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第一話「沈没」



ぎぃぃ……


木材のきしんだ音でアイナは目を覚ました。

寝ぼけまなこで辺りを見回し、寝起きの頭でしばし黙考し

ここが自分の部屋ではなく、大陸へと向かう船の上であることを思い出した。体を起こす。

「ん……」

可愛らしい声をあげて伸びを一つ、ベッドを抜け出して着替えを物色し始める。


彼女が着ていたパジャマの素材は薄紅色の絹、

船の揺れで暴れないよう床と壁に固定されたクローゼットから取り出したブラウスも

純白の絹を仕立てた高価なものだ。これ一着を買う金があるなら、二月は食っていけるだろう。

そしてアイナは、そんな衣装を身にまとうに相応しいだけの美しさを持った少女だった。

やや吊り目だが顎のラインは丸く、きつい印象はない。

パジャマを脱いで外気にさらした身体は

日焼けもしていない肌には似つかわしくないほど筋張っていた。明らかに自然とついた筋肉ではない。

もともと痩せ型なのかも知れないが、それを差し引いても

つけるべくしてつけた、訓練で鍛え抜いた筋肉という雰囲気がある。

貴族の少女にしては珍しかったが、だからこそ護身術の一つも習っていておかしくはないだろう。

少しくらい筋肉質でも、それは彼女の可愛らしさを何ら損ねるものではない。


耳を覆い隠して腰まで届く栗色の髪に、アイナは慣れた様子で赤紫のリボンを巻く。

同色のケープを羽織り、やはり同色のスカートにベルトを締めたところで

部屋の扉が控えめにノックされた。


「アイナ・コンフリー様。朝でございます」

扉の向こうの男の声に、アイナは昨日、朝は七時に起こしてくれるよう頼んだことを思い出す。

「お客様」

「起きています、もう少し待ちなさい」

「かしこまりました」

船の使用人であろう男を堂々と待たせ、アイナは素早く手ぐしで髪を整えた。

顔を洗う暇がなかったことを気にしつつも扉を開ける。外には、やはり使用人の格好をした中年の男がいた。

「待たせましたね。聞きたいのですが、朝食はどういう風に取れば良いのでしたか?」

「はい、食堂で他のお客様と取っていただくようになります。

 その間にベッドメーキングを致しますので」

「わかりました。それと、今日の新聞はあります?」

「申し訳ございません。まだ港に寄る前ですので……」

「ああ、それもそうですね。では、昨日の夕刊でも良いのですが」

「かしこまりました。すぐにお持ちします」

「お願いしますね」

恭しく礼をして去って行く使用人の背中を見送り、アイナは扉を閉めた。

とくにすることもない。せっかく海の上にいるのだしと、窓のカーテンを開けてみる。


良い天気とは言えなかった。煙にまかれたような灰色の空と、それを映して暗い荒れた海。

昨日までは揺れもしなかった船がぎいぎいきしんでいることから見ても

航海をするのに良いコンディションではなさそうだ。詳しいことはわからないが。

雲一つない青空と穏やかな海を期待していたアイナは、軽い落胆を感じながら洗面所に向かった。

濡らしたタオルで顔を拭き、鏡を覗き込んで髪形を修正する。

せっかくの船旅なのにこの天気では気分が滅入るというべきか、

常に良い天気とは限らない旅暮らしの気分を味わえたことに興奮するべきか、

そんなことを考えながらリボンを巻き直していると、波の音に混じってノックが聞こえた。

新聞が来た。食事までの時間が潰せる。アイナは少し表情を和らげて部屋に戻った。




数分後、アイナは甲板に出ていた。

手には色とりどりの花を集めた花束。

海上の潮風は強かったが、周囲の人込みと低い身長のおかげか、あまり寒さは感じない。

人々のざわめく中、代表者らしい黒い背広の男が声を張り上げた。

「えー、それでは皆様、『エルフの領海』に呑まれた人々へ

 哀悼の意を込めまして、黙祷と花束を捧げたいと思います」

花束を持った人々が海へと近付くのを見、アイナはそれに習った。



部屋に来た使用人は、新聞とともに頼んでもいない花束を持って来ていた。

「あの、これは?」

「はい、もうすぐ『エルフの領海』を通過致しますので

 供養のための花束を配っております。お客様は参加なされますか?」

「あ……、はい」

アイナは納得したように頷いた。


『エルフの領海』とは、だいぶ昔から通った船が沈んでしまうというジンクスのある

この海の近辺に住む者なら誰でも知っている海域だ。

当然、通った船が全て沈むわけではないのだが

この海に沈んだ船の大半は、この海域で沈むのである。

沈んだ船のわずかな生き残りが「エルフに沈められた」と錯乱したように話すこと、

実際にこの海域の近くには、かつてアイナの故郷と戦争し、敗れ、

海に逃れたエルフ達の子孫が暮らすと噂される島『クロノガルデニア』があることから

いつしかこの海域は『エルフの領海』と呼ばれるようになった。

かつての戦争で数多くの先祖の命を奪ったとされる忌むべき種族、エルフの名をつけることで

人の命を奪う海域、という意味を持たせたらしい。


アイナの父も、この海域で船を沈められたことがあるそうだ。

小競り合いの戦で名を上げて傭兵から貴族に上り詰めた父は、体力は人一倍ある。

陸地が近かったこともあり、父はどうにか泳いで助かることができたが

ともに乗船していた戦友を何人か失ってしまったのだそうだ。

死者には敬意を払わねばならない。父の教えだった。


そしてこの船は、そんな『エルフの領海』の犠牲者へ哀悼の意を捧げるために

現代の最新技術を惜しみなく投入して作り上げた、世界最初の客船だ。

船名をレクイエム。外海を渡れば二割ほどの確率で船が沈むと言われる現代において

金持ち貴族が命の心配をせずに乗ることのできる船。画期的な発明である。

アイナもこの船に乗り、『エルフの領海』を通過して離島へと観光に向かっている途中だった。

彼女は『エルフの領海』に感心がない。船に乗ったのは純粋に後学のためである。


投げ入れた花束は風に乗り、思ったより遠くまで飛ばされて落ちた。

波に弄ばれ、あっという間に呑み込まれた花束に

この海に沈んでいった者を連想する。なんとなく寂しくなった。

今際の際に、何を思ったのだろう。

アイナは特別感傷に浸るタイプでもないが、雰囲気が雰囲気だったせいか、いろいろと考えてしまう。

失ったのは肉親か、恋人か、とにかく大事な人だったに違いない。

感極まったように泣き出す人も多かった。

どうか安らかに眠って欲しい。アイナがそう思って黙祷を捧げる。

目をつむって数秒。一際大きな波の音を聞いた、その時だった。



――っごおおおおおおおおおおおおんっ!!!



「……っ!?」

あの暗い空模様が嘘のように明るい。あの強い潮風が嘘のように熱い。

寂寥感にあふれていた船上は一瞬にして大混乱に陥った。

木造の船が炎に包まれていたのだ。

紅蓮の炎は舐めるように燃え広がり、煙は同じ色の雲に溶け込もうとばかりに空を目指す。

「えっ……なっ……何!?」

アイナの叫びに答えてくれる者などいなかった。

すでに船上は紳士淑女達の悲鳴がこだまし、少女の声などかき消されてしまう。

「何が起こったの……?」

船員さえも慌てふためいている中で、アイナはかなり冷静だったと言える。

パニックを起こしかけながらも実際に混乱したりはせず、何とか状況を掴もうと視線を巡らせて

特に火の巡りが激しい船首付近に、人影があることに気がついたのだから。


その炎を台風の渦と例えるなら、人影は台風の目の中で逃げ場を失ったように立っていた。

直立不動のその姿勢は、危機を感じていないようにも、パニックを通り過ぎて呆けているようにも見える。

逃げ遅れたとしか考えられない。

「そこの方!逃げて!」

アイナは人の流れに逆らうように踏み止まりながら、必死に叫んだ。しかし影は動かない。

光の加減で真っ黒なシルエットに見えているが、もしかして、もう黒焦げになってしまっているのではないか。

そんな馬鹿馬鹿しくも嫌な想像が頭を駆け巡る。意を決してアイナは走り出した。

「逃げてっ……!聞こえないのですか!?」

一歩近寄るごとにシルエットは色と光を取り戻していく。

アイナと同じく、腰まで伸ばした長髪。恐らく、色はそんなに濃くはない。プラチナブロンド、あるいはブロンド。

背はアイナより頭一つ高かったが、それに似合わず線は細い。男とも女ともつかない体付きだ。

「逃げて!お願いですから……っ!」

駆け寄るアイナに気付く様子もなく、シルエットはゆっくりと右手を持ち上げる。

五本の指を開いた手の平は逃げ惑う乗客と船員達へ向けられていた、

何をしているのかとアイナが顔をしかめた瞬間、


ごうっ……!!


シルエットの右腕から炎が噴き上がった。

腕が爆発したような錯覚を覚えたのは間違いではない、

事実、シルエットの右袖は燃え尽き、吹き飛んでしまっている。

右腕にびっしりと描き込まれた、くさび形の紋様がはっきりと見えた。

刺青いれずみ……?」

腕を燃え上がらせながらも平然としているシルエットに、アイナは足を止めた。

右腕の炎はみるみる勢いを増し、周囲の炎とも同化して、そしてアイナは悟る。

この火事の原因は――


「やめっ……!!」



ごあああああああああああっ!!!!



右腕から放たれた炎の濁流は、船の全てを巻き添えにして虚空に消えた。

大量の木片とともに吹き飛ばされていくアイナは、炎に焼き尽くされていく人々を見ていた。

どうすることもできなかった。呪うような鬼気迫る視線で火元となったシルエットを睨む。

人は――死ぬ直前のような――危機的状況に陥ると、潜在能力を限界まで引き出すことが可能になると言う。

アイナもそういう状態になっていたのだろう。先ほどは気付かなかった単純なことに気がついた。

ほとんど人間のそれだったシルエットに、一箇所だけ人間と違う個所があったのだ。

シルエットの頭部の両脇、耳のある位置。シルエットの耳は、人間にしては不自然に大きく、そして尖っていた。



アイナは叫んだ。

人の命を奪い続ける海に名付けられた忌むべき種族の名を、全力で叫んだ。

大きな水音を聞き、刺すような冷たさを感じ、意識は途切れる。


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