの地図であることに気付く。
簡略化されてはいるものの、地理学の教科書に載っていた白地図と何ら変わらない正確さだ。
アイナは思わず「上手ですね」と賛辞を呈した。
アポロンは照れたように後頭部を掻く。外見の無骨さに似合わず、仕草の一つ一つが可愛らしい。
頬杖をついてなごむアイナの前で、アポロンはウィナリス島の近くに十字を描き加えた。
四つの先端のうち、一つを選んで矢印にする。これはすぐにわかった、東西南北を示す記号だ。
最後にアポロンは小さな丸を描き込んだ。アポロン画の略地図で言うと、ウィナリス島の東。それを指差す。
「その島が、現在地と言うわけですね?」
アイナの言葉にアポロンは頷いた。
ウィナリスの縮尺から見るに、この島が近くに位置しているのは間違いないだろう。
こんな形の島が地図に載っていたのを見たことがある。他にもたくさんあるので、名前は一致しないが。
「では、もう少し良いですか? 失礼ですが……あなたは、その。
私を殺したり、食べたりは……しません、よね?」
先ほどより控えめなアイナの言葉に、アポロンは憤慨したように首をぶんぶんと横に振った。
そして少しの間固まったあと、慌てて首を縦に振る。
「殺さないか」という質問を否定したら「殺すかもしれない」という返答になることを懸念したようだ、
アイナは質問が悪かったかと頬を掻いた。
「ごめんなさい。あなたが助けてくれたんですよね?」
今度は頷くアポロン。さっきから肌が少しひりひりして口の中がざらつき、どこかしょっぱい。服も髪も痛んでいる。
海に落ち、この島に漂着したところを彼が――男とは限らないが――助けてくれたに違いなかった。
とりあえずこの人の良さそうな非人間は、自分を悪くするつもりはないらしい。ついて行ってもいいだろう。
「ありがとうございました」
アイナが頭を下げると、アポロンも会釈を返す。
そしておずおずと両腕を差し出してきた。アイナの後ろ頭にそっと右手を触れ、
左腕を膝の裏に持って行くと、膝をかくんと折らせる。アイナの体が再びお姫様抱っこの姿勢に収まった。
「自分で歩けますけど……」
アイナの言葉は初めて無視された。アポロンはアイナの戸惑った表情を見ても構わずに歩き始める。
「……優しいんですね」
アポロンの肩が強張った。思わず笑みがこぼれる。
「これがあなたの家なのですか?」
アイナの問いに、しばしアポロンは虚空を見やり――こくりと頷いた。
玄関先で降ろされたアイナは珍しいものを見たようにその家を眺める。
家は全てが石で作られていた。
外観で木材が使われているところは扉や窓を除けばほとんどなく、
背景の森とはお世辞にも調和しているとは言いがたい。
がっしりとした造りで、ウィナリスの一般住宅よりも一回り大きい気がした。アポロンが住むためだろう。
四角い石を積み上げた煙突がもくもくと煙をあげていた。
玄関のドアを開けて中に入ったアポロンが、顔と手だけを出して手招きしている。
「あ、お邪魔します」
少しばかりの気後れと、かなりの好奇心を持ってアイナは家の中に入っていく。
内装におかしなところはない。ときおり半開きのドアから部屋の中を覗けば、
フローリングの床には少し年季の入った木製の調度が並び、
ところどころに細かな模様の美しいカーペットが引かれていた。
自宅の華やかな装飾にはない落ちついた雰囲気に、感嘆の声を漏らすアイナ。
アポロンの後ろについて歩きつつ、廊下の窓からふと外を覗く。
良い天気だ。空の青と森の緑をバックに従えて、
「……」
女物の洋服が物干し竿で揺れていた。
「……あの。あれ、アポロンさんの服ですか?」
振り向いたアポロンが首を横に振った。
彼は服らしい服を着ていない――というか彼には服を着るという概念がないらしい。真っ裸だ。
それに、干されている洋服は明らかにアポロンの着れるサイズではなかった。誰か一緒に住んでいるのだろうか。
そう言えば、「これがあなたの家なのか」と聞いたとき、
アポロンは少し答えるのが遅れた。もしかして、居候か何かなのかも知れない。
そんなことを考えているうちにもアポロンはのしのし歩いて
向かって左のドアに消えてしまう。慌てて後を追った。
その部屋はキッチンに隣接したリビングだったようだ。
広い部屋には食事用の足の高いテーブル――椅子は標準サイズと巨大なものの二つがあった――に
ガラスのはめられたシンプルな食器棚。木製の器が控えめに整頓されている。
赤いカーペットの上には、尻を乗せる場所から背もたれにかけて布の張られたロッキングチェア。
失礼かも知れないが、アポロンが座ったら確実に壊れる。
アポロンの他に誰かがこの家に住んでいるのは間違いないようだ。
静かに普通サイズの椅子を引いたアポロンが不思議そうにこちらを見ている。
うながされるままに座ると、アポロンは袖もないのに腕まくりの仕草をしてキッチンへと入っていった。
「……」
テーブルの位置からはアポロンが何をしているのか見えないが、
何かの爆ぜる音とほんの少しの煙たさで、火を起こしたことはわかった。
ふいに船上での悪夢が蘇る。
一瞬で焼かれた乗客達。
成すすべなく燃え上がる船。
炎を操る、腕に刺青をした人影。
耳が長く尖っていた。あれは間違いなくエルフだ。
『エルフの領海』の伝説が本当だったことはわかったが、いったいどうして船を沈めていたのだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。
今はどうやって仇敵を討つか。あのエルフに、どうにかして罪の償いをさせねばならない。
でも、どうしたら良いのだろう。奴にはどうやったら会えるか。
こと。
うつむいて考え込んでいた眼前に、スープの深皿が置かれた。
「え?」
太陽の位置加減から見て今はお昼過ぎ、きっとスープもまだ冷め切ってはいなかったのだろう。
ほかほか湯気を立てるそれを木のスプーンとともに運んできたのはアポロンだ、
いつの間に身につけたのか、妙に似合うふりふりのエプロンと三角巾姿で
「食べてくれ」とでも言いたげにこちらを覗き込んでいる。
「食べていいんですか?」
こくり。
「ありがとうございます。頂きますね」
どうもさっきから考え事をしていると、この石人形に邪魔されてばかりいる気がする。
苦笑まじりにアイナはスプーンを手に取った。
スープは素人にもそれとわかる、野菜と雑穀を煮て塩で味付けしただけの簡素なもの。
しかしそれが意外と美味しい。胃の内壁を熱がなぞる感触。空腹に今更気付いた。
そう言えば最後にものを食べたのは船が沈む前の晩の夕食だ、
今の天気は快晴だから、少なくとも一日以上は何も食べていなかったことになる。
さすがは貴族の娘、上品に――それでいてハイペースにスープを口に運ぶアイナの横から
アポロンはいなくなってしまっていた。向かいの椅子の背もたれに、エプロンと三角巾が引っかけられている。
「……あら?」
しばらくしてアイナはそのことに気付くが、心細さに空腹が勝ったようだ。手は止めなかった。
アイナが必死に食事を続けるアポロン宅のすぐ脇には崖がある。
幅は大人四人が両手を広げた程度だが、とにかく深い。
落ちたら即死は免れないだろう。下には川が走っていたものの、流れが速い。
水が澄んでいるからわかりにくいものの、生半可な鍛え方でこの川を泳ぐのは難しそうだ。
がさがさ、がさっ。
細長い草の茂みを掻き分け、人影はひょっこりと顔を出した。
細い身体と長くて薄いブロンドが印象深い美しい女性だ。
どう見積もっても二十代の半ばには届いていないはずだが
蒼の瞳は妙に老成した輝きを持っており、正確な年齢が掴みにくい。
腰にはかなり細身の長剣を帯び、背中には小さな狩猟用の弓と矢筒を背負っている。
「おー、風呂沸かしとる。毎度ながら気が利くもんじゃ」
妖艶さと無邪気さを併せ持った薄い唇が嬉しそうに言葉を紡いだ。
崖を挟んだ反対側には、ところどころ木々に隠れたアポロンの家が見える。
煙突はもこもこと煙を吐き出し続けていた。女性は少女のように屈託なく笑い、ひとりごちる。
「帰ったらエプロンでも繕ってやろうかの」
にこにこと笑顔を浮かべながら森の中へと戻る女性。
流れる金髪は木々の緑に隠れ、やがて見えなくなった。
アイナは目を輝かせていた。
彼女の視界には湯煙が立ち込めて白く煙る板張りの部屋が、
その中でなみなみと湯を湛える木製の浴槽がある。風呂場だ。
期待に満ちた目でアポロンを振り返ると、彼も満足そうに頷いてくれる。
「ありがとうございます!」
髪や服の中に砂が入り込んでじゃりじゃり言い、気持ち悪いことこの上なかった。
できれば風呂、せめて真水で洗い流したいと思っていたところだったのだ。願ったり叶ったりである。
さっそくアイナは汚れた絹のブラウスの襟元に手をかけ、
「……あー……」
アポロンを見上げた。そのはにかんだ視線の意味するところに気付いたアポロンが
両腕をぶんぶん振り回し、どしんどしんと石造りの家を揺らして走り去っていく。
苦笑するアイナ。やはり彼は『彼』と呼称して問題ないようだ。
ウィナリス島とその周辺の島国は、四季の移り変わりが激しい。
夏は湿気がこもって蒸し暑く、逆に冬は乾燥した寒波が雪崩れ込んで来る。
そのためこの地方には、垢を落とすため、体を温めるため、
熱い湯に体をつける習慣があった。ウィナリスの都市に行けば公衆浴場も多い。
「――っ……う〜っ」
髪と体を洗い終え、アイナはゆっくりと体を湯に沈める。
最初こそ潮に焼かれた肌がひりついたが、すぐに全身を何とも言えない快感が包んだ。アイナは風呂好きだった。
長い栗毛は器用に結い上げ、湯船につからないようにしている。
「……色々あったなあ」
楽しみにしていた自分一人の観光。
大陸の文化を学び、最新鋭の客船で船旅を満喫する予定だった。
それがどうしてこんなことになってしまったのだろう、
船はエルフに沈められ、自分は名前を忘れた島に流れ着き、石の人形に世話を焼いてもらっている。
ぼんやりと考え、そこでようやくアイナはアポロンが石人形であることを思い出した。
あまりに人間臭く動き回るから忘れていた。最初は心中で『化け物』などと罵っていたが
むしろ今の『世話好きの純情な紳士』という認識より、そっちのほうが正しい気がする。
彼はいったい何者なのだろう。自分を助けてどうするつもりなのだろうか。
助けると言えば、船に乗り合わせた乗客や船員達だ。
彼らは助かったのだろうか。可能性は低い。乗客達が焼かれるところは見てしまっている。
自分が、あの乗客達が、船員達が、いったい何をしたというのだろうか。
突如現れ船を燃やして沈めた、あの右腕に刺青のあるエルフ。奴を許すわけにはいかない。
そう言えばあの海域は『エルフの領海』と呼ばれていた。それと何か関係が。
そもそもウィナリスの歴史ではエルフは悪しき種族として、かつて先祖達にウィナリスを追われた。
その子孫達は今、『クロノガルデニア』という島に集落を作っているという噂で。
クロノ。時。そう言えば、今何時だろう。そう言えば総入れ歯。くだらない。
なんだか考えがまとまらない。
「……。……」
いつしか、風呂場に規則正しい寝息が響くようになっていた。
優しげな声が聞こえた気がする。
体がひどく火照り、尋常でなくだるい。
見渡す限り辺りは真っ暗だったが、目の前に人影がある。
耳は大きく尖り、右腕にはくさび状の刺青。船を沈めたあのエルフだ。
許さない。奴だけは絶対に許さない。
「おんし、これで九度目じゃぞ。いいかげん起きてくれんかの」
はっきりと目の前から女性の声がした。しかし、姿は見えない。
当然だ、目をつむったままだった。気だるい。
自分はどうしたのだろう、確かアポロンに風呂に案内されて、入浴して、あがった記憶がない。
浴槽の中で眠ってしまったのか。しかし、その割に今は肌が冷たい――
「お、気がついたかの?」
アイナが睡魔の誘惑を振り切ってまぶたを開くと、鼻の触れ合いそうな位置に人の顔があった。
「……きゃああああああああっ!!??」
「ほ、ぉお!? ぁだっ」
目の前の人は驚いたように尻餅をつく。膝を抱えて顔を覗き込んでいたらしい。
女性だった。その身体的特徴に、何とも言えない違和感がある。
歳は二十代の前半。長い金髪は洗濯バサミのようなヘアピンで横にまとめられ
青い瞳がぱちくりとこちらを見つめていた。
全裸でいるところから、どうやら風呂に入ったところで自分を見つけたということなのだろうか。
あらためてアイナが自分の状況を確かめると
体は湯から出され、浴槽に寄りかかるよう座らされていた。
パニックに陥りそうになりながら実はギリギリでパニックにならない
自らのそんな冷静さを自己嫌悪しつつ、アイナは女性をしっかりと観察する。
女性はほっそりとしすぎていた。とくに病弱な印象はないのに、肉がない。
胸のふくらみなど十四歳のアイナにすら劣るほどであった。
次に、耳が大きい。大きいだけでなく尖っており、微妙にぴこぴこ動いていた。
文献のさわりを読んだだけの知識だが、
耳が尖っていて体付きが異常に細いというのがエルフの特徴であることは知っている。
違和感の正体はこれだったらしい。人だと思ってエルフを見れば、それは違和感も感じるだろう。
「お、おんし、どうかしたのかの?私の顔が怖かったか?
これでも結構、自分じゃ美人じゃと思っとったんじゃが」
若い女性は、似合わない老人言葉で気遣いの言葉をかけてくる。
エルフは人間などよりずっと長寿だ。見た目の年齢が正しいのか、口調の年齢が正しいのか。
「あ……いえ、そうじゃなく」
驚いてしまって、と続けようとしたアイナの言葉が、急に途切れた。
尻餅をついたとき、後ろに倒れないよう突いていた腕は
体の陰に隠れて良く見えていなかった。
女性があらためてその場に膝を折ると、その腕も自ずと体の前に出て来てしまう。
刺青があった。
女性の右腕にびっしりと、くさび型の刺青が彫り込まれていた。
「…………」
どうやったら会えるか。そんなことを考えていた。必要なかった。
船を沈め、船員を殺し、乗客を殺したあのエルフは、目の前にいる。
ばあん! ……ずしぃぃんっ!
風呂場のドアが乱暴に開け放たれる。悲鳴を聞きつけたアポロンが駆けつけたらしい。
しかし悲しいかな、その頼もしき石人形は少女と女性の裸を拝み、ばったり倒れ込んでしまった。
「あ、アポロンっ!? ええい、おんしはいっつもいっつも!
女子の裸を見たくらいでオタオタするんじゃないわ!
この娘は私が見るからの、おんしは着替えを用意しとけ!二人分じゃぞ!」
女性の呆れたような声を右から左に聞き流し、
アイナは恐怖で見開かれた瞳に女性の横顔を映していた。
「……どうした? 顔色が悪いぞ。湯冷めしたかの」
「ぁ……あ、あっ……あ、あな、あな……あなた、は――」
「私か? 名前はフェンネルじゃが。――こら、アポロン!いつまで寝とる!早くどかぬか!」
フェンネル。
すっかり紫色になった唇が、音もなくその名前を繰り返す。