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旧正月の提灯の下で、君の唇が甘かった

作者:
掲載日:2026/02/17

 旧正月の喧騒が、まだ街の空気にしっとりと染みついた夜だった。

 赤い提灯の柔らかな灯りが、細い路地を優しくぼかし、遠くから聞こえる爆竹のぱちぱちという乾いた音が、夜の静けさを不規則に切り裂く。

 普段なら即座にイヤホンを耳に押し込んでシャットアウトするような、ただの街の雑音のはずなのに……今夜に限っては、なぜか心の奥まで響いて離れない。

 きっと、隣を歩くあの子がいるからだ。

 私はコートのポケットに両手を深く突っ込んだまま、わざと半歩遅れて彼女の背中を追う。


 美咲は私の視界の中心で、軽やかな足取りで進んでいく。

 長い黒髪が歩くたびにさらさらと揺れ、街灯の淡い光に照らされるたび、まるで夜の闇に溶け込む絹糸のように輝いた。

 旧正月の飾り付けで赤と金が溢れかえる商店街を抜けると、彼女はぴたりと足を止めた。


「ねえ、こっち来て」


 振り返った美咲の頬は、冷たい夜風のせいかほんのり桜色に染まっている。

 いや、違う。さっき屋台で買って、熱々のまま二人で分け合った胡麻団子の甘い余韻が、まだ頬に残っているせいかもしれない。

 あの、もちもちとした温もりと、口いっぱいに広がるごまの香ばしい甘さが、彼女の周りにふんわりと漂っている。

 私は無言で近づいた。

 言葉を返すのが面倒なわけじゃなかった。

 ただ、今はこの静かな空気を、声で壊したくない気分だった。


 美咲は私の手を、まるで当然のように自然に掴んできた。

 彼女は小さく笑って、細い路地の方へ私を引っ張っていく。


 路地の入り口には、古い石灯籠がぽつんと立っていて、提灯の赤い光が石畳に長い影を落としていた。

 爆竹の音が遠ざかり、代わりに風が木の葉を揺らすささやきだけが聞こえる。

 まるで、世界が少しだけ私たち二人に優しくなったみたいに。


「人混み嫌いなの知ってるから。こっちの方が静かでしょ?」


 美咲の声は、夜の冷たい空気に溶け込むように柔らかく、でもどこか甘く響いた。

 彼女の指は意外と冷たくて、細くて、まるで冬の最後の雪片みたいにひんやりしていた。

 でも、私がそっと握り返すと、すぐに彼女の温もりがじんわりと伝わってくる。

 指先から手のひらへ、手のひらから心臓へ……そんな小さな繋がりが、最近やけに愛おしくて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 こういう瞬間が、言葉なんかじゃなくて、体温だけで伝わる想いが、こんなにも尊いなんて。

 普段の私は、そんな感傷をバカみたいって即座に切り捨てるクセがあるのに、今夜はただ、静かに受け止めてしまう。

 握った手を離したくない。この温もりが、消えてしまいそうで怖い。


 路地の奥には、古い石段が現れた。苔むした段差が、提灯の赤い灯りに照らされて、ほのかに妖しく輝いている。                     

 一段一段上るたび、足音が石に吸い込まれるように静かで、上りきった先は小さな公園だった。

 街灯はなく、ベンチは一つだけ。

 まるで、この場所が私たち二人だけのために、ひっそりと存在していたみたいに誰もいなかった。


 遠くで花火が上がって、夜空をぱっと明るく染める。その一瞬の光で、美咲の横顔が鮮やかに浮かび上がった。

 長いまつ毛が影を落とし、頬の赤みがより深く、息を呑むほど綺麗で……儚くて。

 私は無意識に、握っていた手を強く握りしめていた。


 座ると、美咲は自然に私の肩にそっと頭を預けてきた。

 黒髪が首筋に触れて、さらさらとした感触と、ほのかに残る胡麻団子の甘い香りが混ざり合う。

 彼女の体重が、ほんの少しだけ重く感じられて、それがすごく幸せだった。


「……今年も一緒にいられてよかった」


 小さな声。ほとんど囁きに近い。

 でも、その一言が胸の奥にずしりと落ちて、温かい波紋を広げていく。


 私は返事の代わりに、指先でさらりと彼女の髪に指を通した。

 さらさらと滑る黒髪が指の間を抜けていく感触が心地よくて、何度も何度も繰り返してしまう。


 旧正月って、なんだかいつもより時間がゆっくり流れる気がする。

 爆竹の音も、花火の光も、全部が遠くに感じて、このベンチの上だけが、永遠の瞬間みたい。


「私さ、去年の旧正月は一人だったんだよね」


 美咲がぽつりと言う。声が少し掠れて、風に揺れる提灯の灯りのように儚い。


「あの頃は、まだあんたのこと知らなかった。知らなくて、すごく寂しかったんだと思う。今思うと」


 私は黙って聞いている。彼女の声が、少し震えていることに気づいた。

 肩に預けられた頭が、ほんのわずか重くなる。

 まるで、去年の孤独を今ここで、ゆっくりと吐き出そうとしているみたいに。


「だから今年は、絶対一緒にいたかった。爆竹の音も、花火も、冷たい風も、全部あんたと一緒に感じたかった」


 美咲の声は、震えを帯びながらも、はっきりと胸に届いた。

 彼女が顔を上げて、私をまっすぐ見つめてくる。

 瞳の中に、赤い提灯の灯りが揺らめいて、まるで小さな炎が宿っているみたい。

 夜の闇の中で、その瞳だけが熱を帯びて輝いていて、息が止まりそうになる。


「好きだよ」


 唐突すぎて、一瞬、笑ってしまいそうになった。

 こんなところで、こんなタイミングで、そんなストレートな言葉を投げかけられるなんて。

 でも、次の瞬間、喉の奥が熱くなって、言葉が全部詰まってしまった。

 胸が締めつけられるように痛くて、でもそれは痛みじゃなくて、嬉しさが(あふ)れすぎて苦しいだけだった。


「……私も」


 やっと絞り出した声は、自分でも情けないくらい小さくて、震えていた。

 顔が熱い。きっと、今、耳まで真っ赤になってる。


 美咲はくすっと小さく笑って、私の首に腕を回してきた。

 冷たい鼻先が頬に触れて、ひんやりとした感触が一瞬だけ心地いい。

 次に、唇が重なる。柔らかくて、温かくて、少し胡麻団子の甘さが残っているキス。

 ごまの香ばしい甘さと、彼女の息づかいが混ざって、頭の中がふわふわになる。

 時間なんて、止まってるみたいだった。


 花火がまた上がって、夜空が一瞬、白く明るく染まる。

 その光の中で、彼女のまつ毛がゆっくり瞬くのが見えた。

 長いまつ毛が影を落として、頬に淡い光が反射して……息を呑むほど綺麗で、胸がぎゅっと締めつけられる。


 唇が離れると、美咲は照れたように目を逸らした。

 でも、手はしっかり繋いだまま。指が絡まって、離す気なんてないみたいに。


「もうちょっとここにいよう?」


「……うん」


 私は頷いて、彼女の肩を抱き寄せた。コートの袖が彼女の背中に回って、ぎゅっと引き寄せる。

 細い体が、私の胸にぴたりと収まる。心臓の音が、どくどくと響いてるのが自分でもわかる。


 旧正月の夜は、まだ終わらない。遠くで誰かが笑い声を上げて、爆竹がぱちぱちと鳴り続けてる。

 でも今、この小さな公園のベンチの上では、世界は私たち二人だけだった。


 提灯の赤い光が、ぼんやりと辺りを染めて、花火の残光が夜空に散らばって……全部が、優しくて、温かくて。

 風が冷たい。頬を刺すように吹き抜けるけど、美咲の体温がすぐそばにあるから、全然寒くなかった。

 むしろ、熱いくらいだった。

 今年も、来年も、その先もこんな夜が続けばいい。

 そう願いながら、私は彼女の髪にそっと顔を埋めた。

 甘い胡麻の香りと、彼女自身の柔らかい匂いが混ざって、胸の奥まで染み込んでいく。

 深く息を吸うたび、幸せが体中に広がって、涙が出そうになる。 

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