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1.1932 東京殺人奇談・前篇
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翌朝。
その日はどんよりと曇っていた。硬い蕾の桜が並ぶ、高い塀の向こうに立派な洋風の校舎が見える。日下部に連れられて門の近くまで行くと、昨日見た制服の女生徒たちが、門前に立つ教師に挨拶をしながら固い表情で足早に学校へ入っていく様子があった。
「これは……大ごとだね」
日下部が持つのは今朝早くに配られた号外だ。
行方不明だった藍立女学院の生徒が公園で、見るも無残な姿となって見つかった、とある。一面の写真に死体は写っていないが、文面にはこれが如何に異様な殺人であるかが書き立ててある。描写からして猟奇殺人だ、と誰もが思うだろう。だが煬介は真実を知っている。これが、争いの果てに敗れた忍天狗の末路なのだ。
殺された監視役は女学生だったのだ。冷静に考えれば驚くことでもない、煬介の姉もそうだった。
しかし忍天狗とはいえ大した技能もない小娘一人を、みせしめのように殺す獅子崎たちには胸が悪くなる。
「ちょっと、ここで何をしているの?」
突然かかった声に、煬介と日下部は首をすくませた。
振り返ると、仁王立ちにきつい顔をした藍立の女生徒が立っていた。その顔に、煬介はあっと声を上げそうになる。
昨日、道案内をしてくれた娘だった。しかしそのときの煬介はミキの姿だったので、面識があることを彼女が知る由はない。
「いや、僕たち、この近くのお宅に少し御用が」
居住まいを正しながら日下部がしどろもどろに言う。少女は検分するような目つきだが、同級生が惨殺された翌朝となっては無理もない。
「あなた、新聞の人?」
「記者みたいな無粋の輩と一緒にしないでくれたまえ。僕ァ、同じ取材でも志高いんだ」
「新聞記者でないのに、取材? 怪しいわね」
ますます渋い顔になった少女に、日下部はいやいや、と焦って否定するように首を振る。
「怪しいものじゃないよ。作家なんだ。僕は日下部直哉。こっちの青年は僕の友人で、狗堂煬介」
「えっ?」
そのとき、少女の顔色が変わった。
日下部を睨んでいた目がぱっと見開かれ、見つめる対象を煬介に変える。ずいと近づいてきた少女に、思わず身を引いた。
「な、何か?」
「も、もしかして……あなた……」
少女は唾を呑むと、興奮した様子でこう続けた。
「ねえ、もしかするとあなた、伏雁村っていうところに住んでいたことはない? それで、お祖父さんとお姉さんと暮らしていたなんてことはないかしら」
煬介の幼いころの境遇を言い当てる少女に、煬介は驚きつつ否定も肯定もしない。呆気にとられていたというのが正確だが、上手く伝わっていないと思ったのか、少女は少し考えるような間をおいてこう言った。
「じゃ、私のことは? 私、日野紫っていうの」
今度こそ、頭を殴られたような衝撃が煬介を襲った。
期待に目を輝かせて、自分を見つめる少女は今何と名乗ったか?
―――紫、それは紛れもなく煬介の幼馴染の名だ。
つまり、この目の前にいる少女は―――
「あ、あれ? お二人は知り合い?」
話についていけない様子の日下部の言葉に、煬介ははっと我を取り戻す。
「い、いや違う」
即座に否定した。少女―――紫が傷ついたような表情を浮かべる。
肯定してはいけない。強い抑止力が、煬介の口をついた。
「俺は八戸市の出だよ。伏雁村なんて、聞いたこともない」
「そんな……」
十年も経つのだ。煬介も当時の紫の顔はほとんど覚えていない。
だが、煬介は紫から目を離せずにいた。紫は、きっと眦を上げると煬介の襟首を掴む。
「そんなはずないわ。本当に違うの? 今あなた私の言葉に驚いてたじゃない」
「そりゃ、あんだけまくしたてられりゃ誰だってびっくりするさ」
「じゃ、生年月日は。家族の名前は? 隣に住んでた母子の名前は、憶えていない?」
忘れるはずがない。
だがここで嘘八百を並べ、紫の主張を否定する方が取るべき行動としては正しい―――そう思えと強制する得体のしれない力が、再会を喜びたい気持ちを妨げる。何故か?
煬介が言葉を紡ぐより早く、ぐいとその首根っこが引かれた。
「怪しい奴、ここで何をしている!」
煬介を掴み、怒鳴りつけてきたのは憲兵だった。紫と同じようなことを言っているが迫力は全然違う。おののいた紫と日下部が引いたその瞬間、憲兵は彼らと煬介をはがすようにして、ずるずる煬介を引きずりながら歩き出した。
「ま、待ってください、ちょっと―――」
「このあたりで事件があったことを知らんのか。学生は急ぎ各々の校舎へゆけ!」
どうやら、日下部のことも近所の中学生と思ったらしい。いくら紫の威勢が良くても憲兵を止めることはままならぬ、どうしようもなく呆然とするだけの彼女と日下部を置いて、憲兵は足早に煬介を路地裏に連れ去る。
「何をじゃれていたんですか、あなたは」
周りに人の姿がなくなると、鉄の声にわずかな呆れを滲ませて、憲兵は打ってかわって静かな声音で言った。
煬介も苦笑いで応じる。
「いやあ、おかげで助かったよ、夜の字」
煬介から手を離し、憲兵は帽子を脱ぐ―――現れたのは、夜彦の鉄面皮だ。
「おミキさんで来るものだとばかり思っていたので、探すのに手間取りました」
そのままの姿で来るとは思っていなかったらしい。煬介も朝まで出先で缶詰にされていなければ、変装してくるつもりだった。
「おまえさんも珍しく姿を見せたじゃねえか。……それともこれじゃまずいかい?」
「いえ、別に。むしろその姿の方がよいかもしれません」
「一体何処に連れてこうってんだ?」
夜彦は煬介の問いには答えず、すたすたと歩き出した。首を傾げつつ、煬介は彼に続く。
「あ、そうそう」
いきなり振り返った夜彦は、慣れた手つきで煬介の両手に縄をかけた。
「何しやがる」
これくらいすぐ抜け出せるが、一応の抗議をした煬介に、夜彦は事もなげに応じた。
「私は憲兵服ですし、不審者としてしょっぴいている形式で行くのが自然だと思いますので。それらしく、しょんぼりついてきて下さいね」
そのまま表通りに戻った夜彦に、煬介は言われたとおり項垂れながらついて行く。
塀沿いに進むと、現れたのは藍立の校門だ。すると、夜彦はさも当然のようにそれをくぐっていく。
(おい、おい)
声に出さないまでも、俯いたままで煬介は狼狽えた。夜彦は堂々と校庭を横切っていく。女生徒たちの視線と、ひそひそ声が聞こえるかのようだ。
やがて、夜彦は校舎の裏で足を止めた。
「このあたりですかね。身を屈めてください」
それは丁度、何かの部屋の裏手であるらしかった。こっそりと煬介は窓の内側を覗く。
「なんだい、ここは」
「職員室ですよ。藍立女学院の」
「それはいいんだが……」
老若問わず、ぴしりとした立ち居振る舞いの職業女性たちが、机の間を忙しなく動き回っている。果たしてこの光景が何を意味するのだろう。
やがて、教師たちと思しき女たちは次々に職員室から廊下へ出ていく。最後の一人が出て行ったところで煬介は、しゃがんだまま辺りを見張るように目を配る夜彦に目を落とす。
「……で?」
「あなた、まさか気づかなかったんですか」
珍しく驚き瞠った目が、憲兵帽の下から煬介を見た。
「気づくって何に」
「今の先生方の中に、あなたのお姉さんが居たんですよ」
「何だって」
煬介は再び窓に張り付いた。が、人っ子一人いなくなった職員室に、誰かが戻ってくる気配はない。
煬介は、ずるずると足の力が抜けていくのにつれ、膝を折った。
何だって? 今、あのなかに姉ちゃんがいた、だと?
「その様子では……本当に」
「言うな」
ぴしゃりと遮った煬介に従い、夜彦は口をつぐむ。降りた沈黙すらいたたまれなかった。壁に手をつく。
―――そう、気づかなかったのだ。
たった五年。
それだけ離れていただけで、俺は何より大切な、姉の顔が分からなかったのだ。
「……なんで連れてきた?」
始末役と人質を会わせるのはご法度のはずだ。かすれた声で尋ねると、夜彦は淡々と応じた。
「今、あなたに裏切られては困るので。……姉君の身柄は、忍天狗が責任を持ってお預かりしております。どうぞ、あなたはお役目に集中を」
これには煬介も理解した。煬介の心が、忍天狗を裏切れという獅子崎の提案に揺らいでいるとみて、忍天狗側が先手を打ったのだ。おまえの大事なものはこちらの手の内にある、そう思い知らせるために。
だが、煬介はそれが分からなかった。姉の顔を覚えていなかった、分からなかった。これには忍天狗、ひいては夜彦も想定外だったのだろう。言い含めるように続ける。
「……あなたが望むなら、面会は不可能ですが、もう一度姉君の顔をお見せすることは出来ます」
「いい」
言い様のない虚しさに、煬介はため息をつく。
「……そこまでされなくたって、裏切りゃしねえさ……俺にゃ姉ちゃんしかいねえんだ」
「そうですか。……それを聞いて安心しました。では、戻りましょうか」
帰りはあっさりと、目の前にあった塀を越えた。行きにそうしなかったのは多分、降りた先の人の目を警戒したからだろう。
「それでは、私はこれで」
「おい、待てよ。まさかこれだけの用で呼び出したってのか」
「ええ。そうですよ」
あっけらかんと言う夜彦に、煬介は眉間に皺を刻んで噛みついた。
「待て。獅子崎は、連中は何のために忍天狗を裏切ったんだ?」
「それを聞く必要は、あなたにはありません」
有無を言わさぬ強い口調で、夜彦は続ける。
「言ったでしょう。どうぞ、あなたはお役目に集中を」
夜彦は立ち止まり、首だけで振り返ると、一枚の紙を手渡してきた。地図だ。一目見るに、この周辺のものである。
目が合うと、彼は薄く笑んだ。
「狗堂どのはまだ、東京の地理も十分に把握できていないでしょう。歩き回ってみてはいかがですか」
それだけ言うと、さっと姿を消してしまう。
煬介は頬を掻くと、また、ため息をついた。