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1.1932 東京殺人奇談・前篇
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さて、ミキは夜彦を連れて、再び赤坂御所の堀沿いを歩いていた。
「たしか、このあたりと……」
街灯はあって明るいが、延々と変哲もない塀の風景が続くため、橋を頼りに探すしかない。
「おミキさん、あれを」
長身の夜彦が視線の先に見つけたものは、道の上、行く手を阻むような黒い影であった。
「よくも騙くらかしてくれたものだ」
獅子崎の声ではなかったが、その一味のものであるのは容易に知れた。ミキは挑発するように鼻で笑う。
「はて、何のことかえ」
「戯言を!」
気配が増える。二つ、三つ。隠し切れぬ殺気の渦が、夜闇に紛れることなくはっきりと己を主張する。
馬鹿が。
「のこのこと、戻ってきよったのが運の尽きよ!」
それはこちらの台詞だ―――とはミキは口にしない。
代わりに、下段から振り上げられた刀の軌道をなぞるように右手を差し出し、相手の脇の下に潜り込む。着物の襟首と袷を取ると、そのまま肩で押し倒した。敵は後頭部を砂利道に強打し泡を吹く。
その喉を踏み抜いてとどめを刺すと、距離を測りかねていたらしい刀を構える二人目に向かって地を蹴った。どこからか発砲音。だが、この薄明かりとミキの速度では、命中させられまい。二人目に追いつくと、また先と同じように懐に飛び込んだ―――いくらか一人目より若く俊敏だったこの二人目は、倒される際に刀を諦め、両手で地をついた。
ぱん、ぱん、と銃声。起きあがったミキは後ろ手に落ちていた刀を拾う。脚を地面に投げ出した姿勢のまま―――否、足で敵を押さえつけた形のまま。
まっすぐその右の大腿部を貫く。苦悶に歪む覆面から覗く目と、くぐもった声。地面に釘付けとなった二人目に刀を刺したままに、三人目を探す。
しかし、場は沈黙していた。
警戒しつつも不思議がっていると、乾いた音が辺りに響いた。耳を澄ませれば銃声ではなく、拍手の音だ。
「お見事」
近づいてきたのは夜彦だった。
「おめー今まで何処にいたんだ?」
半眼で尋ねると、夜彦はすぐそばの崖の下を指さした。池のほとりだ。
「隠れていましたが」
「一緒に戦えよ……」
「あなたの邪魔をしない方がいいと判断しましたので」
夜彦は一人目の死体を検分しに行く。それを眺めながらミキは呟いた。
「もう一人いたが、そいつは何処に行ったかね?」
「獅子崎のところに、報告に戻ったんでしょうね」
「追わなくても?」
「問題ありません。既に手配はしております」
そんな間があったかと思うが、夜彦が言うのだから大丈夫なのだろう。連絡役は諜報部隊の筆頭者だ。そういう面では、当然だがミキは夜彦を全面的に信用している。
「女の死体はどこに?」
「ここじゃねえ。もっと向こうの……線路が通っている方だ」
「それはまた、人目に付きそうなところにやってくれましたね。もう誰かに見つかっているかもしれませんよ」
その割に人事のような口調だ。ミキは嗄れた声で応じた。
「わしに文句をお言いでないよ」
淡々と会話を進める間に、ミキの身体の下にいる刺客の顔から血の気がどんどん失せていく。固定された右大腿部から溢れた血は、辺りを鉄の臭いに染めていた。
「死にたいか?」
ミキは尋ねた。刺客は起き上がる力すらもうない様子で、ただ身じろぎをしただけだった。
ミキの刀は太い血管を貫いている。出血死に至るのは時間の問題だった。しかし、やがて意識が無くなるまで苦しみを味わうことになるのは避けられない。意外にも、こいつは先の女のように自害用の薬を持っていないらしい。時折もがくように動く胴体の上に、ミキは座り込んでいる。
「質問に答えるなら、とどめをくれてやっても―――」
そこに、きらりと光る何かがミキの目に射した。
鏡の反射光だ。それ以上の何かを判断するより早く、警告が飛ぶ。
「ミキさん!」
ミキは舌打ちひとつ身を引いた―――その反射速度が速いといっても、限界はある。
銃声と同時に、破裂するように割れる音。顔を覆うように広がった激痛に、声をあげそうになって―――するべき行動をとる。
手に持っていた刀を引き抜くと、地を蹴った。
暗闇の底、右目がそいつを捉えていた。
転がるようにして崖を下り、敵が自分を探しているうちに肉薄すると、刀で首の骨を叩き折る。
「っ―――いらん手間を、かけさせ、やがって」
「大丈夫ですか?」
「いってえー……」
全力疾走のおかげで息が弾んでいる。いや、それだけのせいではないだろうが―――顔に手をやると、ぬるぬるとした血の感覚があった。つけていた面は砕けたらしい、左半分だけになっていたそれを外すと、煬介は右瞼に指を潜らせる。
「怪我は―――」
夜彦のいる道の上にまで戻ると、彼はぎょっとしたように言葉を切った。街灯の明かりの端だけが及ぶ立ち位置の煬介は、まるで右目を自らえぐりだしているかのように見えるだろう。
“それ”に傷がついていないことを確認し、煬介は無造作に、それを元あるべき眼窩に戻した。
「……その目は?」
「義眼だ」
低く答えると、続いて顔の損傷部を探す。痛みと出血の割に傷に広がりはない。視界もはっきりしている。細かい傷はいくつもあるが、出血は右目と耳の間、縦に走った傷が大元のようだ。
「そっちはどうなんだ」
夜彦の足元で、鮮血に染まった足を投げ出して横たわる刺客を一瞥する。
「沈黙しましたよ」
刀を抜いたせいで失血が早まったのか、浅く速かった呼吸が収まりつつある。昏睡に入ったらしい。もう、言葉を交わすのは無理だろう。
「結局手がかりなしか……」
「まあ、標的は減りましたから大収穫ですよ。どのみち情報を抜くのは我々の仕事ではありません」
「そうだな」
現れた刺客は全員を倒した。これ以上ここにとどまる理由もあるまいと、踵を返そうとしたところに夜彦が声をかけてくる。
「傷の手当は要りませんか?」
「そんなに大したもんじゃねえよ」
疼くような痛みはまだ続いているが、出血は収まりつつある。片手をひらひらと振って、煬介は今度こそ夜彦に背を向けた。
「報告は頼んだ」
「了解しました」
とんだ夜になったもんだと、煬介は血塊まじりの鼻をかんだ。
人間、多少の痛みなど気にしなくても良いように出来ている。
怪我を負ったことよりも、鬼天狗の面を失った方が、煬介にとっては痛手であった―――他の変装道具はどうとでもなっても、面だけは作り直すのが骨だった。金の問題もあるし、ミキ婆さんの顔を復元しても、微妙なずれが生じよう。
もう一つの感傷的な理由に関しては、煬介は忘れることにした。執着は判断を鈍らせる。あったとして、何の美徳にもならない―――今は亡い、祖父の形見などと。
未明に訪れた夜彦の報告によれば、殺害した彼らは行方をくらませた監視役であった。つまり監視役すら忍天狗を裏切っていたのだ。どうりで事がこちらの不利に運ぶわけである。夜彦は、御山により忠実な監視役を呼び寄せると言っていたが、これで獅子崎を追いつめる準備が進めばよいのだが。
そんなことをぼんやり考えながら、仮眠を取った煬介は下宿から出、既に日も高くなった帝都の通りをぶらぶらと歩いていた。
紫に関しては何の話も出なかったから、多分あの後彼女は無事に、家へ送り届けられたのだろう。今の煬介にとって、幼なじみの少女はその程度だった。思い出を反芻したり懐かしんだりといった、心の動きは不思議と出なかったからだ。
唐突に、目の前でタクシーが止まる。道を渡ろうとしていた煬介は非難の心地でそれを見た。車の後部座席の戸が開く。現れたハンチング帽の男に、煬介は目を剥いた。
「よう、やってくれたじゃねえか」
「お、オジキッ」
慌てて距離を取ろうとしたが、腕を捕まれ、逆に車に引きずりこまれる。タクシーは戸を閉める間も惜しいと言わんばかりに急発進した。
「おっと、途中下車はお断りだぜ」
首筋に添えられた刃物に、煬介は思わず苦笑した。
「白昼堂々、よくやるなあ……」
運転手も、もう一人後部座席に座っている乗客も、グルなんだろう。溜め息一つ、煬介は言いなりに、後部座席の真ん中、二人に挟まれるように移動させられる。ついでに、着物にしこんだあらゆる道具や凶器を抜かれる。これで煬介は丸腰だ。
「おめえは都会の手口にゃ慣れてねえな。こうあっさり捕まるたァ、草葉の陰で狗堂のじいさんが泣いてるぜ」
そういってハンチング帽を脱いだ男―――獅子崎はにやりと笑った。
「余計なお世話だ」
「それで。何から訊かれたい?」
「まずは昨日の感想から」
平坦に皮肉を答えると、獅子崎は顔をしかめた。
「そいつは俺が答えるもんじゃねえのか? ……まあいい、おまえとの問答は狐に化かされたい馬鹿がするもんだって、昨日でよおく分かったからな―――単刀直入に聞くぞ、日野のお嬢さんは何処にやった?」
「自宅じゃねえのか?」
訊き返すと、獅子崎は肩を竦めた。
「昨晩は帰っていない」
なるほど―――夜彦が紫の話題を出さなかった理由を、煬介は理解した。
こうやって、予期しないところから獅子崎たちに情報が漏れるのを防ぐためだ。
「俺が知るわきゃねえだろう」
「それで通じると思ってんのか?」
獅子崎は、煬介の顔のガーゼを乱暴に剥がした。痛みに顔を歪ませる煬介に構わず、塞がりきらぬ傷口に刃を立てる。
「……言おうが言うまいが殺されることが分かっていて、そう簡単に話すかよ。……現役引いてしばらく経ってるんだ、随分ヤキが回ってんぜ、オジキよ」
「……言いたいことはそれだけか?」
「でっ」
顔の傷口に刃が突き刺さる。ただでさえ皮膚の薄いところだ、涙目になりながら獅子崎に顔を向けていた煬介は、そこでにいと―――実際にはぐいと―――口角を上げた。
「言いたいことならまだあるぜ」
―――尻の下敷きにしていた右手を引き抜く。
「俺の“獲物”くらい知っときな!」
煬介は振り返りもせず、獅子崎側と逆に座す、後部座席のもう一人の男の喉に、指を突き立てた。下顎を掴み上げる。くぐもる息。
獅子崎のナイフから身を引き、そのままぐるりと男の体と自身を入れ替えるように、狭い車内をドア側に移動すると、乱暴にそれを開いた。
「てめえ―――」
「じゃ、また会おうぜ」
気軽に左手で手を振り、男の喉から右手を引き抜いて、煬介は車から身を投げる。
あちこちをコールタールで舗装された道路にぶつけるようにして何回転も転がった。痛む身体に鞭打って、対向車が走ってくるより早く起き上がると、脱兎のごとく歩道を駆け出す。後ろを振り返る余裕はない。
腕組む男女の脇をすり抜け、使いの小僧を追い抜いて、橋を渡り、人ごみを走り抜ける。追ってくる気配はなかったが、とにかく獅子崎たちの見えぬところまで行かねばならない。今度こそ捲かねば。
無我夢中で駆け込んだ喫茶店の戸を背に、これを隔てた道に走る足音がないのを確認して、煬介はようやく息をついた。
「あれっ、奇遇だね」
かかった声にどきんと胸が鳴った。眼を見開いてそちらに向けると、ソファ席から身を乗り出し、陽気に手を振る日下部の姿を見つける。煬介は全身から力が抜けるのを感じた。
「こんなところで、狗堂君に会うなんて。何をしてたんだい?」
「ちょっとな……」
そちらに歩み寄りながら、煬介は今更のように全身を苛む痛みに顔をしかめた。思考力が徐々に戻ってくる。ぼんやり、煬介は紫の事を思い出した―――ああ、そういえば彼女の身柄は、実家でなく婚約者に渡したのだった。因幡とかいったか、彼の家に身を寄せていてもおかしくはなかったな―――そこまで考えて、日下部の席に辿りつく。彼は、眼鏡の奥の真ん丸にした目でじろじろと煬介を検分している。
「随分、薄汚れているじゃあないか」
「貧乏生活なもんでね」
適当に返事をしながら埃を払うと、追加の注文を取りに来た店の女中が嫌そうな顔をした。愛想笑いをして、煬介は日下部の正面のソファに腰を下ろすと、とりあえずコーヒーを注文する。昨晩から何も食ってないので空腹は限界だったが、今ここで物を胃に入れたら、多分吐く。
女中が持ってきたナプキンでさりげなく右の顔を押さえていると、日下部は「ところで」と、好奇心まるだしの顔で新聞を広げた。
「これ、今朝のやつなんだけどね。きみ、これを見たかい?」
「うん?」
日下部が広げた一面にはこうあった―――“奇奇怪怪なる自殺か殺人か、都電線路に女の首無し轢死体”。
頬を引きつらせる煬介。顔を紅潮させた日下部は、それにも気づかず興奮したように言葉を繰った。
「全く面白いもんだと思わないかい。や、人死を喜んでいるわけではけしてないのだがね。今度は首無しだよ! ……記事によれば警察は、事故のせいで首がお堀に落ちてしまったと分析しているらしいが、人間の首がそんな綺麗に飛んでいくものかね。この前の女学生の件といい、これも猟奇殺人の一つに違いないと僕ァ睨んでいるんだが! きみはどう思う? ……おや、顔のところ、どうしたんだい? 何だか怪我をしているようだけど」
卓に身を乗り出し、唾を飛ばしていた日下部が首を傾ぐ。煬介はナプキンが赤く染まりつつあるのを見てとると、笑んだ。呟く。
「よくあることさ」
それはそれは、疲れた顔で。
[一章了]
一章了です。次回から二章に入ります。