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1.1932 東京殺人奇談・前篇
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東京の空は暗く淀んでいる。
車は引っ切り無しに行き交い、灰色の空気が目に見えるかのようだ。煬介は老婆の姿で道を進みながらごほごほと咳き込む。日が暮れてきた。
だだっぴろい道の中心を路面電車が滑っていく。その傍を車や乗合自動車が通り過ぎ、そして道渡る人が縦に横切って走っていく。
煬介は忍天狗から支給された下宿で変装したのち、当てもなくぶらぶらと街中を彷徨っていた。大通りは洋装の人も多く華やかだが、裏通りは着流しでいても違和感がない。
それにしても……
石橋の途中で立ち止まり、煬介―――ミキはため息をついた。
東京とは、なんと広い街であることか!
それに、とにかく人が多い。念のため老婆に扮してはいるが、よろよろと頼りないこの姿ではこちらからあちらへ行くだけで時間が瞬く間に過ぎてしまう。こんな調子で、標的の三人が仕留められるものだろうか? ―――夜彦はあえて、煬介を帝都に慣れさせるために仔細を知らせなかったのではと、邪推してしまう。
こんな調子で、あの獅子崎が殺れるのだろうか。
ため息が止まらぬ。彼らを見つけてくるのは自分の仕事でないとは言えど、敵が敵だ。
すると。
「おっ?」
橋を渡り終えるミキの前を歩く青年が、左の路地に曲がる。
それはそうと、真っ直ぐ行こうとしたミキの行く手を阻むように、別の男が立ち止まった。
「あらら」
気づけば後ろからも人が来ている。仕方なく左の路地へ進むと、正面の青年につられていくうちに、だんだんと人気のないほうへ足を運んでいることに気づいた。
「あら、あら」
目に見える範囲で相手は三人―――前に一人、隣に一人、少し離れて後ろに一人―――である。
見事な誘導術である。このまま行けば、袋小路に追い込まれていくのだろう。
が、こちらが気付いた以上そう事は運ばせない。
ミキは途中で立ち止まると同時に地を蹴り、方向を変えて真後ろの一人に躍りかかった。
相手もそれは予想していたのか、深く被った傘の下の口元を引き締め、洋装の上着のうちに手を忍ばせる。だがそれを抜くより早く、猛然と彼に辿りついたミキは、懐に差したままの傘男の肘と二の腕を掴み、足を払いながら背負い投げた。その肘がへし折れる音。苦悶の声を投げ捨て、ミキは来た道に向かって駆けだした。
追ってくる足音がする間もなく、急に止まったミキの眼前を銃弾が通過していく。
見えぬ塀の上にもう一人―――
四人か。
総人数が分かってしまえば、対処はたやすい。
仮面の内側で、煬介は目を細めた。
西田邸に伺ったものの、結局友人に会うことは出来なかった。
少女はため息をつきながら、家路を進む。一緒に訪問に行った級友とは道が違うので途中で別れた。今は表参道をとぼとぼ歩いている。このあたりは大きい通りだから人もたくさん行き交うとはいえ、もう街灯が点く時間帯だ。
近頃、帝都の治安もめっきり悪くなってきている。件の恐慌のあおりでたくさんの人が職を失い、東北の方では酷い不作でその日の食べ物にも困っているらしいと父が言っていた。少女の父は造船業を一代でのし上がった所謂“成金”であるが、その工場も不況を受けて泣く泣く、従業員の首を切っているという。
家が裕福である少女は女学校にこそ通えているが、これからのことを考えると、手に職をつけるべきなのだろうか、と思ってしまう。勿論親は反対しているが、その言うとおり、卒業と同時に易々と結婚してしまうことこそ、少女にとっては最も避けたい道であった。少女には軍人の許嫁がいる。彼はとてもよくしてくれているが、それは婚約者やその家族に対する義理立てのようなもので、恋人の持つ恋情は感じない。そして少女も然りだ。少女には、ずっと心に残している想いがたった一つあった。
「こらッ、そこの乞食! そんなところで座り込むんじゃない!」
「ヒエッ」
何事かと目をやると、警棒を持った警察官が、街灯にしがみつくようにしゃがみこんでいる老婆を怒鳴りつけていた。哀れ、乞食の老婆は身を竦ませて立てない様子だ。
「わしゃ、孫に会いに来ただけじゃ。このあたりに下宿を取っておってのう、しかし歩くのにくたびれて……」
「えい、だったらその場所にさっさと行かんか」
「ひゃあ」
尻を蹴とばされて老婆が飛び上がる。苛苛しているらしい警官に、老婆はよろよろ、立ち上がりながら唇を尖らせた。
「なあにを、そんなにカリカリしておられるんじゃ。腹でも減っとるんじゃろうか? なら、糒が……」
「いらん! ちょ、こら、どこから出してる! いらんと言うに!」
老婆が差し出した手をはたき落した警官に、彼女はやれやれと眉をひそめた。
「東京はおまわりも怖いのう」
「……いいか、田舎者のようだから教えておいてやる。この辺りは最近、物騒なのだ。やれテロか、ストライキか知らないけれども、連中、血気盛んに周りも見ずにやるものだから……つい先日の暴動なんぞ、死傷者も出ているのだ。だから婆さんとはいえ、女の独り歩きはよしなさい」
「あんた、怖いのか親切なのか分からんねえ」
「まだ言うかっ」
「あ、あの」
いい加減見かねて、少女は声をかけた。
「おばあさん、どちらまでいらっしゃるんでしょうか? 私、このあたりに住んでいるので、ご案内できると思うんです」
「……おお?」
老婆は突如乱入してきた少女にしばし呆然としていたが、やがて警官を向いた。彼の方は、少女の顔を見て居住まいを正す。
「これは、日野のお嬢さん。どうも」
「お疲れ様です。こちらの方、ご案内しても?」
「ええ。では、本官はこれで」
あっさりと巡回に戻っていった警官に、老婆は目をぱちくりとした。
「お嬢さんはどういったお方かね」
「母方の祖父が、警察の偉いお役職だったんです。それだけ、あとは家の近くに交番がありますけど」
少女は老婆の目線に屈みこむと、重ねて尋ねた。
「それで、どちらに向かわれるおつもりだったんでしょう?」
にっこりと微笑むと、老婆はきょとんとしたのち、欠けた歯を見せて笑った。
「ふー、やれやれ……」
ずっと腰を屈めっぱなしで疲れてしまった。下宿の狭い四畳半に足を投げ出して、男に戻った煬介は深いため息をつく。
警官に絡んで情報を得ようとしたのだが、思わぬ邪魔が入ってしまった。名乗らなかったが、あのセーラー服の女学生……美人だったなあ、とどうでもいいことが浮かぶ。疲れている。
煬介は痛む頭で、今日あったことを反芻していた。
路地裏で襲われた直後のことである。
三人が屍となったことを確認し、ミキは頭上を見上げた。
四人目がいたはずのそこは沈黙していた。手裏剣は喉をついたはずだ。滴る血の跡が、それを示している。
姿の見えた三人は、体術にかけてはろくろく訓練も受けていないようなチンピラだ。おそらくこの場所にミキを引き込むこと、それだけが与えられた使命だったに違いない。
「あっさりしたものだな」
拍手の乾いた音。
袋小路の塀の向こうからだ。響いた声には聞き覚えがあった。
「……もっともこんな破落戸じゃ、おめえは止められねえか」
「こんな老体に何の御用かえ?」
婆の声で返すと、相手は失笑した。
「わしとおまえの仲じゃねえか。演技はよせよ、煬介」
本名を呼ばれ、煬介はそれに従う。もっとも、姿かたちは老婆のままだが。
「久しいな、獅子崎のオジキよ」
「狗堂の坊主がもう一人前とはな、忍天狗もよっぽど人手不足と見える」
「あんたらのせいじゃねえのか。裏切ったんだろ」
「違う」
煬介の返しに、声―――獅子崎は鋭く否定する。
しかし、続いた声は平静を装っていた。
「もっとも……今わしが何か言おうとも、負け犬の遠吠えに過ぎぬだろうがな」
「どういうことだ? 何故、始末役のあんたが忍天狗を裏切れる」
獅子崎にも煬介同様、人質がいるはずだ。獅子崎は乾いた笑いを上げた。
「人間ってのはな、時々どうでもよくなるんだよ……そして一番大事なものが無くなった時、その時が一番強いんだ」
「あんたの人質―――死んだのか」
「わしの事ァいい。おまえのことだ」
「俺?」
「おめえも、こっち側にこねえか」
「断る」
獅子崎の提案を、煬介は一蹴した。
「おいおい、話ぐらい聞けよ」
「勧誘話ってのは大抵底が割れてんだ。俺がそっちにいったところで、俺に何の利があるって―――」
「お前の姉貴は東京にいるぞ」
続いた言葉に、煬介は思わず息を呑んだ。
するとその気配に気づいた様子で、獅子崎が笑い声を漏らす。
「ほらな、聞いた方が良いだろ」
「なんで、あんたが姉貴のことを」
「そんなことァどうでもいいだろう。おまえがこっち側につくと決めたなら、姉貴の居場所も教えてやる。……まあ、下手な気は起こさねえこったな。既に知っているだろうが、こっちにいる始末役はわし一人じゃない」
「獅子崎のオジキ、あんた何を考えて……」
「忍天狗に喧嘩を売りたいと思ったら、いつでも来い。歓迎するぜ」
それきり、塀の向こうの気配は掻き消えてしまった。
監視役がついてきていることを予想して、その場の死体は放置してきたのだが、騒ぎになっていないところを見る限り思惑通り事は運んだようである。
ということは、獅子崎が煬介に裏切れと交渉してきたことも、忍天狗に伝わっているはずだ。
獅子崎自身もあっさり煬介が寝返るとは思っていないだろう、しかし―――
灯里の存在は、煬介にとってあまりに大きいものだ。でなければ、五年も人殺し商売をしていない。
忍天狗を信用して彼女の身柄を預けているものの、利用価値なしとみなした獅子崎たちが彼女を本気で殺そうとすれば、並大抵の忍天狗では防げないだろう。
そして何より問題となるのは、忍天狗側が、煬介を完全には信用していないという点だ。
煬介に監視役がついているのが最たる証拠だろう。恐らく東京に入ってからだが。獅子崎たちが、煬介に何らかの接近をしてくると予見しての監視だろうが、煬介の寝返りに警戒してのものともとれる。
忍天狗の状況は夜彦の言うとおり、かなり逼迫しているのだろう。人質の灯里がいるのに、煬介を東京に送ったことからそれは明らかだ。もしかすると、煬介以外に現役の始末役はもうほとんど残っていないのかもしれない―――殺されるか、裏切るかして。なら、忍天狗にとっても煬介の動向は注視せねばならぬもののはずだ。
煬介の選択肢は二つ。獅子崎側に寝返るか、寝返らないかだ。非常に端的だが、決断するにはまだ圧倒的に情報が少ない。
(まずは、オジキたちが何を目的に動いているかを知らねば。連絡役やオジキを通せば情報が偏る、可能なかぎり中立な情報が必要だ)
肉食の獣のように、のそりと煬介は動き出した。
(ま、先に腹ごしらえだけどな)
例の警官からちょろまかした財布を手慰み、彼は口角を上げた。