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忍天狗【第二部】  作者: 八尾メチル
1.1932 東京殺人奇談・前篇
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[6/9]

1.1932 東京殺人奇談・前篇

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 日野邸を辞した後、足早に煬介は下宿に戻り、ミキに変装して、裏通りを歩いていた。すなわち人の目の届かぬところ、密会には打ってつけのところである。

「いるんだろう、獅子崎のオジキよ」

 以前、ならず者たちを返り討ちにしたあたりで、煬介はしゃがれた声で呼びかける。

「……おまえから、わしに呼びかけてくるとはな」

 意外そうな口調で、獅子崎の声は何処からともなく応じた。

「それで、わしらにつく心づもりはついたのか」

「まだそんなことを―――」

「おめえ、姉貴に会っただろう」

 煬介は言葉に詰まる。夜彦と藍立に行ったとき、忍びの気配などかけらも感じなかった。一体、この男はどこまで把握しているのだろう。

「変な気を起こすなと言ったろう。わしの方が、おまえたちよりも忍びとしても始末役としても上手なのは当然じゃ」

「……会ったっつっても、顔を見たわけじゃねえ」

 苦し紛れに言うと、獅子崎は高らかに嗤った。

「下手な言い訳はよせ! 正直に言いな、顔も分からなかったのだろう!」

「黙れ! あんたこそ、日野造船の娘を浚ってどうするつもりだ!?」

「ほう」

 獅子崎は一拍間をあけると、続けた。

「そこまで嗅ぎ付けたか……いや、元々忍天狗と繋がりの濃い会社だ。おまえが知っていてもおかしくはないな」

「数か月前、日野造船で大規模な解雇騒動があったそうじゃねえか。この不景気だ、元々貧窮している労働者なら、職を失えば借金を返す当てもなく、文字通りクビを切られるようなもんだろう。そいつらの中にあんたの関係者がいた。そうじゃないのか?」

 煬介が一息に言い切ると、不気味な沈黙がしんと続いた。

 夕暮れに落ちる、押し殺したような笑い声。

「残念ながら、不正解だ」

 煬介は相手に聞こえぬよう、小さく舌打ちした。しかし獅子崎はあざ笑うような響きで言葉を続けようとする―――それを、煬介はさらに遮った。

「俺の推測が外れてたって所詮それきりだ。もう一度聞くぞ、日野造船の娘を浚ってどうするつもりだ? あんたら、自分の立場がよっぽど分かってねえらしいな」

「それはこちらの科白だ、煬介よ」

 突然、冷たい空気があたりを満たしたような気がした。迫る夜風のせいではない、獅子崎が態度を変えたのだ。

「おめえはこっちに協力しねえってんなら、邪魔はしないでもらおう。どのみち、おまえにわしらの居所は分かるまい」

 監視役一人殺ったくれえで、天狗に戻った気になってんじゃねえ。

―――煬介は怒りに任せて、口に出しそうになった言葉をこらえた。ここで挑発に乗っても、挑発をかけても意味はない。むしろこちらの方が分は悪いのだ。姿が見えないだけ、敵とみなされれば先手はあちらになる。

 危険だ。

「……ああ、そうかい」

 煬介は賭けに出ることにした。

 両手をだらりと下げていた姿勢から、腕組みへ。両足をついていた姿勢から、壁にもたれかかる。つまり、不慮の攻撃の反撃に移るには、やや不利な体勢に、自ら。

「オジキよ、俺はあんたの言ったことが少しは理解できたんだぜ」

「……何?」

「“むなしい”ってやつさ。あんたの言うとおり、姉貴の顔が俺には分からなかった。そのとき感じた自分に対する失望や虚しさのせいか、今の俺は何がどう運んだってどうだっていいって気持ちになっちまってる―――忍天狗が勝っても、あんたらが勝っても」

「そうか。いや、そうだろうな」

 獅子崎の声は固さを帯びていた。彼は反芻している、煬介にかけた言葉を、かつて己の身に起きた“むなしさ”を。

 それに、煬介はつけこんだ。

「あんたに言われなくとも、今回、俺は傍観に徹しようと思ってね」

「ほう?」

 意外そうな声。煬介は続けた。

「俺の任務は、あんたらの始末。あんたらと忍天狗の間に落っこちた、日野造船についての事情は知ったこちゃないんでね。下手に手を出してあんたらが殺れねえなら、本末転倒だ」

 本当は、忍天狗から紫嬢を探せと命令を受けている。しかしそれは足りない監視役としての役目で、煬介はあくまで始末役目を優先させねばならない。

「正直に言うねえ、始末、とは」

「あんたも分かってるだろう? 俺にゃ俺の立場がある。まずはそれを守らねばならん、俺が真に誰の味方についていたとしても」

 挙動不審を見せれば、煬介の動向を警戒している忍天狗は、灯里を使うのに躊躇わない。かといって全面的に忍天狗の味方をするのに疲れてしまった煬介は、獅子崎側とも交渉の余地を残したいのだ。

 これは取引だ。

 煬介は最後の切り札を切る。

「俺はこれから、忍天狗の捜査の目を攪乱させる。あんたらのためにな」

 獅子崎は答えない。ひゅうひゅうと風が吹く、その中に煬介は呼びかける。

「その働きで、あんたは俺の価値を判断したらいい」

「……一つ、訊かせろ」

 ここでようやく、獅子崎は応じた。声は低い。まだ、訝しんでいる。続いた言葉もそうだった。

「それをして、おまえは何の見返りを得る?」

 獅子崎たちの味方をして、煬介は何を得るか、だ。

 問われることを想定していた煬介は、当然そのとおり答える。

「あんたが保証しただろうことだ。俺の自由―――今のあんたの立場が欲しい」

 忍天狗からの解放。

 つまり、裏切りだ。

 獅子崎は嗤う。そのうちに、その声はどんどん大きくなっていった。

「いいだろう、煬介! ただし……おまえの動きは監視させてもらうぞ、いいな」

「好きにしろよ」

 今までもさんざん見張っていたくせに、とは言わない。ここで獅子崎の心証を害してはいけない。信用を崩すのはいけない。

 煬介―――ミキはその場に背を向け、よたよたと歩き出した。監視をつけるという宣言にも関わらず、追ってくる気配はない。路地を抜け、大通りに出たとき、煬介は人知れず笑んだ。

 ―――勝った!

 煬介が寝返りを示唆してみせたのにはわけがある。一つには、獅子崎側がまだ、紫の身柄を押さえていないという、確信ができたからだ。

 監視役殺害からの流れ、獅子崎の今回(とは限らないが)の真の目的は紫であった。煬介の寝返り交渉は、その次点にすぎない。

 忍天狗は人手不足で煬介を東京に送る際、獅子崎と師匠弟子の関係であった煬介が寝返らぬよう、おそらく早い段階から監視役をつけていた。獅子崎もそれは予想していただろうが、煬介が、標的である紫と接触を持ってしまったために慌てて、交渉に来た。今も隠し続ける“日野造船への恨み”が、煬介に明らかにされ、寝返り交渉の余地をなくされるのを恐れたのだろう。

 そして殺害された監視役。彼女は紫のそれも兼ねていたために、元々獅子崎から狙われる立場であった。獅子崎が、彼女が煬介の監視役になったことを知った経緯までは分からないが、余計な情報が漏れることを危惧して、煬介と接触を持った直後に監視役を殺害する。

 ここからが、本格的な紫誘拐計画の開始だったはずだ。紫に、新たな監視役がつき忍天狗側の体制が整うより早く、彼女を浚う。だが、その手順にも狂いが生じる。紫が、自力で行方不明になってしまったことだ。

 今日のどの段階で獅子崎が彼女の行方不明を知ったかは分からないが、煬介の訪問に応じた時点で、彼女を見つけられていないのは容易に推測できる。何故なら紫誘拐こそ真の目的である獅子崎が、彼女を手中にした時点で煬介の求めに応じることはないからだ。計画を次の段階に移すことを優先するはずである。つまり、獅子崎の手元にある駒は、忍天狗の想定よりも少ない。

 そして今現在の状況で、獅子崎が煬介に何を期待しているか―――これこそ最も重要な点だ。煬介は寝返る態度を見せた。それ以上に、求めるものは一つしかない。

 すなわち、紫の身柄を確保し、獅子崎の下に連れてくることである。

 そのためには、忍天狗、獅子崎たちの両方よりも早く、煬介が紫を見つけなければならない。もっとも忍天狗側からは情報が入ってくるので、彼らが先に見つけてもいいのだが……もしかしたらこちらも、あまり手が回っていないのかもしれない。もとより、女学生に重要な監視役を担わせ、その結果殺害されてしまうような人手不足だ。

 さて、どうしようか。

 実際のところ、土地勘のない煬介が訪ねられるところなどたかが知れている。紫と同じ藍立に通う少女がいる、あの麻雀屋である。

 客にあの三人が来ていれば、捜索に手を貸してもらえるかもしれない。ほんのわずかな希望だけを胸に、ミキはそこに足を向けた。


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