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1.1932 東京殺人奇談・前篇
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五年の月日は、煬介の生活を、全てを大きく変えてしまった。
そのほとんどを忍天狗としての修業―――諜報、変装、そしてもちろん武の訓練も―――に費やして、ほんの半年前に一人前として認められ、煬介は独り立ちをした。すなわち正式に、始末役目の狗堂を襲名したのである。以来、まるで巡業のように日本各地を転々とする日々が続いたが、ようやく帝都に管轄が定められたというわけだ。
それにしても―――汽車に揺られながら、煬介は考える。前の東京府管轄の始末役である獅子崎という男は、煬介の師の一人でもあった。すなわち、始末役の何たるかを彼に教えた先生である。連絡役である夜彦は多くを語らず、また結局汽車の日時になっても現れず仕舞いだったが、果たして獅子崎を殺るような相手が今回の敵なのだろうか?
「わあ、おうちがいっぱい!」
四人掛け座席の、煬介の正面に座していた男の子が窓に張り付いて歓声を上げる。それを窘めた保護者らしい老人と目があい、会釈してくる。煬介は微笑んだ。
「東京は初めてで?」
「ええ、この子は」
「実は自分もなんですよ。だから、その子のはしゃぎっぷりはよく分かる」
少年と同じように窓の外を眺めると、背の高い建物が所狭しと並んでいる様子が見えた。時折覗く広い道路には車が行き交い、着飾った人たちが闊歩している。さすがは帝国首都、ここまで大きな街を、煬介は見たことがない。
「これ、いい加減にせぬか」
座席に上って飛び跳ねていた少年を、老人はきちんと座らせた。少年は煬介の視線に気づくと、ちらりと舌を出す。煬介は笑って応じた。
「坊主、じいちゃんは大事にしろよ」
言ってやると、少年はきょとんとした。
「ねえ、御存じ? 西田さん、行方不明なのですって」
授業も終わり、女学校の校門をくぐりながら口元を押さえながら寄ってくる級友に、少女は曖昧な笑みを返した。
「どなたが仰ったの、それ」
「あら、学校中に広まっている噂のようよ。だってもう一週間もお休みなんですもの、お見舞いに行かれた方も、西田さんにお会いできなかったんですって」
級友は断髪したおかっぱの髪を揺らして、足早の少女を追いかけてくる。一方で、少女の方は長い艶やかな髪を翻すように振り返った。
「いやあね、それだけでどうして行方不明と決めつけるのかしら。ひょっとすると、深刻なご病気なのかもしれないのに」
「それがね、昨晩、西田さんを見たって子がいるのよ」
級友は世間話をするおばさんのように手をくねらせた。華族の血を引くお嬢さんにしては、庶民的な素振りだ。声を潜め、彼女はこう続ける。
「夜半に公園を抜けて、怪しい男たちに連れられてどこかに行くのが見えたそうよ。街灯に照らされるその横顔は、それはまあ真っ白で……」
「あら、どうしてその目撃者は、夜半に公園なんてところにいたのかしら」
少女がそう返すと、校門を抜けたところで級友は頬を染めた。
「そんなの、決まっているじゃないの……女学生が夜に逢瀬を重ねるといったら、答えは一つよ」
「先生に知れたら懲罰ものよ」
驚いて言うと、級友はむっとしたようだった。
「ロマンティックというものが分かっていないのね。まあ……日野さんはあの美形な婚約者がいらっしゃるから、興味が湧かないのかもしれませんけど」
「そういうつもりじゃ……」
だいたい、婚約者は関係ない話だ。
しかし級友は自分で口に出しておきながらさらに腹が立った様子で、つんと澄ましている。
「ねえ、でも西田さんは心配だわ。お見舞いに行きましょう?」
ためしに、少女は級友にそう呼びかける。級友はちらと少女を一瞥した。
「そうね……たしかに、噂は自分で確かめるべきよね」
「噂というか。西田さんのご加減だけでも、知りたいわ」
少女が言うと、級友はうんうんと頷いた。
「それじゃ、早速今から西田さんのお宅にお伺いしましょうか」
「ええ! ……あっ」
そこで少女は、この後の予定を思い出した。
確か今日は、婚約者が家にやってくる日だった。
「どうかした?」
級友の問いに、少女は思い出した内容をぶんぶんと首を振って打ち消す。
「何でもないわ」
―――忘れていたと言えばいいのだ。
憂鬱なことを頭から振り払い、少女は明るく微笑んだ。
煬介が駅に着くと早速、聞き馴染んだ声が降った。
「火に入る虫の言伝に」
「きっちり二週間放置しやがって」
コンコースを進みながら煬介は憎まれ口を叩くが、涼しい声は動じない。
「そのわりに、綺麗な身なりですね」
「あってめえ、俺が一文無しなのを知ってたな! ……親切な漁師一家に居候させてもらったんだよ。それはそうと、こっちはどういう塩梅だい」
「よくはありませんね。……いえ、正直に言いましょう。悪いです」
夜彦の声はきっぱり言い切った。煬介は眉を上げる。
「追い込みは帝都内です。それ以上範囲を狭められなかったどころか、既に複数犠牲者が出ていて、包囲網そのものが瓦解しかかっています」
「何だそりゃ。敵は複数なのか?」
「忍天狗は三人ですね。外部から仲間を得ている可能性もありますが」
駅の入り口を出たところで、憲兵服を見つけた。夜彦は煬介を確認すると肩までの外套から紙を出す。すれ違いざま、煬介はそれを受け取った。
包囲網が帝都内ということは、今、ここででも敵がこちらを観察している可能性がある。味方との接触も、可能な限り避けるべきなのだ。
「始末対象の目録です。ではまた」
道路を渡り振り返ると、丁度目の前を洒落た車が走っていった。そのあとに夜彦の姿はない。
相変わらず愛想もそっけもないやつだ。進行方向に向き直った煬介は、目録の中身を確認する。
そこにあった名前に、瞠目する。
「おい、これ―――」
思わずまた背後を見るが、勿論そこに夜彦の姿はない。煬介は舌打ちした。怒りにまかせて手の内で紙を丸めて口に放り込む。通行人が驚いていたが、知ったこっちゃない。
目録の一番上には、獅子崎の名があった。