序[1/2]
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序.1932 冬の海
[序-1/2]
身を切るような寒さだ。曇天の下、揺れる船舶の上で、三重子は濁った海を見つめていた。このままここを飛び降りたら、どれくらい楽に死ねるだろう。
この船は三重子の故郷八戸を去り、銚子へ向かっていた。身売りの船である。冷害と、昭和に入ってすぐの恐慌に見舞われた農村では、もはや娘しか売るものがなかったのだ。三重子の家も同様である。小学校に行くこともできず働いていた三重子も、人買いに買われて船に乗っている。
甲板にはぽつりぽつりと、三重子と似たような粗末ななりをした、呆然と海を眺める少女たちの姿があった。彼女たちもこれから売られていくのだろう……三重子の背に、声がかかる。
「お嬢さん、こんなとこにおれば風邪を引くよ」
それは、腰の曲がった老婆だった。ぼろぼろの着物に薄い羽織をつけ、杖を頼りによろよろと立っている。歯の抜けた口が歪み、長く折れ曲がった鼻の下で笑みを形作った。
「あんたも、東北の村の出かね」
「はい……八戸です」
「何処へ行きなさる?」
「それは……分かりません」
何処へ行かされようとも、元より三重子に選ぶ権利などないのだ。
老婆は皺くちゃの口元を動かして喋った。
「若い身空で難儀じゃな。……いや何、年寄が独りでこんな船におっても暇なんじゃ。少し話し相手になってもらえんかな」
「え……ええ、いいですよ」
すし詰めの三等客室に戻ったところで、同業者としゃべくる人買いの隣の床に座して、黙り込むくらいだ。
老婆はミキと名乗った。田舎から出て、東京にいる息子のところに身を寄せるらしい。配偶者がこの秋口に亡くなって、どうにも生活していかれなくなったのだという。
「どこもかしこも冷害で稲がやられてちまって、まず食う飯がねえだろ。おまえさんのご実家も似たようなもんじゃないかい」
「うちには……下のきょうだいが五人いて。弟妹を食わすためには、おめが働きさ出るしかねえと両親に言われました」
「それで売られたってかい。……おまえさんの親御も気の毒にな。ほれ、これでも食わせ」
ミキが糒を差し出してくる。船に乗る前から何も口にしていなかった三重子は、喜んで食べた。干した飯でも、白米を口に運んだのはいつぶりだろう。
しかし間もなく雨が降ってきて、三重子はミキと共に船内に戻った。
隣の人と肩と肩が触れ合う。揺れる真っ暗な船底で、三重子は精一杯身を縮める。大きな揺れのせいで、三等客室にあった灯りが消えてしまったのだ。何も見えない闇の中、三重子に伸びる手がある。三重子は反射的に身を捩ったが、人が多すぎて逃げることがかなわない。三重子に触れた腕の主はこう言った。
「へへ、いいじゃねえか」
下卑た笑いに三重子はぞっとする。なんとか腕を引きはがそうとするも、その手は肩を、腰を、尻を掠めていく。おぞましい。三重子は体を震わせ、必死に言った。
「やめてください、やめて」
「おめ、人買いが連れてた娘だろ。売られてったさきじゃこういうことをするんだよ、今から馴らしとかなきゃな、へへ」
男の生ぬるい息が耳朶を打つ。その気味悪さと言葉の内容に、三重子は恐ろしさに動けなくなってしまった。両親は、どこかのお屋敷に女中として奉公しに行くのだと言っていた。なのに。
胸を鷲掴みにされ、三重子はか細い悲鳴を上げる。すると、絡みついていた腕が乱暴に離れていった。
「やめなさい、こんな娘さんに」
涼やかな声が響いて、暗闇が晴れた。ランタンに火が灯されたのだろう。
三重子は、着物姿の青年を目の前に見た。彼は三重子を庇うように背に回すと、毛深い腕を所在無げにして歯噛みしている男を睨んだ―――こいつが、三重子をまさぐっていた犯人らしい。
青年は三重子の腕を掴むと、立ち上がった。
「こっちに」
「えっ……あの」
連れ出されるがまま、甲板に出る。雨は小降りになっていた。
あらためて見る青年はすらりと背の伸びた、美青年だった。生娘の三重子は思わず紅潮する頬を押さえる。それくらい、整った顔だった。
「嫌な奴がいたもんだね。大丈夫かい?」
「え……あ、はい」
「きみ、八戸から乗ってきた子だよね」
「ええ……」
青年は破顔した。
「僕も八戸出身なんだ。函館から乗ったんだけどね、仕事帰りで」
三重子のことが何となく気になって、見ていたのだという。そのうちに雲行きが怪しくなってきたので、ついつい助けてしまったと。
「余計な世話だったかな」
「いえ! おかげで……助かりました」
三重子は頭を下げる。もっとも、男の腕の嫌な感触は抜けない。それにあの言葉も―――“売られた先でもこういうことをする”。
暗い顔になった三重子を、青年が覗き込んだ。
「顔色が悪いよ? ……もう少し、ここで風に当たっていった方がいい。では、僕は戻るから」
「あ、あの!」
思わず、三重子は声をかけてしまった。首を傾ぐ青年に、はにかみながら言う。
「良かったら……話し相手になってもらえませんか」
青年は顔をほころばせると、喜んで、と応じた。
仙馬雅之と名乗った青年との会話はよく弾んだ。しかしそのうちに、話題は三重子の身の上に移っていく。三重子はどんどん暗い顔になっていった。
「そうか……銚子へ行くんじゃあ、たしかに売られる先は酌婦か娼妓だろうな」
雅之の正直な言葉に、三重子は俯く。それらが春を売る職業であることを知らぬほど、三重子は子供ではない。
しかし、雅之は意を決したかのように頷くと、こう告げた。
「三重子さん。あんたに覚悟があるのなら、どうにかならないわけではない」
「えっ、本当ですか」
「ただし」
声を低くして、雅之は続けた。
「相当危ない橋だ。あんたが一緒に渡ってくれるなら、だが……」
目を覗きこまれ、三重子はまた顔を赤くする。
「雅之さん……」
「どうだい、三重子さん」
「わらに……出来ることでしたら」
「そうか」
雅之は顔をほころばせた。綺麗な笑みだった。
しかし、出てきた言葉に三重子は顔を強張らせる。
「簡単なことだ。三重子さんを買った人買いを殺せばいい」
「えっ……」
真っ青になった三重子の肩を、雅之は掴んだ。
「あいつがいなければ身売りをしなくても済む。何なら僕があんたの身を引き取ってもいい。どうだい、でもあいつがいる限り、あんたは銚子でさっきより酷い目に遭うんだぜ」
「でも人殺しなんて……」
躊躇う三重子に、雅之は頷いた。
「すぐにとは言わないよ。覚悟が出来たら……出来なきゃ、それでいい」
三重子は、弾かれたように雅之を振りほどくと、三等客室に戻る。
階段を降り、行き着いた地下の部屋の手前で、三重子は二の腕を捕まえられた。
「痛っ……」
「おいおい、こんな狭い船の中で、逃げられると思ったかよ」
そこにいたのは、先の無体を強いてきた男だった。三重子は震えあがる。触れられた場所から、腐っていくかのような感覚だった。
「いやっ!」
「おい、大人しく、しろっ!」
狭い廊下を、より暗いほうへ引いて行かれる。船の動力の音がうるさくて、三重子の悲鳴は誰にも聞こえていないようだった。
そのとき船が大きく揺れた。いきおい投げ出され、三重子を掴んでいた男の腕が離れる。その隙に、三重子は転がるように階段に向かった。
「待ちやがれ!」
そう叫んだものの、男は階段の上まで追っては来なかった。覗き込む雅之の顔が見えたからだろう。
「雅之さん!」
三重子は雅之に飛びついた。彼は驚いているようだったが、階段の下から慌てて逃げていく男を見て険しい顔をする。
「しつこい奴だな」
「雅之さん、さっきの話……わらはやります」
触られるだけであれほどの怖気が走るのだ。この先を考えたら気が狂いそうになる。死んだ方がましだろう。
「何だってやります……だから、だから」
「うん……分かった。大丈夫、僕の言う通りにすればいいだけだ」
三重子を抱きながら優しく髪を梳く雅之が、今は救世主のようだった。
「おや、お嬢さんじゃないかい」
船底に戻った三重子に声をかけたのはミキだった。老婆の優しい声に、三重子は曖昧な笑みを浮かべる。客室の扉の前までは雅之と一緒だったが、人買いに見つかると事だから、と彼はまだ外にいるはずだ。
ミキがいるなら、あのいやらしい男も手を出してこないだろう。三重子はすとんと老婆の隣に腰を下ろした。長い鼻を揺らして、ミキが笑う。
「長らくこんなところにいたら、気分が悪くなるさね。少し、甲板に出てこようかねえ」
三重子は今行って戻ってきたところだが、ミキと同意見だった。何より誰か―――男以外の―――と一緒にいたかったし、“計画”の概要を雅之から聞かされて、後ろ暗い気持ちになっているのもある。
三度出た甲板で、三重子は堪えきれなくなった。
「おばあさん、しばらくここにいてくれませんか」
「うん? どういうこったね、それは」
ミキはそこで、三重子の様子が切羽詰っているのに気付いたようだった。
「何かあったのかい?」
不安が三重子を押しつぶさんばかりになっていた。元より三重子が背負うには、重すぎる役目なのだ。それを免罪符にするように、三重子は口を開く。
「実は数刻後、この船は爆破されるんです」
「何だって?」
「船底の、客室が標的になってるんです。おばあさん、甲板にいたら助かるかもしれません。だからおばあさんだけでも……」
「お待ちよ。一体全体、どうしてそんなことになっちまってるんだい?」
皺くちゃの顔をさらに歪め、ミキは素っ頓狂な声を上げる。
「詳しくは言えませんけど……」
三重子は、特段ミキだけを助けたかったわけではないのだ。
ただ、自分のせいで巻き込まれ犠牲になる人を、一人でも何とかしようと思っただけなのだ。
それが、裏目に出る。
「言えないって……そんなモン、わしだけ助かれったってそうはいかないよ。いたずらにせよ何にせよ、船員さんに知らせなきゃ。なっ?」
「そ、それはもっと駄目です!」
走り出そうとするミキの細い手を、三重子は掴んで止める。
「何で止めるんだい」
「駄目です、駄目なんです!」
そんなことをすれば、人買いを殺せなくなってしまう。三重子は売られてしまう。
小雨の降り注ぐ甲板を、揺れる吊りランタンが怪しく照らした。ひゅうひゅうと風が鳴る。そのとき、船体が大きく揺れた。
「わわっ」
ミキが体勢を崩す。それにつられて、三重子は滑って転んだ。三重子の束縛が緩む。ミキがその隙に、走り出す。
「駄目!!」
三重子はそれを追って駆けだした。
ミキの曲がった腰にぶつかるように体当たりする。軽い老婆の身体が宙に浮いた。
「あっ」
ミキの腰から上が柵に引っかかる。揺れた拍子に、それが外に押し出されようとするのを、三重子は慌てて追いかけた。
かんかんという警鐘らしき音が響く。ミキは歯を食いしばって、甲板の柵を掴んでいた。既に身体は柵の向こう側にある。三重子はその傍に近づくと、傾く船体の上で踏ん張った。
「ひっ……ひいっ」
助けるべきか、否か。
三重子は体を撫でる、男の腕を思い出した。
―――いや。いやだ。
腕を振り払うのと同じ、反射的な行動だった気がする。三重子はミキの手を蹴った。老婆の指は柵を離れ、船体の側面を転がり、海に落ちていった。
「あ……」
黒一色のそれにミキが吸い込まれていったその瞬間、三重子を激しい後悔が襲う。
なんてことをしてしまったのだろう。
それと同時に、もうあとには退けないのだという思いが波のように胸に迫った。やるしかない、やるしか。
三重子は漆黒の海を見下ろす。そこにはもう、何の面影も映ってはいなかった。