序[2/2]
序.1932 冬の海
[序-2/2]
船底に戻った三重子は、雅之に命じられたとおりに行動した。出来ることならもう一度雅之に会っておきたかったが、見える限りに彼の姿はなかった。人買いに時間を訊くと、約束の時刻までわずかに迫っていた。
手水に行くと言って人買いの隣から立ち上がる。しかし、その手を人買いが取った。
「さっきから何度もどこかに行ってるが、何をしている?」
「わ……わら、気分が……」
青い顔で口元を押さえる三重子を、人買いは船酔いと思ったらしかった。手が離される。
甲板に上っていきながら、三重子は人買いに握られた手首を払った。いやだ。これもいやだ。
船員の目を盗みながら、雅之に指定された複雑な道を進んでいく。もう既に、客が立ち入れる場所ではないのは、船に詳しくない三重子にも分かっていた。
「ここ……かしら」
動力の音が非常に近い。屋外ではあるが、一等、二等客室のある部分の裏手、三等客室やボイラー室の真上あたりに三重子はいた。三重子がここでするべきは、仕掛けられている爆弾を爆発させることだけ。その起動レバーを、三重子が引くだけ。
懐に隠しておいた、レバーの先を取り出す。これが上手く一致するところに嵌めてやって、捻るだけだ。
三重子はそれを探そうと膝をついた。
「おっと、そこまでな」
かかった軽い男の声に、はっと息を呑む。
振り返ると、ランタンを持った男がいつの間にかそこに立っていた。男と言っても―――随分若い。三重子とあまり歳は変わらない少年だ。ずぶ濡れの長い髪に女物の着物から女性のように見えるが、態度や声がそれとは違う。
「爆弾への案内、ご苦労さん。もう船底に戻った方がいいよ」
少年は髪で半分隠れた顔を、にいと歪めた。
「それを爆発させたら、客室全部諸共あんたも一緒に吹き飛ぶぜ」
「え……」
「爆弾なんか用意する周到なやつが、なんであんたをわざわざ使うのかも考えなかったのか? あんたを生贄にして逃げおおせるつもりだったのさ」
「そ、んな、じゃあ、雅之さんは……」
「まあ、逃げられるはずもなく」
少年は自分の後ろの柵に繋がった紐を引いた。何かがぶら下がっている。少年が近づけた灯りに照らされたものを見て、三重子はひっと息を呑んだ。
それは、雅之だった。顔を赤黒く腫らしている。すぐ目を逸らせたが、どうやら柵で首を吊られているようだ。
少年はゆっくりと片手を差し出す。
「諦めな。さ、そいつをこっちに寄越すんだ」
「わ、わらは……どうなんだ」
「どうにもしねえ。船に乗る前と、何も変わらない」
「やだ!」
反射的に、三重子は叫んだ。叫んで、レバーを抱きしめる。これだけが最後の頼りであるように思えた。
「売られるのはやだ……恐ろしい、やだ……」
「じゃ、爆発させて死ねばいい。二つに一つだ」
「助けて!」
少年に向かって三重子は絶叫する。何かがふつと切れたようだった。
「なして、わらが……わらさ、嫌だっただけだ。それが……ただ……」
「気の毒だとは思うがよ。ま、自業自得だ。婆さんを突き落したのは言い訳のしようがないしな?」
三重子は目を見開いた。まさか、見られていたのか―――
否、少年は三重子を覗き込むと、左半分の顔で嗤った。
「おかげで死ぬかと思ったさね」
少年のものでない、酷くしゃがれたその声に、三重子はその場にへたり込む。
間違いなく、ミキの声だった。
少年は三重子が落としたレバーの先を拾い上げると、肩を竦めた。
「あんたのおかげで爆弾事件は未遂になった。ま、それでお相子としようや」
次の日の朝、蒸気船は無事銚子港に到着した。
「結局、このまま降りちまって構わねえのかね?」
下船していく人を甲板から見下ろしながら、少年は後ろを振り返らずに尋ねた。そこに人影はないが、声だけが風に混じって応じる。
「いちいち、下船する三等の客の顔を確認したりしませんよ」
「それもそうだ」
海に落ちた時、奇跡的に仲間に見つけてもらって助かったはいいが、変装小道具は軒並み流れてしまった。下船した町で、またいろいろと買い込まねばならない。
どうにも、潮風がべたついて仕方がない。髪に隠れた右目をしぱしぱやると、少年はひらりと甲板から船の裏手へ飛び降りた。着地した先にいたのは憲兵服を着た陰気な男。これを、と彼は藻のついた何かを手渡してくる。
それは、面だった。ミキに扮するため使ったものだが、小細工が流れ落ちて地が出てしまっている。少年はぱっと表情を明るくした。
「おお、ありがとう。というかよく拾えたな」
「あなたを海から回収するとき、たまたま船体に引っかかっていたので預かっていました。大切な物で?」
「先代の形見だよ」
鼻の伸びたいかつい顔に、額には小さなこぶが二つついている。鬼天狗の面だ。
憲兵服の男は特に感慨もなさそうに話題を変えた。
「ところで、狗堂どの」
乗客に混じって下船しながら、会話は続く。
何となく、嫌な予感がした。
「おい、着いたばかりですみませんが次の仕事です、とか言うんじゃなかろうな」
「よく分かりましたね」
少年は顔をしかめた。
今回の“おつとめ”は、過激派たちに目の敵にされている、とある議員の護衛から派生したものだった。お忍びで彼が青森へ慰問に行った帰りの船に、出航間際で、暗殺者が乗っているかもしれないとの情報が入ったのである。狙われているのだからそもそも遠出するなと思うが、行ってしまった帰りなのだから仕方ない。それも暗殺者は忍天狗上がりだというから、たまたま別任務で八戸にいた始末役の少年が同乗することになった―――乗客のどれが暗殺者かも分からずにだ。
全くの手さぐりだったが、敵が自分から尻尾を出してくれたおかげでなんとかなった。少年にしてみれば、とばっちりで危うく死ぬところだったのである。
「夜の字、当てずっぽうで船に乗せたわりに手が早いじゃねえか。さては、こっちが本題だったな?」
憲兵服の男―――猿國夜彦は帽子に手をやり、涼やかに応じた。
「狗堂どの、我々の仕事に詮索は無用ですよ」
「死ぬ前に聞かされてりゃな、死ななくて済む話もあるんだ。今回みてえにな」
「あなた、死ななかったではありませんか」
「結果論だろ!」
少年は吼える―――も、無駄だと思って声を潜めた。どのみち忍び言葉である、港に人は多いが、忍天狗同士のこの会話は、彼らには全く聞こえていない。
「それで? 今度はどんな厄介事だ」
「おや、前向きですね」
「せざるをえねえだろうがよ……分かって言ってやがるのか」
「ええと、これを」
睨む少年を避けて、夜彦は一枚の切符を差し出した。汽車の物である。
「帝都行き?」
「狗堂どのの所属が帝都に定まりました。東京へ行ってください」
夜彦の言葉に、少年は不審を覚える。
「東京府管轄の始末役は、獅子崎のおやっさんだったろ。どうしたんだ?」
「まあ……詳しい話は着いてからということで。私は別件の用がありますから、これで失礼します」
「あ、ちょっ」
人ごみに紛れて、夜彦は去っていってしまった。
雑踏に一人残された少年は、もう一度切符に目を落とし、呻いた。
出発日は二週間後、とある。
財布ごと海に落ちたので、少年は今文字通り身一つだ。変装用のぼろぼろの着物はさすがに着替えて普通の男物の袴をはいているものの、何か路銀に代わるものを持っているわけでもない。
「なんでえ、この上乞食のふりでもしろってのか……」
頬を引きつらせると、少年―――狗堂煬介は肩を落とした。