心の変化
タクミの事務所で黒岩と別れてから数週間が経ったある日、みさとは隣町の小さな書店で雑誌を立読みしていた。
「平日の昼間だってのに、結構お客さんいるもんですね〜」
男がいきなり小声でみさとに話しかけてきた。
なんだこいつ! と思いながら横を見ると、黒岩だった。
「またあんたなの!? 今度は何の用?」
みさとは大声をあげそうになるのを抑えながら聞いた。
「たまたま立ち寄ったら君が居たんでびっくりしたよ」
「たまたま? どうせまたつけて来たんでしょ?」
「つけてなんかないよ。あの仕事は一段落してるし、つける理由がなくなっちゃたしね」
「じゃぁ、なんでよ! どしてあたしが此処にいるってわかったわけ?」
「偶然さ~。オレもビックリしちゃった。まさかみさとに会えるなんてね」
「ふっ、偶然なわけないじゃん! ……つーかなんで呼び棄て!?」
みさとの声が段々大きくなる。
「あ、あのさ、ちょっと外出ようよ」
黒岩に言われ、みさとはハッとして、回りに軽く頭を下げる振りをした。黒岩はみさとの手を引っ張り、無理やり外に出た。
「買うもんあんだったら、買ってきなよ」
「あんたねー、人を勝手に外出しといて、そんな言い方ないんじゃない?」
「買うの? 買わないの?」
「か、買わないわよ」
「そっか、じゃ、飯でも行こ!」
そう言って黒岩は、またみさとの手を引っ張り、歩き出す。
「ちょっと! あたしの都合は無視?」
「あれ? 予定あったの?」
「……、な、ないけど……。そ、それにご飯食べたかどうかも確認しないわけ?」
黒岩は列のマイナスイオン全開の笑みをしながら、
「予定ないなら問題ないじゃん? それに……その顔は食べてない!」
と、人差し指を立てて断言してやがる。
「あら、わたし、顔に出ちゃうタイプなのかしら!?」と茶化した。
黒岩は、今日は白斗がみさとと会えない事を知っていたし、みさとの仕事が休みなのもチェック済み。どうしてもみさとと話しがしたかったのだ。それはストーカー行為になるのか? まだみさとに訴えられてるわけじゃないから、いいよね? いや、良くはないが。
10分程歩いたところで、爽一朗はある店の前に来た。そこは、歩道から外れた階段の下にあり、ちょっと見過ごしてしまいそうな、分かりにくい場所にあった。その看板には『奇摩偶れカフェ』と書かれていた。
「えっ、こんなとこにこんな店があったなんて、全く知らなかったー。ってか、奇摩偶れカフェってさー、き、ま、ぐ、れ、だよねぇ。大丈夫なの〜?」
みさとは看板を見ながらクスクス笑った。黒岩はその笑顔を見て、かわいいなぁ〜、と目を細めていた。
「どーかな。ここ最近こっそり開業した、闇のカフェなんだ」
「えっ!! ……やだよ、そんな店」
「どうゆう意味だと思う?」
「ん〜、奇想天外、摩訶不思議、偶然見つけたあんたが偉い!」
「クハハハッ、上手いことゆうねー。ホントかどうか入ってみよう〜!」
「あんたもかなり怪しいわ!」
店に入ると、50代ぐらいの男性がシャツに蝶ネクタイをして、愛想よくいらっしゃいと言ってくれた。
「奥のテーブルへどうぞ」
二人は、案内されたテーブルに向かい合って座った。昼時間を過ぎていたから、店内は3組程度のお客しかいなかった。みさとはぐるっと見渡す。
「なんかアリスの国に来たみたい……」
「気に入った?」
「ま、……まぁね」
みさとは感動すらしたのだが、こいつの前ではしゃぐのは勿体無い気がして、わざと素っ気ない振りをした。
「でも、こんな不思議な店、ぶっちゃけ人に教えたくないね!」
「だろ? だから知ってる人しか来ないんだよ」
「バカねー、来た人達は、“いい店知ってんのよー、絶対秘密ね”とか言って連れて来るに決まってんじゃん! 女子が絶対喜びそうだもん。その内クチコミで評判になっちゃうわよ」
「オレはみさとしか連れて来ない。だからみさとも誰にも言うな!」
黒岩があまりに真剣だから、思わず「わ、わかったわょ……」と頷いた。
料理を注文すると、早速みさとが聞いた。
「で? なんで今日はあたしをつけてたの?」
「だから、偶然だっていったでしょ! ホントだよ。オレも正直ビックリしたんだ。あの書店にはこの街に来た時に時々立ち寄ってたし。今日もたまたま寄ったら、みさとがいてさ。いや~、やっぱオレ達ってさ、なんか繋がってんじゃね?」
「ふ~、呆れた。まぁいいわ。偶然ってことにしとく。んで? なんで呼び棄て?」
「そんなに嫌か? だってさ、みさとさんってよそよそしいし、みさとちゃんって感じでもないじゃん? つい呼び棄てにしたくなる。そんなこだわることでもないっしょ? みさとはみさとなんだから」
みさとは、この図々しいと言うか、人懐っこすぎる彼の行動が、強引だが何故か不快感はなかった。
「オレ、爽一朗。名字が堅いから下の名前は爽やかにしたかったらしい」と笑った。
みさとは、笑顔はめちゃくちゃ爽やかだと心で思いながら、
「へぇー、じゃぁ、あたしも爽一朗でいいわよね?」
「爽朗(早漏)でもいいよ」
「ん? 爽朗? 爽一じゃなくて? あ……、やだ、早漏? そっち? ……まさか、若いのにそうなの?」
「試してみる?」
「試してみない!!」
それからふたりはいろんな話しをした。
黒岩の母親の事。みさとを初めて見た時の事。とにかく、黒岩は自分を少しでも知って欲しかった。
「実はさ、あたしが今日凄く驚いたのはね……。タクミと初めて逢ったのもあの本屋さんだったんだよ」
「えっ……。……。マジ?」
「うん。だから、一瞬ね、タクミに頼まれて来たのかと思ったわけよ」
黒岩は正直驚いた。どこで知り合ったのか不思議だったが、知る必要もなかったし、敢えて探らなかった。
「でも、なんで先生はわざわざこんな離れた他県の本屋に来たんだ?」
「彼もね、たまたまだったみたいよ。いろんな場所の建物写真を撮りにふらふらしてて、この街の風景を見ていたら、あそこの書店を見つけて入ったらしい。ほら、あの本屋さん、趣がレトロでしょ?」
「あぁ、オレもそこに惹かれた感があった。でも、なんで付き合うことになったの?」
「それは…………秘密……」
「なんだよ、自分から振っといて、肝心なことは内緒かよ!」
「知りたい?」
「別に。オレには関係ねーし」
「ふっ、無理しちゃってぇ。ホントは気になってしょうがないくせにぃ」
「知りたかねーよ。今はみさととオレだけの世界に浸りたいんだ」
みさとは真剣な爽一朗の表情にドキッとして彼の真意が知りたくなった。
「あ、あの……さ、……爽一朗はあたしとタクミの関係を知ってるよね?」
「知ってたからって何?」
「何? って……。あんたはなんでそんな不謹慎なあたしに構うわけ? 説教でもしたいの?」
「不謹慎? みさとが? そんな風に思ったことなんてないよ。説教どころか告白だよ。人を好きになることが不謹慎だったら、世界中が不謹慎な人間だらけじゃないか。そりゃあ、まあ、みさとの場合は、ちょっと正当な恋愛ってわけじゃないけどさ。オレは…、みさとを遠くから見ているうちに、この人と、差しで話してみたいとずっと思ってた。あの日、駅のホームで話しかけたのだって、結構勇気出したんだぜ。ホントはあのままどっかに連れ去りたかったよ。でも、驚くふたりも見たい気がして、あんな行動に出てしまったんだ」
「告白って……いきなり? でも、あん時はマジでビビった! だけど……、自分でもよく分かんないんだけど、あんま恐怖心みたいなもんは感じなかったんだよね。なんでだろ?」
「だろ? オレ達は出逢うべきして出逢った運命だからだよ」
「はぁ? まだそんなくさいこと言っちゃってんの」
「いや、マジでそう思ってんだ。みさとの姿がずっと頭から離れなくて、今日だって会いたい気持ちが逢わせてくれたと思ってるくらいさ。オレ、スゲーって」
爽一朗は声を上げて笑った。
「……、爽一朗ってさ、ナンパのプロ? あんたに言われるとホントっぽく聞こえちゃうから恐いわ~」
「っぽくってなんだよ。ホントなのに。ナンパなんてしたことねーよ。ド素人よ。そんな暇なかったし。」
「じゃあ、常習犯か~」
「真面目に聞いてくれよ。オレは……、オレはさ、本気でみさとのことを好きになったんだ。マジなんだよ!」
《マジって……、マジかよ》
みさとはいきなり告白されてどう答えたらいいかわからなくなった。
タクミの事は好きだけど、正直なところタクミは忙しくてなかなか会ってくれないし、確かに寂しさは常にある。だからと言って、目の前の告白してきた男性にすぐに気持ちが動くはずもない。
「あ、ありがと……。でも……、あたしは……、その……、爽一朗よりずっと年上だし、あなたのお母さんに重なるとことかあったりするんじゃないのかな? 最初にあたしを見た時そう思ったって話してくれたでしょ?」
「始めは自分でもそう思ってたさ。でも表情やしぐさ、話し方、まるで違う。笑顔に隠された寂しい気持ちも見えてた。オレは……、一人の女性としてみさとのことを好きになった。守ってやりたいって、本気で思った。年齢なんて意識したことすらないよ。みさとって、そんな年上だったっけ?」
この、真剣なんだかおちょくってんだかわからん男に、みさとは自然に惹かれていく自分が怖くなってきていた。
《どうしよう……、ちょっとイケメンだからって、騙されちゃダメよ。この男、信じてもいいの? あたしはまだタクミのこと好きなのよね?》
みさとは動揺していた。
あの日、駅のホームで会った時から、何か不思議な感覚を持っていた。拒絶出来ない何かを。
「あたし……、爽一朗のこと、まだ信じてるわけじゃないけど、そんな風に想っていてくれることは素直に嬉しいよ。でも、そんなこと急に言われても、どう答えればいいのか……それに、まだタクミのこと好きだし……、多分……」
「多分……なのか? ってことは揺れてるんだ。ただ、オレは裏切ったりしない。みさとが会いたくなったら、夜中だって会いに来る。寂しい思いはさせない。オレは泣いてるみさとも好きだけど、笑ってるみさとが最高に好きなんだ」
《ホントかよ!!》
「裏切らないなんて……。そんなこといい切ったら後悔するわよ。裏切らない男なんて存在しないんだから!」
「それは今までの男達でしょ? 先のことなんかわからんけど、オレが自ら好きになった女性に対しては裏切らない自信がある」
「根拠ない自信ね」
「根拠はあるさ。オレは自分の気持ちに自信を持ってるからね」
みさとはますます爽一朗の引力に吸い込まれて行くのがわかった。
まずい。このままでは爽一朗の思う壺だ。
その時
「コーヒー、おかわりお持ちしましょうか?」
マスターの声がした。
気がつけば、外はすでに暗くなり、街灯が灯る時間になっていた。
「あ、悪いね、マスター、居心地が良くてついゆっくりしてしまって。もう出るから大丈夫」
「いえ、全然構いませんよ。ここはきまぐれカフェですから、私の判断で貸し切りにもできます。ご要望があればご遠慮なくどうぞ」
なんて粋なマスター。
「あ、そうそう、彼女がさ、この店の看板の文字の意味は、“奇想天外、摩訶不思議、偶然見つけたあんたが偉い”って言ってんだけど。正解は?」
「ほほ~、なかなか面白いキャッチコピーですね。採用させて頂きます」
「えっ!?」
「へっ!?」
「ハハハ、正解なんてありません。お客様が思って頂いたことが正解です。でもね、そんな風に文字の意味にご感心をお持ちくださった方は初めてでしたから、とても嬉しく思いました。特別にもう一杯サービスさせて頂きます」
そう言って、エスプレッソを運んで来てくれた。
ふたりは苦笑いしながら飲み干すと、会計を済ませ、にこやかなマスターを背に店を出た。
「さーて、これからどーする? オレ、まだみさとと一緒に居たいんだけど」
みさとも気持ちが高まって行く自分の感情を抑えられずにいた。
完全にドキドキしていた。爽一朗に気付かれまいと思えば思うほど、ぎこちなくなる自分がイヤになる。
このままだと、本気で爽一朗が好きになってしまいそうだった。
みさとの欠点は惚れやすいとこにあったのだ。
《どうしたらいい? タクミ!! あたし、どうしたら……》
「あたし……」
みさとが振り向いた瞬間だった。
《――――――!!》
街灯の光と月明かりに照らされたふたりの影が一瞬でひとつになる。
その影は、暫く動きが止まり、無数の星達の輝きに見守られながら、少しずつ小さくなって行くのだった。




