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忍天狗【第二部】  作者: 八尾メチル
1.1932 東京殺人奇談・前篇
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1.1932 東京殺人奇談・前篇

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 自分に、失望した。

 俺は姉貴のために人殺しになったのではなかったのか。それが、姉の顔すら忘れてしまうなんて。獅子崎の言葉が胸に突き刺さる―――“一番大事なものを失ったとき、それが人間の一番強いとき”。そして時々、どうでもよくなる。全くもって正確に、煬介の心境を言い当てていた。

 だが獅子崎と違うのは、彼がそれを完全に失った一方で、煬介の姉はまだ生きている。顔は分からずとも確かに藍立に勤めていて、彼女は息をしている。そのことが再び、煬介を奮い立たせる。

 そう、灯里はまだ“居る”のだ。その限り、煬介は戦わねばならない。それが唯一姉を救う術だと、己が生きる道だと信じて。

 彼は知らない。

 かつて、祖父も同じ決断をし、同じ道を選んだことを。そしてその結果、彼がどういう末路を辿ったのかも―――



 登校したものの、集会があっただけで授業はなかった。当然だと思う。生徒が一人、行方不明になった上殺人の犠牲となって見つかったのだから。

 下校は教師が見守る中の、集団下校となった。とはいえほとんどの生徒の親が迎えに来ている。しかし、紫は集団下校組の輪に入って帰った。家の車が来ているのは知っていたが、可能な限り、家にはゆっくり帰りたかったからだ。

 紫は家が好きではない。十年前、父に引き取られて住むことになった家だ。そこには既に、父の妻と名乗る女が住んでいた。幼い紫はすぐに悟る、ああ、あたしはここに来てはいけない娘だったのだと。それを知らしめるように、母と呼ぶよう命じられた女からの、しつけと称した厳しい仕打ちが始まった。母を亡くしたばかりの紫にとって、女は母どころか鬼だった。優しさの欠片もなく、母との思い出を蹂躙し罵倒する女を、そう呼ばずして何と言おう。

 だが、つらい日々を送るうち、紫は徐々に知っていく。本当は幸せだったあの日々こそ、偽りだったことを。紫の実母こそ父の妾で、自分はその子だったのだということを。

 そのことを知ると、義母の自分への冷たい態度、罵りにも似た怒声、叱咤と共に打ち据えられる平手に、理解が生まれた。これらは義母の悲鳴なのだ、己に向くことのなかった愛とそれが生んだものを、義母は激しく憎んでいるのだ、と。夫を詰ることが出来ないのは、女の悲哀であろう。ないまぜになったすべてを、彼女は紫にぶつけている。そして父はそれを知っているからこそ、紫の境遇を見て見ぬふりをしている。

 最初は理不尽に震え、嘆いていた紫も、成長するにつれ分かり始めた。可能なら義母の顔を見ず、怯えたふりをして離れ、彼女の前に姿を見せないのが一番良いのだと。父にすがるのではなく両親と距離を置くことが自分の身を守ることになるのだ。父はそれに気づかない。ただの思春期だと思って、扱いにくい娘だと思って紫を見ている。それでいいと紫は思う。早く、家を出ていけばいい。

 だが、義母は紫が高等女学校に進学する際、寮に入ることを許さなかった。家から近場の女学校を探させて、そこに通わせている。紫はそれだけは理解できなかった。そして間もなく、紫の婚約が勝手に決められたことも。寝耳に水であった。

 最初は父も渋っていたらしいが、相手方が明示した条件により首を縦に振ったらしい。つまり金に目がくらんだのだ。船成金の父だが、最近の不景気で会社は傾き始めている。

 相手が自分を見初めた理由も何もかも分からないが、義母から、この家から離れられ、父の助けにもなるのは間違いない。本当なら受けるべき縁談だ。頭では紫も分かっている。だが、たった一つそれを妨げるものがある。それこそ、紫がこの十年を耐えきることが出来た理由でもあった。

 つまり、幼馴染の存在である。

 五年ほど前に音信不通になるまで、紫は彼と文通を続けていた。何度となく伏雁村へ行こうと思ったか分からぬ、連れ戻されるのが目に見えているので実行したことはないが……幼馴染の安否、ただそれだけが知りたかった。不安に押しつぶされそうなこの五年、それでも紫を支えたものは、やはり彼の手紙の最後に、必ず書かれていた言葉―――“いつか、必ず会いに行く”。ただ、その約束だけだったのだ。

 その彼と同姓同名の少年が、紫の目前に現れた。心臓が止まりそうなほど嬉しかったのだ。だが、彼は幼馴染ではないと否定する―――そんなことはない! 紫は何の根拠もなく、そう断言できた。多分、何らかの事情があって、彼は素性を明らかにすることが出来ないのだ。

「あ……」

 車道を挟んだ向こうの歩道に、下校中の紫は彼の姿を発見する。煬介は彼女に気づかない。立ち止まりそうになる紫を級友が通り過ぎ、最後尾の教師がせっつく。

 気づいた。彼は髪に隠れていない片目を軽く見開くと、目を逸らし、さっと行き過ぎてしまった。

 振ろうと掲げていた手を、紫は止める。教師に名を呼ばれて、諦めて列に戻った。

 何故だろう。無性に彼と話がしたい。あれだけ頑なに幼馴染であることを否定した、ますます怪しい。これはただの勘だ。それでも、紫は自分の勘がよく当たることを知っている―――

 気づけば、紫は自宅の前に辿りついていた。集団下校の列の姿はもはやない。

 きょろきょろと見渡しながら、そっと西洋式の門をくぐり、庭園を横切る。そこへ、声がかかった。

「紫さん?」

 庭園にいたのは、和服姿の義母であった。

「あ……お義母様。ただいま帰り―――」

「あなた、お車は?」

 義母の眦が吊り上がる。紫はしまったと臍を噛んだ。あれは父でなく義母が出した遣いだったのだ。

「ええと……気づきませんでした」

「まさか、日野家の令嬢であろうあなたが、この一大事に歩いて帰ってきただなんて! ……ああ、娘の大事にお車を出すことも出来ないのかと、あなたのお父様が世間様にどのように見られることか、あなたには理解できて?」

「申し訳ありません、お義母様」

 出来る限りうなだれながら、紫は殊勝を貫く。年を取り多少丸くなったのか、紫の体格が義母に近づいてきたせいか、彼女が暴力に訴えることは少なくなっていた。刺激しないように小言を聞き流していれば、自然と向こうから流れを切ってくれる。

「……、もういいわ。部屋へお入りなさい。学校はどうせしばらくお休みでしょう、家にいなさいな。因幡さんからお誘いが来たら、今度こそ断らないのよ、よろしいわね」

「はい、お義母様」

 誰が行くもんかと胸中で舌を出しつつ、紫は長い髪を翻した。これでようやく部屋にこもれる。

「そうそう、紫さん」

「っ、はい」

 振り返ると、義母の目が弓なりにしなった。

「本当に怖い事件ね……気をつけなさいね」

 能面のような表情。

「……はい」

 時々、義母が何を考えているのか読み取れないことがある。

 このときも同じ、薄気味悪いものを感じながら、紫は早足で家の中に入った。



 その翌日。

 いつもの通りろくに会話もない、義母と二人きりの朝食を終え、紫は二階の自室から庭を見下ろした。

 やっぱり、息が詰まる。

 どうしようか。紫は掌にのせた、かんざしに目を落とした。桜をあしらった、漆の剥げた簡素な木製のものである。紫の物ではない。これは、昨日会った少年―――幼馴染に似た、あの少年が落としていったものである。

 当然かんざしなのだから女がするものである。どうして彼がこんなものを持っているのかは知らないが、大事なものなら返さねばならない。

 そしてそれ以上に、紫は彼に会いたかった。かんざしは丁度いい口実である。もう一度ゆっくりと顔を合わせて話をしたい。その気持ちが急くように湧き続ける。

 どうにかして家から抜け出せないか、紫は悩んでいた。玄関から堂々と出ていくことはさすがに出来ない。かといって二階から出ようにも……

「そうだわ!」

 ぽんと手を打って、紫は自分の机を探る。出来る限りそれらしく見えるような、手紙を。ここにあるのは、婚約者から送られたものだ。そのうちの一通を持って、紫は階下に降りる。

 義母が庭に出ているのは、先に二階から確認済みだ。傍にいた使用人に声をかける。

「ねえ、円タクを呼んでちょうだい!」

「えっ? でもお嬢様、今日は何処にもお出かけにならないのでは……」

 そこで、紫は机から持ち出してきた婚約者からの手紙を掲げる。

「この手紙にね、こっそり書いてあったの。今日は内証で映画キネマを観に行きましょうって、ホラ!」

 見せた券は、いつぞやすっぽかした古いものだ。が、使用人がわざわざそこまで確認することはない。彼女はおろおろと庭の方を見やった。

「でも、奥様が……」

「お義母様には言っちゃだめよ、活動写真なんて低俗なもの、観るなって怒られてしまうわ。お願い!」

「……わ、分かりました」

 使用人がぱたぱたと玄関に走っていくのを見て、紫はほくそ笑んだ。



「はあ……」

 でかい洋風の屋敷に足を運んでいた煬介は、先導する夜彦について歩きながら、そのあまりの広さと装飾具合に目をぱちぱちさせていた。

 おのぼりさん丸出しの様に、使用人たちがひそひそと声を交わす。やがて、二人は廊下のつきあたり、扉の向こうに案内された。

 そこにあったのは、庭が見える広々とした客間だった。小さな(テーブル)を囲むような西洋風の椅子に腰かけていた男性が、立ち上がって深々と礼をする。

「ようこそ、お越しくださいました」

「日野さん、御無沙汰をしております」

 憲兵服の夜彦が帽を脱ぐ。その格式ばったやり取りに、煬介はただ目を白黒させるばかりである。

 突然下宿に現れた夜彦に、連れて行かれた先がここであった。

 下宿と、目と鼻の先にある高級住宅街の一角である。何の説明もない夜彦をなじるようにじっと見つめると、相変わらず涼しげな横顔はこうのたまった。

「こちら、今回の依頼をお受け致します、忍天狗でございます」

「は……?」

「ああ、どうもよろしく」

 にこやかに握手の手を差し出すこの男、どうやら忍天狗のことを知っている者らしい。

 ある程度の資産家や華族、政治屋なんかになると、忍天狗の名を耳にしたことがある、という者は増える。もっとも裏の噂の範疇を出ず、この男のように、忍天狗に依頼して事を運ぶということを出来る者まではそういない。おそらくは忍天狗そのものに資金援助しているとか、そういう直接的なつながりがあるのだろうが、煬介にはあまり興味が湧かなかった。

 それより、男の顔を見上げて、お互いの動きが止まる。

「あっ」

「君は……」

 慌てて手を引っ込めた男の顔は、見たことがあるものだった。

「お知り合いで?」

 目ざとく、夜彦が口をはさむ。

 答えあぐねるうちに、男の方が応答する。

「いや、彼の顔に少し見覚えが……あってね」

 夜彦が何か言うより早く、煬介は言葉を拾った。

「それは先代、狗堂幹久でしょう。……私は狗堂煬介と申します」

「やはりそうか」

 男の顔が歪む。再会の喜びではなく、単なる驚愕であった。

「改めて名乗りましょうか。私は日野義経、日野造船という会社の取締役というのをやっております」

 それ以上は他人の振りをして、男―――日野は咳払いした。

 煬介の古い記憶が正しくば、この男は、紫の父のはずだ。

 とすれば、ここは紫の家なのである。煬介と夜彦は椅子を勧められて、日野と向かい合せに座す。彼女にこんなところを見られたら……と思うのもつかの間、日野はこんなことを口に出してきた。

「実は、娘が行方不明になりましてな。それを見つけ出して、連れ戻していただきたいのです」

 煬介は表情を面に出さぬよう努める。日野が弾いたのは一枚の写真であった。女学校の集合写真である。

「お嬢さん、お名前は?」

「紫、と申します。いやはや、お恥ずかしいことに少し、おきゃんな娘でして……藍立で、酷い事件が起こりましたでしょう。娘はそこに通っているのですが、今日はそれが休みでして。家にじっとしていろと言ったのにも関わらず、いつの間にか抜け出してしまっていたようで……」

「誘拐の可能性は」

「使用人の話によりますと、円タクを使って駅まで行ったという足取りまで掴めております。娘には婚約者がいまして、彼に会いに行くと偽ったらしい。婚約者の方にも、探してもらっております」

 煬介は夜彦と顔を見合わせた。

「……気まぐれお嬢さんの家出ってところかい」

「そんな軽い話ではありませんよ。これは、あなたの“役目”にも関係しているんですから」

 窘めるような夜彦の言に、煬介はきょとんとした。

 夜彦は日野に視線を移す。

「日野造船さんは、最近、労働者を大規模解雇しましたね?」

「え、ええ……」

 話の方向性を変えた夜彦に、日野は戸惑いを見せる。夜彦は意に介さず続けた。

「その中に、うちになじみ深い者がいましてね。……いやなに、貴方を責めるつもりはございません。しかし、お嬢さんが誘拐される危険性をはらんでいるとするなら、そのことです」

「では、忍天狗が紫を浚うかもしれないと」

「元、です。日野さん、前々から申していました通り―――連中の思惑通り事は運んでいるかもしれません」

「おい、待て。話が見えないぞ」

 煬介は乱暴に間に入った。青白く顔色を変える日野と、鉄面皮の夜彦を交互に見舞って。

「“連中”ってなんだ。もしかして―――」

「ええ、あなたの予想している“連中”です」

 獅子崎たち一派のことだ。

 夜彦の一言で、煬介の知る事実が繋がり始める。そうか、殺された女学生、監視役とは、紫の身を守るための監視役だったのだ。

 おそらく忍天狗は、獅子崎の裏切りが日野造船の解雇騒動に絡んでいるものと知っていた。日野社長に恨みを持った獅子崎かその一派の誰かが、彼の娘に危害を加えることを予期して、日野に口添えしていたのだろう。獅子崎たちは手始めに、邪魔となる監視役を殺す。紫が自力で行方不明になったのは日野としては頭が痛いことだろうが、獅子崎たちにとっては好機以外の何物でもない。

「ふうん……それで俺が呼ばれたってことか」

「さ、猿國さん。紫は……」

 狼狽する日野に、夜彦は和やかに応じる。

「ご心配なく。万が一奴らの手に落ちていたとして、お嬢さんにすぐさま危害が加わる、ということはないでしょう。……狗堂どの」

「分かってるさ」

 ティーカップで出された茶を啜りながら、煬介は鷹揚に応じた。

 元々、こちらの仕事は連中の殲滅である。

「お嬢さんの命は保障しましょう、ご安心ください」

「ほ、本当ですか。お願いします」

 深々と頭を下げる日野を、煬介は冷ややかな目で見つめた。

―――保証できるのは命だけ、なのだが。


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