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1.1932 東京殺人奇談・前篇
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「ん……」
紫は体がふわふわと浮いていることに気づいて、目を覚ました。
目の前にあったのは、見覚えのない背中と、尾っぽのような黒い束ね髪。負ぶられているのだ。驚いてあっと声を上げると、紫を背負っている彼は後ろを振り返った。
「ああ、気が付いたか」
「あ、あなた……」
それは狗堂煬介だった。ひどく仏頂面をしている。
「どうしてあなたがいるの!?」
「ん、いや……あの婆さんとは顔見知りでね。あんたがはた迷惑なことに寝ちまったところを、俺が通りかかったのさ。婆さん一人じゃ運べねえからっつってね」
本当は返り血を浴びた着物では到底紫を運べそうになかったから変装を解いたのだが、紫はそんなことを知る由もない。
「おミキさんは?」
「婆さんの家に送ってったよ。今は、あんたんちまでの帰りだ」
きらきらと光る視界は、大きな通りの歩道であるようだった。薄暗いとはいえ、まだ車も人も行き交っている賑やかさである。途端に、紫は今の自分が恥ずかしくなってきた。なんせ、身内でも何でもない男性に負ぶわれているのである。
「ご、ごめんなさい、降ります、私」
「おう。そうしてくれると有難いね」
皮肉っぽく応じると、あっさり煬介は紫を降ろした。彼には荷物もあったらしく、大事そうに抱え直したそれに紫は余計申し訳なくなる。
「あの、私……寝ている間に、何かご迷惑を……」
「別に。涎垂らして、気持ち良さそーに寝てただけさ」
「う……」
煬介は機嫌が悪そうだ。そりゃ、道を歩いていたら突然娘を負ぶって送れと言われたら、誰だってそうなるに違いない。
そっぽを向いていた煬介は頭の後ろを掻くと、くると背を向けた。
「早く行こうぜ」
「は、はい」
早足な彼の後ろをついていきながら、そうだ、と紫はかんざしの事を思い出した。
「こ、これ!」
「ん?」
紫が後ろから差し出したそれに、彼は声だけで気づいたらしい。後ろに目玉でもついているのかと思う調子だった。
「ああ……コレ」
「大事なもの、だったらと思って。女物、でしょ、それ」
煬介は検分するようにそれをじろじろと眺めると、道端のゴミバケツにそれを放り込んだ。
「ええーっ!?」
「何だよ、俺がてめえのモンどう扱おうと、俺の勝手だろ」
「そ、それはそうだけど……」
人が返した物をその眼前で捨てるなんて。
衝撃を受けた紫が目を真ん丸にしていたせいか、煬介は顔をしかめると、少し間をあけてこんなことを言ってきた。
「俺の実家の近くに、花街があってね」
「は……はあ」
「そこの奴で、俺を追い回すのが趣味の嫌な女が居てね。そいつが俺の着物の裾に勝手に忍ばせていたらしい。だから、捨てられてせいせいした」
妙に説明口調で煬介は話を締めくくった。
「それはそれで……持ってきちゃって、ごめんなさい」
「いや、あんたがそんなこと知りようもねえしな」
そしてまた歩き出してしまう。
狭い歩道だ。隣に並んで歩くこともままならない。仕方なく列を作るようにして、煬介のうしろに並んでついていく。
「ねえ。あなたの故郷って、何処だったかしら」
煬介は答えない。
「私はねえ、伏雁村っていう田舎だったのよ。どこの府県だったかは覚えていないけれど……ね、あなたの田舎はどんなところだった? どんな人が近所にいたの? 遊びとか歌とか、ねえねえ」
懲りずに話しかけていると、やがて煬介がため息をついた気配がした。
「……そんなに大事な幼馴染だったのかい」
背を向けたまま、低い掠れた声で煬介が問うてくる。
紫はきょとんとした。彼が、自分から幼馴染の話題を振ってくるとは思わなかったからである。紫は慌てて「ええ」と答えると、続けた。
「もう十年も会っていない、手紙のやり取りも五年前から途切れてしまったわ。けれど、私は彼を忘れたことなんてなかった。いつかきっと会えると……そう夢見て、今日まで生きてきたんだもの」
煬介は振り返ると、紫がひどく稀有なものであるかのように、まじまじと見た。この驚きを、紫は理解していた。誰だって普通は、十年も会わない幼馴染を、そこまで大仰なものだと捉えないだろう。
「……あんたの幼馴染は、あんたが思うほど素敵に育ってるとは限らないよ」
煬介は迷った末にか、そんな言葉を返してきた。紫は曖昧に笑う。
「いいの。私が、勝手に会いたいって思ってるだけだから」
煬介は目を逸らした。
「とにかく、俺はあんたの幼馴染じゃない」
ぶっきらぼうに呟くと、ぷいと正面を向いてしまった彼に、紫は唇を尖らせた。
「紫お嬢さん!」
そこへ、車にクラクションを鳴らされながら、走ってくる影があった。紫はあっと声を上げると、煬介の背に隠れた。
「おい、おい」
男は近づくと、煬介の真正面で立ち止まった。長身のてっぺんについた整った顔が、紫を見下ろしている。軍制服を着ているので、彼は学校帰りに紫を探していたのだろうか。
「お嬢さん、ああ、良かった、無事で! ……きみは?」
突き刺さる不審の目に、煬介は飄々と答えた。
「俺は依頼を受けて、彼女を保護した者だ」
「依頼?」
「では、きみが狗堂君か……話は日野さんから聞いている。ありがとう、あとは私が彼女を引き取ろう」
「それはいいが、あんたは誰なんだ?」
率直に尋ねた煬介に、男は苦笑いした。
「これは失礼した。……私は因幡天翔。彼女の……紫さんの許嫁だ」
いつものように朗らかに微笑みながら、天翔は煬介に握手の手を差し出した。天翔がのっぽなせいで大人と子供くらい身長差がある二人に、紫は尋ねた。
「ねえ、“依頼”って何ですの?」
「あなたが行方不明になったから、心配したお父様があなたを見つけてくれと、この方に依頼されたんですよ」
驚く紫。煬介はどう見ても、紫と同い年か少し上くらいの少年だからだ。
その表情に気づいたのか、天翔は付け足す。
「探偵さんです」
「探偵!」
「……俺はもういいな」
いつの間にか紫を引きはがしていた煬介は、諸手を挙げて後ずさった。紫が何か言うより早く、天翔が頭を下げる。
「ありがとうございました」
「では、これで」
「あ、あの!」
去っていく煬介は振り返らなかった。その背に、紫は言葉を投げる。
「また、会いましょうね!」
返事はない。
さあ帰りましょう、と天翔が肩に手をかけてくる。諦めかけたその時、煬介の片手が上がった。
紫は嬉しかった。
彼が幼馴染でなかったとしても、これきりでないと、彼が約束してくれた気がした。
「お疲れ様でした」
「ん」
煬介が薄暗い裏路地に入ると、憲兵服の男が声をかけてきた。それと同時に、煬介は手に持っていた包みを彼に押し付けた。
「何です?」
「開けてみろ」
言われるがまま、風呂敷を広げた夜彦は、中身を確認して―――反射的に目を閉じた。細かく頷く。
「……なるほど。お疲れ様です」
煬介は意地悪く笑う。
「一人目だ」
―――包みにあったのは、女の生首だ。
当然、獅子崎の手先のものである。身体の方は、陸橋から線路に突き落としてきた。朝になれば都電が轢いてくれるだろう。あとは、通りがかりの無関係の場所に隠してきた変装道具を回収するだけである。
「そいつは忍天狗だろう?」
「ええ、標的の一人です」
「ふうん。それにしてはお粗末だったな」
「諜報役でしたからね。獅子崎に心酔していた者の一人でした」
「なるほどね……」
煬介がもっとも優先すべき使命は、獅子崎一派の掃討である。
そのためなら手段は選ばない。汚い手を使おうが、相手を騙そうが、構いはしない。利用できるものは利用し、確実に殺す。
そんなことに一々躊躇いはしない。一度殺すと決めてからには、煬介はそれを必ず遂行する。
本当は女を連れ帰り尋問にかけてから殺すつもりだったので、連中の居所を探るのが振り出しに戻ったのは痛手だったが。
「いや、待てよ」
「どうしました?」
「……夜の字。赤坂の堀の近く、調べたか?」
「赤坂御所の外縁のあたりですか? いえ、まだ」
「その首の持ち主な、都電の線路に放置してきた。死体を回収しに連中が来るかもしれねえ……」
夜彦は赤坂の方角と思しき向きを一瞥すると、答えた。
「彼女が殺されたことを、彼らはまだ知らないという可能性の方が高いのでは?」
「死体……もとい同志に対しての連中の動向を見張ってりゃ、奴らがどういう計画で誘拐を企んでいたか見えてくるぜ」
「それを、今から私に調べろと」
「早い方がいいだろ?」
夜彦は眉根を寄せた。明らかに嫌そうだ。
「運が悪けりゃ、死体が一体増えることになるかな」
獅子崎たちに鉢合わせたら、次に死ぬのは夜彦であろう。
「度胸試しにしてはスパイスが効き過ぎですよ……狗堂どの、ついて来て下さい」
「てめえの身くらい、てめえで守れ」
「あなたの後始末で殺されるなんて真っ平御免被ります。あなた流に言うなら……てめえの尻はてめえで拭いて下さい」
煬介は舌を出した。
「いいぜ、ただし変装してからな」
「待ちましょう」
がんとして一人で行く気はないと見せつけんばかりに、夜彦は壁に背を預ける。
煬介は嘆息すると、変装道具の隠し場所目指して駆け出した。