第十五話「真実」
わけもわからずこの世界に放り出された俺に、その人は優しく接してくれた。
自分を道具としか見ないエルフ達の中にあって、その人は精一杯俺を気遣ってくれた。
透き通るような長く薄い金髪と、周りのエルフよりやや低めの背丈。名前はフランネルというらしい。
フランネルがいたから、辛く苦しい実験生活にも耐えられた。
周りのエルフ達から何を言われても我慢することができた。
フランネルが大好きだ。恋愛など許された体ではなかったが、そういうものではなかったと思う。
たぶん、俺はフランネルを母親のように思っていたのだ。
それなのに、フランネルは俺を裏切った。俺を暗い海の底に封じた。
俺はフランネルを守ろうとしただけなのに。それなのに。
許せなかった。フランネルだけは、この手で殺してやると思っていた。そう思い続けて暗闇の中を過ごした。
そのフランネルが今、目の前にいる。
髪の色や背丈が変わっていたのは妙だったが、あれは間違いなくフランネルだ。
殺してやる。今こそ恨みを晴らしてやる。
お前だけは許せないのだ。どうして俺を裏切ったのだ。どうして俺を封印したのだ。
いや、その理由はわかっている。フランネルは俺に情を移していたのだ。殺したくなかったのだ。
だからこそ封印した。あのまま俺を放っておいては、俺はいずれ死ぬからだ。
しかし、それに納得して憎しみを捨てることなど、ミスリルにはできなかった。
この戦闘だけで、だいぶ『重力操作』のコツがわかってきた。
アイナは自らの体にかかる重力を百八十度変え、物凄い速さで空へと舞い上がる。
手にはメイスがあった。『光源』はフェンネルの集中が途切れでもしたのか、効果を発揮したりはしていないようだった。
「……フランネルゥゥゥゥゥっ!!!」
がっ!がががががががっ!!
無数の破片が一直線に迫ってきたが、自分に触れる寸前で全てが弾かれたように方向を変える。
いや、実際に弾かれているのだ。アイナを包む半透明の球体が、虹色の弾丸から少女を守り抜いていた。
「……皆、お願い」
アイナが傾いた。立てた鉛筆が倒れるように回転した華奢な体は
水に飛び込む競泳選手に近い角度で静止し、ミスリルの方向へと落ちていく。
「私は全力で戦うから」
激しい戦闘でいつの間にかほどけていた靴ひも。動きやすく頑丈に作られた革製の靴が、アイナの左足から脱げ落ちる。
「全力で守るから、だから――」
脱げ落ちた靴が、ふわりと浮かび上がった。無論、本当に浮いたわけではない。目の錯覚である。
靴は重力任せに地面を目指していた。浮かんだように見えたのは、靴のすぐそばにいたアイナが
重力加速度をはるかに超える速さでミスリルへと突っ込んでいただけのことだ。
「――だから、守って!」
アイナは目をつぶらなかった。目の前で弾丸が弾けようと、常軌を逸した速度で景色が近付いてこようと、風圧に涙がこぼれようと、
少女は絶対に目を閉じようとしなかった。ただ倒すべき敵――ミスリルの核を睨み付けた。
「フランネルゥゥゥゥゥゥッ――」
濁った湖の中心に鎮座するミスリルの胴体が目前に迫る。
核はすでに外皮に覆われ、その青を少しだって目にすることはできなかったが
アイナは構わずに落下速度を増す。
つい先ほどまで核が外気にさらされていた位置に、アイナを守る半透明の結界が激突した。
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ――!!!
のこぎりで岩石を引っ掻き回すような、そしてそんなものより何十倍も大きな音が空間を支配する。
『結界』とミスリルとが接触している位置で、赤い火花が噴水か何かのように暴れる。
空すらひび割れそうな大地震の中、アイナとミスリルは絶叫する。
愚かな生物達の行いを天界から見下している神の鼓膜さえ突き破りそうなその叫びは
しかし誰の耳にも届くことなく、轟音の中に掻き消えた。
島に静寂が戻り、風が白煙を押し流し、太陽が戦いの結末を照らす。
ミスリルは『結界』の魔法を打ち消していた。だが、そのために虹色の岩石は砕け散り
子供が膝を抱えた程度の大きさの宝石を再び外気にさらす結果となった。青く滑らかな表面が、恨めしそうにお天道様の光を反射している。
そんな核を足元に見下ろし、アイナは静かに呼吸を整えた。
細かな裂傷に彩られた全身は痛々しかったが、弱々しくはない。砕けたミスリルを足場に、両手でメイスを振りかぶる。
「恨みたければ恨んでくださって構いません。呪いたければ呪ってくださって構いません。
ただ、もう苦しむのはやめてください。四百年……苦痛を味わうのはもう十分でしょう」
ミスリルは何も言わなかった。あるいは言えなかったのかも知れない。
アイナはしばらく足裏のゴーレムの返事を待ち、それがいつまで経っても来ないことを察し、静かに言った。
「――お覚悟を」
甲高い音とともに、アイナのメイスが輝く。
普段、俺の部屋には誰も入れないようにしているから、
これが読まれているということは、俺はもう死んでいるはずだと思う。
俺は明日――これを書いている次の日、フェンネルからあの少女を奪い
古の巨大兵器『ミスリル』を復活させる計画を実行に移す。
もし成功すれば、復活したミスリルは怒りに任せてウィナリスの大地を粉々にするはずだ。
あとは俺達の魔力を持って、ウィナリスをエルフの楽園として再興すればいい。
ただ、この計画は恐らく失敗に終わるだろう。
俺達が束になってかかろうと、フェンネルは倒せまい。あいつはそれだけの強さを持っている。
手を抜くつもりはないが、勝てる確率はゼロに近い。
もしかしたら俺はフェンネルに殺されるのかも知れない。
今だから書くが、俺はフェンネルを愛している。あいつに殺されるなら悔いはないが、長としてはそうもいかない。
そしてあいつも、俺を殺したりはしないだろう。
俺を殺さなければ自分が殺される、フェンネルにそう思わせられるほど俺は強くない。悔しいことに。
だが、フェンネルが俺を殺さずとも、俺は死ぬことになるだろう。
生き残れたなら、俺は俺の命をミスリルに捧げるつもりだ。
おそらく復活は不完全に終わる。だが、それでいい。いや、そうでなくてはならない。
いくらフェンネルだろうと、五体満足のミスリルと戦っては分が悪いはずだ。
あいつがあの少女を守ろうというなら、ミスリルとの戦いは避けられない。
しかしミスリルを倒せば、凄まじく強い魔力が手に入る。ミスリルを動かすために使われていた魔力が解放されるのだ。
フェンネルならば、きっとその魔力を俺の望むようにしてくれる。俺の望みのために使ってくれる。
ついでに、その理由が俺への愛だと……なお嬉しい。
必要なことはこれで全部だが、意外と紙が余ってしまった。何を書こうか。
せっかくだから、この世への未練でもつづっておこうかと思う。
これを読んだ奴が俺を笑っても、その嘲笑は俺には聞こえないから安心だ。
思えば、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
フランネルは自分のせいだと言っているらしいが、
十人や百人ならいざしらず、ウィナリス諸島に住まう全ての命の運命を変えることなど
一人のエルフに過ぎないフランネルにどうして可能だろうか。
彼女一人が悪いのではない。住む場所を求めて争い始めた人間、それに荷担したエルフ、全てが悪いのだ。
その全てが――つまらない戦争が俺の運命を滅茶苦茶にしてくれた。今更恨んだりはしないが、迷惑な話だ。
今は航海技術が進み、ウィナリスから大陸に移り住むことも容易になっている。
あとはクロノガルデニアさえどうにかできれば、しばらくウィナリス諸島は平和でいられるだろう。
俺の計画さえ成功すれば、それも不可能ではない。俺のようなエルフの長は、しばらく生まれないに違いない。良かった。
俺は俺の生き方を後悔してはいない。
唯一心残りと言えば、フェンネル。あいつに一度でいいから、もう少し真剣に『愛してる』とでも言わせてみたかったものだ。
オニバスの遺品を整理していたエルフの一人は、神妙な面持ちでその文面を見つめていた。
部屋のゴミ箱に丸めて入れてあったものだ。
捨てようとひっくり返したとき、くしゃくしゃになったタイトルの『遺書』を読み取れたのは幸運だった。
「……」
涙は出なかったが、紙を持つ手がぶるぶると震える。とにかくこれを誰かに伝えようと立ち上がり、ドアを蹴破って外に飛び出す。
「お、おーい、みんなー……って、あれ……?」
そして気付いた。里の皆がそろって空を見上げていることに。見上げた空が虹色に輝いていることに。
「さっき、何かしてましたよね。何してたんです?」
「なーに、大したことじゃないわ。手向けはバンダナ一つじゃ足りんからの」
「は……?」
「クロノガルデニアに、ミスリルの魔力を送ってやったんじゃよ。
言ったじゃろ、魔力があれば、地質改善は容易い。クロノガルデニアでも麦と野菜が作れるようになれば
奴らだってウィナリスに攻め入ろうなんて考えは捨てるじゃろ。……あの若造もこれを望んどるはずじゃ」
フェンネルはそう言って笑った。少しだけ悲しげな微笑だった。
午前の日が射し込む温かなコンフリー家の屋敷。オレガノの寝室に四人は集まっていた。
エルフがいる特権か、アイナとフェンネルの傷は全快していた。『治癒』の魔法を使ったのだ。
オレガノにも使ったが、傷が大きいほど回復には時間がかかるらしい。
「どうせ治ったらまだまだ後始末に追われるんだ。もうしばらく寝かせてくれ」
本人はそう言っていた。
アポロンもフェンネルの手によって復活していた。ばらばらになっていたアポロンが元の人型に戻り、
感極まってアイナが抱き付き、もも辺りに顔面を打ち付けて鼻血を出したのもいい思い出だ。
ミスリルとの死闘から、二週間が過ぎていた。
戦いの傷跡は癒え去りつつある。オレガノはまず真っ先に遺族への保証を済ませ、
次に建築家や上流貴族との交渉を行い、街の復興の手はずを整えた。もともと被害は少ない、すぐ終わるはずだ。
もちろん、クロノガルデニアのエルフ達がこの件とは無関係であるという情報も流し終えている。
最も、情報操作にはもう少し時間がかかる。あんな化け物を作れるのも魔法あればこそだ、エルフへの疑いはそう簡単には晴れまい。
川が潰れてできた湖には『ミスリル』という名がつけられるという線が有力である。
オレガノの傷が治り次第、今度は近隣諸国への援助が行われるという話だ。まだまだ父は忙しい。
「……で? 何の話じゃ?」
フェンネルは怪我人のオレガノをこれっぽっちも気遣わずにベッドに腰かけ、面白そうに言った。
アポロンはいつものローブを脱いでいる。人々の前に姿をさらした今、もう隠す意味がないことも理由の一つだが
この部屋がオレガノによって人払いされていることが一番の理由だ。見られる心配がないなら、隠れる必要もない。
「わざわざ人払いまでしたということは、重要な話なんじゃろ?」
「はい。もうじき、フェンネルさんもアポロンさんも、この島を出るんですよね?」
「む、そん通りじゃ」
フェンネルは頷いた。ほとぼりが冷めれば、いくら自分達を救ってくれたとはいえ
エルフであるフェンネルとゴーレムであるアポロンの存在は騒がれ始めるだろう。
出て行っても騒がれるのは同じだろうが、いる者をいないと言い張るより、いない者をいないと言い張る方がはるかに楽だ。
「ああいうことになったからには、すぐにだって出て行かんとまずいからの。
前に話してた通り、世界一周旅行に出発する予定じゃ」
「それです。……単刀直入に言います」
「うむ」
「その旅に、私も連れて行ってくれませんか?」
「……」
フェンネルが何か言うより先に、オレガノがベッドの上で言葉を引き継いだ。
「俺も許した。もともと客船を沈められなければ、離島で社会勉強を行うはずだったからな。
この子には広い世界を見せてやりたい。となれば心配なのは身の安全だが……
お前達二人なら、全世界が敵に回ろうと勝てそうだ。そう見込んで、お前にアイナを頼みたい」
「簡単に言ってくれるのお……」
金髪をぼりぼりと掻き乱し、フェンネルがぼやく。
「大陸にはどんな強い奴がいるかわからんし、そいつらが敵に回らんとも限らんのじゃ。
いくら向こうではエルフにも市民権があるとはいえ、危険なことに変わりはないぞ。
本当にアイナの身の安全を考えるなら、しばらくはこの島に置いておいたほうがいいんじゃないかの?」
「でも、次に私が乗れるような船が出る見通しは立っていないんです」
「駄目じゃ、駄目じゃ。おんし、まだ十四じゃろうが。どうせあと四年もしたら、もっと性能のいい船ができて
大陸まで楽に留学できるようになるに違いないんじゃから。その時まで指折り数えて待っとれ」
「フェンネルさんやアポロンさんと、もっと一緒にいたいんですよ」
「そりゃ私らだって同じじゃ。じゃがの、おんしの安全を思えば、この島にいたほうがいいんじゃ。これは譲れん」
「連れて行ってくれないなら、勝手について行きます」
「そしたら、私らが守ってくれるとでも思っておるのか?甘ったれるでないわ」
「いいえ、あなたは絶対に私を守ります」
フェンネルはやや厳しい口調で言ったが、アイナはまるでひるまなかった。
いよいよフェンネルの表情が歪んでいく。怒っているのは間違いない。
「絶対に私を守ってくれます」
「は、何を言っとるか。そう断言する根拠を言ってみい、根拠を」
「自分の胸に手を当てて考えてみてはいかがですか?――姉さん」
含むようなアイナの言葉に、フェンネルの表情が凍り付いた。
二人が喧嘩を始めるのではないかとそわそわしていたアポロンもまたぴたりと静止し、オレガノは静かに目を閉じる。
小さな丸椅子に腰を下ろし、アイナは真正面にフェンネルを見据えて静かに言った。
「……私は、人間ではないんですね?」
ウィナリスに戻ってきて一息つくと、クロノガルデニアでの一件について
いろいろと不自然な点があることに思い当たった。
「私が魔法を使えることです」
フェンネルには人間にもごく稀ながら魔法を使う才能を持つ者がおり、
実際に大陸では『超能力者』として有名であるという事実も知っていた。
「でも、おかしいんです。確かに超能力者と呼ばれる方々は実在します。
ただ……その人達がやれることというのは、エルフの魔法には程遠いものなんだそうです」
調べてみたところ、大陸の超能力者の起こした奇跡というのは、簡単な手品と変わらないものであることが多い。
ある者は数秒間宙に浮いた、ある者は暗闇に小さな光をともした、ある者は指先でスプーンを曲げた。
大それたものを挙げても、せいぜい病人を治した程度だ。
「フェンネルさんでしたら平気で空を飛びますし、島一つを光らせ続けることも可能です。
スプーンだってその気になれば曲げられるでしょうし、病気と言わず怪我だって治せます。ですよね?」
「そうじゃの。朝飯前じゃ」
「つまり、私がどれだけ魔法の才能があったとしても
人間であるからには決してエルフを追随することはできません。
習ったその日に『光源』を使えるようになったりはしないはずなんです」
「なるほどの……それで、自分が人間ではないといいたいのか?自分はエルフじゃと」
「そうです。そう考えると、オニバス……さんが私を付け狙ったことも説明できます」
「ほう?」
フェンネルは頬杖をついて言った。指先で細い顎を撫で回し、薄い唇をなぞる。
彼女がこうやって変に無表情になるのは、何かしらの感情がピークに陥った時だ。傍らのアポロンはそのことを良く知っていた。
「まず、ミスリルはどうして封印されたのかを考えてみます。
これは『倒せなかったから』に他なりません」
もし戦って破壊できるなら、そうしたほうが良い。
後の世に復活してしまうかも知れない封印という手法を用いるより、後腐れなく壊してしまったほうが安全だ。
それなのに四百年前のエルフがそうしなかったのは、
倒すことは無理だったが、封印することは何とか可能だった、という状況にあったからではないだろうか。
「それならば、ミスリルに施す封印は
どうあっても二度と解かれないものでなくてはなりません。復活させる気なんてないんですからね。
そのためには何をすればいいか。最も簡単で確実なのは、封印を解く代償を求めて
さらにその代償を簡単には払えない大事なものにすることです」
百円の商品なら気軽に買えもするだろう。しかし、百万円の商品だとそうはいかない。
支払う代償が高ければ、人は行動を渋る。
「では、一般に人がどうあっても払えない代償とは何でしょうか」
「命、じゃな」
フェンネルが即答し、アイナが頷く。
「その通りです。命と引き換えにと言われれば、誰だってその行動を考え直します。
――四百年前のエルフは、ミスリルにそういう封印を施したんだと思います」
解く鍵が命である封印なら、まず破られることはないだろう。
エルフの基準で作った封印ならば、人間の一人や二人が命を捧げたところでびくともしないに違いない。
「そのことを知ったオニバスさんは、生贄にするためにエルフの領海に現れては
そこを通る船を沈めていたんでしょう。海の上なら数任せに返り討ちにされることもないですし、
人間にその行動を知られる心配もありません。
……ただ、それでも確実に気付かれないようにするために、あまり頻繁に船を襲うことはしていなかったようですが」
船に乗っている人間の数は、たいてい二十人に満たない。
仮に命を鍵とした封印が解ける基準を、生贄の寿命の合計が既定に達した時とした場合
一人につき四、五十年と考え、乗組員全員の寿命の合計は多くて千年となる。
「オニバスさんがどうやって私をエルフと判断したかはわかりません。
ただ、私がエルフであるなら、私は千年以上を軽く生きることになります。まだ十四歳ですからね。
生贄として、私以上の適役はいません」
彼女一人で、単純に考えれば船二隻を沈めたのと同じだけの鍵が手に入るのだ。
もちろん、命の質を寿命としたのは推論である。実際はそれ以上の効果があったとしてもおかしくない。
事実、エルフのオニバスの命を捧げた途端、不完全ながらミスリルは動き出したのだから。
「私の耳がただれているのは、私がエルフだと勘付かれないために、
耳を切り落として傷口を焼いたせいでしょう。
病気の名残だと教えられていましたが、今思えばどう見てもこれは火傷の痕です」
「……そーか。確かにそう考えれば、おんしがエルフであるとしたほうが自然じゃな」
フェンネルは腕組して頷いた。が、顔はまるで納得していない。
「まあ、百歩譲ってそれが真実としよう。じゃが、世の中にエルフなんてたくさんおるぞ?
私がおんしにお姉さん呼ばわりされる筋合いはないんじゃがな」
「フェンネルさん。あなたの母君の名前を聞いてもよろしいですか?」
「……」
アポロンが首を回し、心配げに主人の顔を覗き込む音さえ大きく響いた。
アイナは何も言わない。やがてフェンネルが観念したようにかぶりを振る。
「フランネル、じゃ」
「私の母も同じ名です」
「……ここで私が何を言っても、苦しく聞こえるんじゃろうな」
「別にこれが根拠というわけではないですよ。
まずおかしいのが、あなたの私に対する態度です」
そもそもクロノガルデニアのエルフ達は人間に住む場所を追われ、実りのないあの島に移住せざるを得なかったのだ。
いかに里のエルフと折り合いが悪かったフェンネルとはいえ
故郷を追い出される原因となった人間という種族に、あそこまで親切に接したりするだろうか。
「少なくとも、初対面の私にあそこまで気安く話しかけてはこないでしょう。
もしそうしたとしても、命を賭けてオニバスさんと戦ってくれるなんて……どう考えてもおかしすぎます」
だが、ときに人間やエルフは己の意思とは正反対のことをしなければならないこともある。
もしもフェンネル自身は人間を嫌っていても、目上の者から人間を大事にするようにと日頃教えられていたならどうだろうか。
「その仮説を採用すると、誰がフェンネルさんにものを教えられるかという問題が出ます。
フェンネルさんが頭の上がらない存在。私の知る中では、それはあなたの母親以外に考えられませんでした」
クロノガルデニアで、フェンネルは母の自慢話をすることが多かった。
娘を置いてどこかに旅立ち、死に目にも会わせてくれなかった迷惑な親だが、尊敬していると常々言っていた。
彼女がフェンネルに人間を嫌わないよう教えていたなら、フェンネルが渋々従ったとしても不自然ではない。
「なぜフェンネルさんの母君……フランネルさんがそんな風に教えたのか、その理由は後にします。
ここにも不自然なことがあります。どうしてフェンネルさんは、尊敬する母君をすでに死んだと決め付けているのでしょうか」
どんな生物にしたって、あまりに老衰すれば子供を作ることは難しくなる。
エルフがどのくらいの年齢で子供を産むのか、どのくらいの年齢でエルフが老いるのか、不明なところはあるが
少なくともこれだけ人間に近しい種族が、命の折り返し地点を遥かに過ぎてから子を産むということはあるまい。
「フェンネルさんの話をそのまま信じるなら、人間のそれに換算したフェンネルさんの年齢は、おおよそ二十代の前半。
人間なら充分に出産に耐えられる年齢です。フランネルさんもその歳でフェンネルさんを産んだと仮定して
今現在、フランネルさんの年齢は人間に置きかえて四十代後半から五十代の前半です。死ぬには早すぎます」
仮にフランネルが晩婚で、フェンネルを産んだのが千歳を過ぎてからだったとしても
今の年齢はせいぜい千五百歳弱。真っ当な生活をするエルフの寿命――二千年にはまだまだ足りない。
「私の母さんが真っ当な生活をしていたという証拠はあるかの?」
「フェンネルさんは時々人間の集落に行って、人間の食べ物を購入していました。
フランネルさんも同じことをしていた、少なくともフェンネルさんと同じ食生活をしていた可能性は高いです」
「反論はことごとく潰されるんじゃなあ。いいわ、続けてくれ」
「はい。――フェンネルさんはなぜ、自分の母がすでに死んでいると半ば決め付けているのか。
その理由ですが……フェンネルさんは、フランネルさんの死期が近いことを知っていたのはないですか?」
「どうしてそう思う?」
「ミスリルを封印したのが、フランネルさんだからです」
アイナの言葉はあくまで淀みがなく、隙もなく、しかし説得力に溢れていた。
あるいはこの説得力こそが彼女の本当の強さなのではないかと、フェンネルは唐突にそんなことを思った。
「私の主観ですが……フェンネルさん、あなたは強すぎます」
エルフであるフェンネルが『魔法とはエルフ独自の技術であり、奇跡を起こす魔法とは違う』と言っている以上
オニバスのいたエルフの隠れ里には様々な魔法に関する技術書、指南書があったに違いない。
その証拠に、オニバスはミスリルの封印を解く方法を熟知していた節がある。
周囲の年上のエルフ――教師となりえるエルフとことごとく死に別れてしまったオニバスの境遇は確かにハンデだろうが
それにしたってフェンネルの強さは異常だ。
オニバスと一騎討ちを行ったあの夜、フェンネルはベストコンディションには程遠い状態だった。
他のエルフの戦意を削ぐべく島全土を光らせた『光源』、
彼らを威嚇するために使った植物を操る魔法、壊れたアポロンだって完璧に修復している。
そんな消耗しきった状態で、フェンネルはオニバスを倒したのだ。
もし互いに体力、気力とも満ち溢れた状態で戦っていたならば、フェンネルはもっと楽にオニバスを倒していたに違いない。
フェンネルの実力は、他から抜きん出ている。抜きん出すぎている。
「単純に考えれば、指導者が優秀だったのでしょう。傭兵だったお父様に私が教えてもらった剣術が実戦で通用したように、
フェンネルさんに魔法を教えたフランネルさんも、非常に優秀な魔法使いであっただろうことは想像に難くありません」
そのような優秀な魔法使いが、いくら女性とはいえ、四百年前の戦争に駆り出されないはずがない。
ミスリルの強さを考えれば、女であるという体裁はどうでも良かったはずだ。
「さっき私は、ミスリル復活の鍵は生物の命であると言いました。
私は魔法に関しては門外漢です、女ですけどね。けれども、解こうとした者に命を貢がせるような封印を
そんなにあっさり作れるはずがないと思うんです」
「では、母さんはどうしたというのかの?」
「自分の命を差し出したんでしょう。ミスリルを倒そうとしたフェンネルさんがそうしたように」
おそらく、複数のエルフが協力して作った封印なのだろう。
そのエルフ全員が、自分の命を魔力に注ぎ込んだ。命の代償は命で払え、そういう質の封印だったのではないだろうか。
「そう考えたなら、フランネルさんの死期が近くなっていたことも納得がいきます。寿命が縮んでしまったんです。
そして、フランネルさんがそこまでした理由……それが、彼女が人間を愛していたからだと思いました」
「そりゃ妙じゃの。ミスリルを倒したなら、人間からもそうじゃがエルフからも英雄扱いじゃぞ。
それがどうして人間のためだけに戦ったとわかるんじゃ?」
「もちろん、フェンネルさんのためでもあったでしょう。
……ただ、エルフのために戦ったのであれば、あなた達母娘がエルフの里から離れて生活していたのが気になります。
エルフのために命を賭した者に、あのエルフ達がそんな仕打ちをするとは思えません。
それで考えたんです。もしかしたら、エルフ達をクロノガルデニアに導いたのもまた、フランネルさんなのではないかと」
ウィナリスに伝えられている民話では、エルフの隠れ里があるのはクロノガルデニア一つだけだ。
他の離島にエルフが住んでいるという話は聞いたことがない。実際は住んでいるのかも知れないが、
それは人間にその存在を悟られないような小人数のエルフに限る話だろう。
そこまでクロノガルデニアのエルフが有名になったわけ、それは何者かが率先して大移動を行う手はずを整えたからではないだろうか。
「ミスリルの件で、人間とエルフの仲は険悪になったそうですね。
そんな状況下でエルフが故郷を捨て、実りのない小島に追いやられるよう計画し、実行したなら……
エルフからは嫌われて当然です。真にエルフのことを思った行動とも取れなくはないですが
それでしたら人間を皆殺しにする覚悟を決めても良いはずです。そうすることができるだけの力もあったと思います。
そうしなかったのは、少なからず人間を愛していたからです」
一息でそこまで言い切り、そこで初めてアイナは自信なさげな表情になって続けた。
「これは推測ですが……もしかしたら、フランネルさんはミスリルの開発にも携わっていたのではないかと思うんです。
それもかなり重要な地位にいたと思います。
フランネルさんが作ったというアポロンさんは大きさ以外はほとんどミスリルと同じ形をしていますし、
人間との確執の原因になったミスリル開発の第一人者とくれば、エルフの非難の矛先も向くでしょう」
床に座り込んでいたアポロンが、心なしか背を丸めたように見えた。
ミスリルが意思を持つゴーレムの先駆けであるというなら、アポロンはその完成形と言ってもいいかも知れない。言葉は話せないが。
「話を戻します。こうしてフランネルさんとフェンネルさんが人間に親切に振る舞う理由を説明しました。
次に重要なのが、お父様の話です」
前振りのない指名だったが、ベッドの上で静かに目を閉じていたオレガノはとくに驚いたりせず
ゆっくりと体をアイナのほうに向けた。傷が痛むのか、ほんの少しだけ顔が歪む。
「お父様はエルフの領海から生きて帰ってきた、数少ない――いえ、現代ではほとんど唯一の人間です」
「ああ……その、オニバスと言うのか?そのエルフにやられたのだと思う。
俺は直接姿を見たわけではないが、気がつけば船は炎上し、戦友は焼き尽くされ、俺は身一つで海に投げ出された」
「私とほとんど同じ状況です。――では、海に落ちたあとの状況も同じになって、何の不自然もないですよね」
オレガノはしばらく黙り込んでいたが、観念したように頷いて再び目を閉じてしまった。
「海には、海流というものがあります。周囲の島や海底の形に影響を受けて複雑になるそれは
十年や二十年であっさり変わるものではありません。
エルフの領海に落ちたなら、おそらく……いえ、確実にクロノガルデニアに流れ着きます」
あとのことは説明するまでもない。
クロノガルデニアに漂着したオレガノは、運良くフェンネルか、アポロンか、フランネル本人かに助けられ
フランネルと恋仲になり、アイナを産んだのだ。
「フランネルさんが言ったという『好きなことをして死にたい』というのは、お父様について行きたいということだったんでしょう。
――私の出した結論はこうです」
四百年前、フランネルというエルフがミスリルを開発した。
しかしミスリルは暴走、フランネルは自らの命をもってそのゴーレムを封印し
エルフ達と人間達が争わないよう、エルフが譲歩する形でウィナリスを去るように仕向けた。
フランネルはそのことでエルフの信用を失い、里から離れて生活することを余儀なくされるが
そのことが人間の食事を手に入れられる良好な生活環境に繋がり、フェンネルは栄養失調を起こすことなく成長した。
そしておおよそ十四、五年ほど前に、クロノガルデニアにオニバスにやられたオレガノが流れ着いた。
フランネル一家に助けられたオレガノは、そこでの生活でフランネルと恋に落ち
フランネルはフェンネルとアポロンを残してでも、オレガノについて行くことを決意する。
こうして二人はウィナリスに帰り、家庭を築き、アイナを産んだ。その三年後、フランネルは死亡する。
アイナは十四歳まで成長し、客船による社会見学の旅に出発するも
そこで父子そろってオニバスに船を沈められ、アイナはクロノガルデニアに漂着する。
あとのことは、経験した通りだ。
「ミスリルは、私をフランネルと呼んでいました。それだけ私は母に似ていたのでしょう。
実の娘であるフェンネルさんには、私がフランネルの娘――自らの異父姉妹であると気付いたはずです。
これは予測に過ぎませんが、エルフと人間が子を成した場合
エルフの血のほうが色濃く出てしまうのではないでしょうか」
フェンネルの話によれば、ウィナリスに最初に定住したエルフはただ一人だったはずだ。
そのような性質でも持っていなければ、現在までエルフの血が絶えることなく続いているはずがない。周りは人間だからだ。
「あなたは私をどう思っていたかはわかりません。もしかしたら、恨んでいたのかも知れません。
自分から母を奪った男の娘など、見たくもなかったかも知れません。
ですが、あなたは尊敬する母君の娘を見捨てることができなかった。だから私を守った。そうですね」
問いかけではなく確認である。アイナは静かに、しかしはっきりと断言した。
真正面から見つめられ、フェンネルは居心地悪そうに視線を逸らし、気だるげに前髪を掻き分けて天井を見上げ、
「……二つだけ、間違っておるの」
たっぷり時間をかけてアイナに向き直った。かくれんぼで見つけられてしまった子供のような、さっぱりした笑顔だった。
「母さんがミスリルを封印したのは、倒せなかったのも理由の一つじゃが
最も大きいのは、自ら殺すことができなかったからじゃ。母さんは一度情が移ったものは捨てられないタイプじゃった」
「そうですか……では、もう一つは?」
「私も、アポロンも、おんしが大好きじゃ。間違っても恨んだりなんかしておらんぞ」
たまには貝なり海魚なりをフェンネルに食べさせようとやってきていた海岸で、アポロンはアイナを見つけた。
確かにフランネルに似ているとは思ったが、髪の色が明らかに違う。他人の空似だと思っていたらしい。
しかし、フェンネルは気付いた。
「驚いたぞ。縁を切ったはずのお母様は、死んでから娘を頼ってきたわけじゃ。
妹をよろしく頼むー、とな。正直、呆れたがの」
「そこで見捨てないでくれたから、今私はこうやって生きています。ありがとうございます」
「うむ、敬うがよい」
フェンネルは冗談めかして笑い、尻を沈めていたベッドから反動をつけて立ち上がる。
そして、揺れるベッドの上で恨めしそうに顔をしかめるオレガノへと無遠慮に問いかけた。
「バレたからにはしょうがないからの、いい機会じゃし、母さんの墓参りに行ってくる。案内してくれ」
「アホか。怪我人を何だと思ってるんだ、お前は」
「柔な体しとるのお、アポロンなんか腹に穴が空いたくらいじゃぴくりともせんぞ?」
「ゴーレムと人間を一緒にするな。だいたい、ぴくりともしなかったらやっぱり死んでるだろうが」
苦しそうにつぶやかれたオレガノの突っ込みを盛大に無視し、フェンネルは背中からアイナの肩に手を置いた。
「それじゃあアイナ、案内してくれんか? 十五年ぶりなんじゃよ、一度くらい母さんに会わせてくれてもいいじゃろ」
「それはまあ、いいですけど」
「よし決まった。ほれ立て、アポロン」
のそりと起き上がるアポロンを苦笑まじりに眺めていると、フェンネルが耳元に顔を近づけてきた。
かかる吐息や金髪がくすぐったい。
「何です?」
「いや。さっきの推理は自分で考えたんじゃろ? オレガノに教えられたわけじゃないんじゃな?」
「そうですけど、それが何か?」
「なーに、自分で考えたなら問題ないんじゃ。ほら、物事には訳だの理由だの大義名分だのが必要じゃろう?」
意味不明なフェンネルの言動に混乱しているうちに、アポロンもフェンネルも部屋を出て行ってしまった。
父に目でうながされ、丸椅子から立つ。長く座りすぎたか、痛む腰をさすって振り向くと
半開きのドアの向こうで、フェンネルがひょっこりと首だけを出していた。
「出発は三日後じゃ。それまでに荷物の準備をしておかんと、置いて行くからの」
「はあ?……って、まさか」
「そのまさかじゃ。名推理のご褒美ってことでよろしく頼むぞ」
期待に目を輝かせるアイナ。廊下に引っ込んでしまったフェンネルが、思い出したように大声で叫んでいた。
「大陸の土を踏むのは、三人同時じゃぞ!これだけは譲らないからのー!」
「もちろんですっ!ありがとうございます!」
ばたばたと慌ただしく愛娘が部屋を飛び出していく。
しばらくは会えなくなりそうだが、あの二人に任せておけば問題ないだろう。二年もすれば帰ってくるに違いない。
それに、たとえ二度と会えないことになろうとも、さして後悔はしないと思う。
同行を許されたときの、これ以上ない極上の笑顔。娘はすでに自分の手を離れた。そのあとの居場所は、彼女が自分で決めることだ。
オレガノはよたよたとベッド脇の窓を開ける。白いカーテンが風に弄ばれ、窓枠に切り取られた青空をバックに踊り始めた。
夏の日差しはまだまだ強かったが、じきに落ち付くことだろう。
「見ているか?いや、見ているんだろうな、フランネル……」
入道雲の立ち昇る空に、オレガノは自分を愛してくれたエルフの笑顔を見た気がした。
途中だいぶ間隔が開きましたが、朽ちた楽園のエルフ、これにて完結です。
まともに書き終えたのはほとんど初の連載作品だったのですが、いかがでしたでしょうか?
読んでくださった皆様に、心から感謝申し上げます。
次の作品で出会えることがありましたら、生暖かい目で見守ってくだされば幸いです。