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1.1932 東京殺人奇談・前篇
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下宿を出た煬介がふらりと立ち寄った狭い裏道でも、のぼりと電灯がうるさく自己主張していた。こうも看板が多くては、どの店に入ったら晩飯にありつけるのかも分からない。
「お兄さん、店をお探しかい?」
べたつく匂いを漂わせ、客引きの女が腕を絡めてくる。押し付けられた柔らかい感触に、煬介は相好を崩した。
「お姉さんの店に行ったら、サービスしてもらえそうだ」
「そりゃ、ねえ」
今まで渡った街にもこういう界隈がなかったわけではないから、煬介もカフェーの女給がしてくれるサービスくらい知っている。が、今はそれにチップを払うより、腹を膨らませる方に金を使いたかった。
「悪いけど、今度ね」
「あら、つれないねえ」
しなを作る女を軽くあしらい、煬介は次の通りに足を向ける。
「おっ?」
目に入ったのは、女学校の制服だった。
見覚えのあるセーラー服の、少女がある一軒に足早に入っていく。あれはたしか、さっき近所を案内してもらった女の子が着ていたのと同じ制服だ。
女学校の生徒が、こんな時間、こんな繁華街に何の用だろう。何となく興味を引かれてその店に近寄る。すると若い男が三人くらい、まるで入り番のように立っていることに気づいた。着流し眼鏡に、職人風の印半纏、小洒落た洋装と、てんでばらばらな三人組である。
「はあ、客引きにしては色のない人たちだなあ」
思わず口をついて出た言葉に、印半纏の四角く厳つい顔が煬介を向く。
「俺たちは客引きじゃねえぞ」
「じゃ、どうしてまた店先で通行人を検分してるんで?」
「人数が足りないんだよ。仲間が一人来なくなったんでね」
洋装が肩を竦める。こちらはどこか柔らかい雰囲気の男だ。それを、ハンチング帽の眼鏡が押しのけた。
「このさい、君でもいいや。……君、麻雀出来るかい?」
「マージャン? 何だそりゃ、支那語か?」
「おいっ」
今度は洋装が眼鏡を肘で突く。小柄な眼鏡はよろめいたが、洋装も印半纏も渋い顔だ。
そこで煬介はぴんと来た。
「あっ、もしかして賭け事か」
やったことはないが、聞いたことがある。人差し指を立てると、洋装と印半纏はますます狼狽えた。一方眼鏡は目を輝かせる。
「なんだ、知ってるんじゃないか」
「いや、聞いたことがある程度でどんなものかは知らねえよ」
「いいよ、教えてあげるよ。興味あるんだろ?」
「まあなあ」
賭け事は嫌いじゃない。煬介が乗り気を見せると、それまで苦い色だった二人も表情を変えた。洋装が目の前の店を指す。
「なら、丁度いいね。これで四人だ」
「麻雀てのは四人でやるもんだからな。うん、大丈夫、簡単だからすぐ分かるようになるぜ」
もしかしたらカモに出来るかもしれない、と正直な顔には書いてある。煬介はにいと笑って見せた。
「お手柔らかに」
ものの数時間も経たぬうちに、煬介を誘った三人は音を上げた。
「ああー、もう勘弁してくれ!」
麻雀卓につっぷす印半纏は、相川という男だ。この近くで大工の徒弟をやってるらしい。
「きみ、本当に麻雀初めてなのかい?」
真っ青になりながら唇を震わせる洋装は、新藤という。立ち居振る舞いは三人のうちでも群を抜いて上品だが、帝国大学の法学部の学生だそうだ。
「はは……はは……」
から笑いをしながら麻雀牌をかき混ぜるのは、一番乗り気だった日下部だ。眼鏡の彼は一番年下で、文筆家の真似事をしながら生活しているらしい。
「とりあえず、賭けは俺の勝ちでいいんだよな」
じゃらじゃらと点棒を弄びながら煬介は言う。それに、威勢よく相川が起き上がった。
「いやいや、まだまだ! もう半荘―――」
「あんた、止しときなよ。このお兄さん、相当お強いようだし」
彼の肩をぽんと叩いたのは、雀荘の店主だ。歯ぎしりする相川に、煬介はいい気分で破顔する。
「あー、それにしても腹減ったなあ」
楽しすぎて目的をすっかり忘れていたが、自分は晩飯を食いに来たのである。
すると、店主は紫煙で曇る下り階段を指さした。
「うちの一階は食堂だからね、そこで賭け分、飯食っていきゃあいいさ」
「そいつァいいな」
賭けに負けた三人もそうしてくれと言わんばかりの表情だったので、四人は揃って一階に降りる。
「改めて自己紹介だ。俺ァ、相川源太。こっちのひょろいのが新藤裕次郎、チビの眼鏡が日下部直哉だ」
「俺は狗堂煬介。実は上京してきたばかりでね、右も左も分からないもんで、あんたたちが声をかけてくれて助かったよ」
笑顔で応じると、日下部が眼鏡を押し上げた。
「何処から来たんだい?」
「ここに来る前は銚子、その前は八戸に」
「東北か。出稼ぎかい?」
「ま、そんなものかな」
新藤の問いに頷くと、相川が苦い顔の前で手をひらひら振った。
「花の帝都って言うけどな、見る影もないくれェ不景気だぜ。仕事なんて見つかりゃしねえ、その日食い繋ぐのでいっぱいいっぱいよ」
「近頃はそれに加えて物騒だしね……」
「外地の方は景気よくドンパチしているようだけれど、それにつられて内地の景気も良くはならないものかなあ」
「その、物騒だってのはよく聞くんだが、何か大きな事件でもあったのかい」
それとなく尋ねると、よく訊いてくれたと言わんばかりに日下部がテーブルから身を乗り出してきた。
「そりゃあ山盛りさ! ……まずは一月の、桜田門事件。畏れ多くも天皇陛下を狙った暗殺未遂だ。続いてつい先月の前大蔵大臣暗殺事件。両方とも帝都であった事件なんだよ。信じられるかい? その上、一月の方は外地人の仕業ってはっきりしてるんだが、二月の暗殺は日本人の仕業で、どういう組織の者なのかは完全黙秘してるんだ。不気味だろ?」
そこまでを流れるような一言で言った日下部に、ゆっくり内容を呑み込みつつ、煬介は頷く。
「それにね」
日下部は、さらに迫ってきた。
「噂の域を出ないんだがね、なんでも東京じゅうで行方不明者が急増しているらしいんだ」
「……へえ」
今日行方不明者を増やしてきた身には、うしろめたい噂だ。
「といっても、自分の家族がいなくなったとかでなく、近所の浮浪者が見えなくなったとか隣の家の下宿生の姿がないとかいう類なんだけどね」
「それは行方不明というのかね? 急に引っ越しただけかもしれないじゃないか」
「そうかもね。でも、そういう話をあちらこちらで聞くのだよ。怪しいと思わないか?」
眼鏡を光らせる日下部に、あきれたように相川が言った。
「オイ、よせよ。まったくおまえって奴は」
新藤が煬介に向かって笑みを浮かべる。
「すまないね、日下部君は街の噂が好きなんだよ」
「流行に敏感だと言ってくれたまえ」
そこに、四人の足元をでかいネズミが這っていった。新藤が女みたいな悲鳴を上げる。
「うわっ、ここは飲食店だろう!?」
「す、すみません。どっからか迷い込んできたのかなあ」
捕まえようとする店の主人だが、ネズミは胴体にそぐわずすばしっこい。
煬介は席を立った。
「ご主人、厠はどこだい」
「そこの階段の裏に入り口がありますよ」
「ありがとう」
煬介が厠の扉を開けると、ネズミは吸い込まれるようにその内側に入り込んだ。
ぱたんと戸を閉じ、鍵をかけると、煬介は腕を組んで目を伏せる。
「で、何の用だ」
「火に入る虫の言伝に。状況は悪化しています」
澄ました男の声が、狭い便所に響いた。連絡役こと、猿國夜彦の声である。
「監視役が複数消えました。うち、一人は死体が見つかっています」
煬介はうっすら目を開けるが、前にあるのは便器とネズミだけだ。
「ってことは残りも……」
「死んでいるかもしれませんね。向こうも、本格的に動くつもりのようです。あなたが東京にやって来たからかもしれません」
「それで? いちいち俺に報告するような内容でもないだろう」
「殺された監視役の代わりに、明日行ってもらいたいところがあるのです。始末役目でなくて申し訳ありませんが」
「いや、それは構わないけど……場所は?」
「藍立女学院です」
「女学校?」
聞き返すと、夜彦の声は、はいと答えた。
「ちょ……殺された監視役ってのはどういう立場だったんだ。陽忍だろ?」
「監視役については……まあ、明日新聞にでもあがるでしょうから、それを見てください」
「死体の回収はしなかったのか?」
「陽忍ですから、表の身分は一般人です。事件にした方が敵の立場は悪くなるでしょう?」
ネズミは壁を這い、窓の隙間に潜り込む。
「私はまだ仕事がありますので、詳しいことは明日午前八時に、女学校で。あとはよしなに」
言うだけ言うと、ネズミはさっさと夜の向こうへ消えてしまった。
煬介は窓を閉じると、アリバイよろしく用を足してから店の中に戻った。会話の弾んだ様子もない三人に問いかける。
「そういえば、藍立女学院ってご存知かい?」
「藍立? ……藍立といえば、ここの娘さんがそうだったんじゃないかなあ」
「え?」
「おーい、ご主人」
新藤が呼び止めた店主に尋ねると、彼は首肯した。
「へえ、そうですが」
店主が指さしたのは、奥の席で給仕をしている娘だ。
「で、何が訊きたいの?」
「いや……」
目をぱちくりさせて、煬介は彼女を遠目に眺めた。
間違いない、この店に入る前に見た少女だ。着替えてしまっているが、あの制服は藍立のものだったらしい。
固まった煬介を、日下部が肘で突く。
「もしかして君、恋煩いかい!」
「へ? ち、違う違う!」
「ムキになっちゃって、怪しいなあ」
「いや、俺は藍立がどこにあるのか教えてほしかっただけだよ。明日の朝、近くに住んでる知人に用で―――」
「なんだ。そういうことなら、僕が案内してあげるよ!」
どんと自分の狭い胸を叩く日下部に、煬介は目を丸くする。
「いや……早朝だし、迷惑だろうからそこまでは」
「大丈夫、僕は早起きだし自由業だから、時間の都合はつくんだよ。遠慮しなくて構わないさ!」
「そう言っておまえ、自分が女学校に足を運びたいだけじゃないのか」
茶を啜る相川の言葉に、日下部は渋い顔をした。
「よりリアリテイのある作品を作るには、取材も必要なのだよ」
「あ、否定しないのね……」
日下部が引き下がらなかったのと、相川と新藤が麻雀の雪辱戦を提案したせいで、結局煬介はこの店で夜明かしするハメになってしまった。