前編
その日、大事件が起きた。
『やはたや』の秘密の扉を通ったやつがいたのだ。
『やはたや』はアキラ達の通う小学校の裏門から出ればすぐの駄菓子屋だ。しかし裏門は先生に通ってはいけないと言われいつも閉まっているため、彼らがやはたやへ寄りたい場合は大人の目を盗んで閉まっている鉄の柵を乗り越えて向かい、時々見つかっては皆が帰っている横で説教を食らっていた。
やはたやは彼らが長期休みに帰省する祖父母の家と似た雰囲気の店だった。朝、登校する際に店の前を通るとちょうど開店準備をしていて、店主のきえが木の枝のような細い腕で半透明のガラス扉をガラガラと音を立てて開ける様子や、店の前に置いてある植木鉢に水をやりながら、店の前の道路にも水をまいているさまを彼らはよく見かけていた。棚の菓子を補充している際に通りがかり、集団登校の下の学年の子ども達と一緒に挨拶した時や、時間がある時に塗装が一部剥げた郵便受けから郵便物を出すのを手伝った時には、きえは目尻に深く皺の刻まれた穏やかな笑顔を彼らに向け、お礼を言ってオマケでお菓子を付けてくれた。
そんなやはたやの店内、レジの置いてあるカウンターの横に秘密の扉はあった。暖簾がかかったその扉はいつも閉じられており、アキラ達はその向こうに何があるのか見たことはなかった。最初は彼らも気にしていなかった。なんせいつも閉じられていて、トイレもその扉とは別の場所にあったため、まったく存在感が無かったからだ。しかしある日、アキラ達はその扉に秘密がある事に気づくこととなった。
彼らにとってはずっと前、冬休みの話が出始める、鼻と耳がキーンと痛くなるころ、アキラとタカシと同じクラスの数人が帰り道にやはたやに寄っていた。やはたやでは冬の間だけ温めた甘酒を売っており、酷く冷え込む時は転がるように駆け込み、きえが鍋から紙コップに甘酒を注ぐのを急かしていた。
コンロの火に熱せられ底が真っ黒に変色した、年季の入った大きな鍋の蓋をきえが開ける。ほわほわと湧き上がる湯気の向こうに白くこっくりした甘酒がくつくつと煮えていて、きえがおたまを入れてかき回すと気泡が潰れて湯気がうごめいた。鍋の中を覗き込もうとするクラスメイトをやんわりと窘めながら紙コップへ甘酒を注ぎ、アキラ達へ一つ一つ渡していくきえ。渡された彼らは手の中の温かさを味わいながら店に置かれた椅子に座り、今度はまったりとした甘さを味わった。授業の話、習いごとの話、昨日見たアニメやゲームの話など、いつもしている話を同じようにしているはずなのにあっという間に空が暗くなり始め、いつの間にか甘酒も無くなっていた。きえが家へ帰るように呼び掛けると皆がぽつぽつと帰り始める。アキラとタカシにも声がかかるが、その時はなんだか店にもう少し居たくて、アキラは空の紙コップに口をつけた。
もう夜も目の前。タカシの紙コップの縁がすべて噛み痕だらけになった頃、帰り支度をしていたアキラとタカシの耳に突然笑い声が飛び込んだ。二人は驚いて顔を上げるが、自分達ときえ以外にやはたやに人はいない。きえの様子も変わっておらず、まるで先程の笑い声が聞こえていないようだった。顔を見合わせるアキラとタカシ。気のせいかと思う間もなく、2人の耳にまた笑い声が聞こえてくる。しかもそれは先程よりも大きな声で、さらに自分達や学校でよく聞く笑い声とは違う、低く太い声がたくさん重なっているようだった。どこから聞こえるのか、響く笑い声の元を探して見回すと、カウンターの横にある閉じられた扉から聞こえるようだった。2人は興味をそそられ、きえにその扉の向こうに何があるのか見たい、向こうに行ってみたいと言った。しかし、きえは珍しく頑として扉を開けてくれなかったのだ。
そう言われて大人しく興味をなくす2人ではない。何故なのか、ほんの少しでも覗けないかと頼み込むが、きえはめったに見ない厳しい顔で2人を店から追い立て、店のガラス戸をぴしゃりと閉めてしまった。締め出された外は思ったよりも暗く空気も冷えていて、アキラとタカシは心細さに怒りを上乗せさせながらいつもより大きな声で話しつつ帰り道についた。
翌日、2人は学校でクラスメイトにやはたやの扉の向こうを見たことがある人がいないか聞いて回った。しかし、やはたやに行った事があるクラスメイトは沢山いるのに、誰一人として扉の向こうを見たことある人がいない。興味を掻きたてられたアキラとタカシは改めてやはたやへ行き、きえへ一瞬で良いからと頼みに行くがにべも無く却下され、やはたやのお手伝いを条件にするという奥の手を出してもそれは変わらなかった。
拒否されてしまうとより興味を刺激されるもので、彼らの間ではその扉は秘密の扉と呼ばれ、しばらくの間は隙を見て扉をこっそり開けようとしたり監視したりしていた。その様子を見ていたクラスメイトが面白がって参加してくれたこともあったが、きえの守りは堅く、誰も秘密の扉の向こうを見ることは出来なかった。参加したクラスメイト達が一人、二人と興味を無くし離れていき、タカシもまた、一向に開かれない秘密の扉に興味を持ち続けるのは難しく、いつしかただあるものとして受け入れ注意を払うことを止めた。アキラはそんなタカシの裏切りに腹を立てたが、それをタカシやクラスメイトにぶつけるのは子どもみたいだと分かっていたため、絶対に秘密の扉の向こうを自分だけでも見てやるのだと決意を新たにするのだった。
大事件が起きたのは、それからまたしばらくした頃だった。
進級して、テスト勉強があるから塾があるからと、その日はやはたやに誰もついてこなかった。アキラは先ほどやはたやで買ったタブレット菓子を一粒シートから押し出し、口の中に放り込む。爽やかな甘さが口の中に広がっていくが、なんだかいつもより美味しくない。きえが店の奥に引っ込んだ静かな店内に、小さい子どもの笑い声が入ってくる。学校の校庭や近くの小さい公園で遊んでいる子どもの声だろうか。いつもだったら気にならないその音がやけにうるさく聞こえて、アキラは店の奥の棚の陰に座り込んだ。レジからも入口からも見えないそこは、狭いながらもアキラの存在をすっぽりと覆ってくれていて、アキラは秘密基地にいるような心地よさに包まれていた。
「すいませーん!」
居心地の良い静けさを切り裂いたのは、大人の声だった。アキラの身体がギュッと固まる。
「あれ。すいませーん」
話しかけられたのかと顔を上げるが、侵入してきた大人の顔は見えない。アキラは音をたてないようにゆっくり立ち上がる。無遠慮に入ってきた大人がどんなやつか見てやろうと、しかし気づかれないように少しだけ顔を出す。店の入口のサッシを一歩踏み越えて店内を見回しているそいつは大人の男だった。髪が短くて黒くてスーツを着て、やはたやにちっとも似つかわしくないその服装に、アキラは下唇をぎっと引き結ぶ。その男は間抜けにもアキラの存在に気付かないまま三度店内に呼びかける。すると、店の奥からきえが答える声が返ってきた。
「はーい!」
「あ、いた」
「はい、はい、お待たせしました。なんでしょう?」
戻った店内にスーツの男がいることに驚きもせず、そう訊くきえ。その態度にもなんだか頬が膨らむアキラだが、息を潜め二人の動向を見守る。
「すいません、トリイソを探しているんですけど……ここじゃないですよね?」
「あぁ、そちらの方。本当は裏だけど、ここで大丈夫ですよ。案内するわ」
「そうなんですか! ちょっと呼んできます」
弾んだ声でスーツの男はそう言って、店の外へ出て行く。トリイソとはなんだろう。今まで聞いたことが無い言葉だ。タカシやクラスメイトは言わずもがな、きえの口からも初めて出た言葉だった。そんな名前の菓子がやはたやの棚に並んだことも無かったと思う。実はこの棚に並べ切れないお菓子を裏とやらで売っていたのだろうか? でも、あんな大人がお菓子を探すのだろうか? それならトリイソはなんなんだろう?
棚の陰に隠れたまま考え込んでいたアキラだが、たくさんの声が近づいてくるのに気づき再び身体を強張らせる。恐る恐る覗き込むと、先ほどの男を先頭にたくさんの大人がやはたやの敷居を跨いで踏み入ってきており、アキラは思わず漏れた自身の声を抑え込むように口に手を当てた。大人、大人、大人。先ほどの男と同じようにスーツを着ている男や、スーツではないけどなんだか圧力を感じる男、帰省した時に時々見かけるアキラの父親と祖父の真ん中くらいの年の男、中にはアキラの母親が授業参観の時にしているような恰好をした女など、老若男女いろんな大人がこのやはたやの小さい店内に入ってきて、アキラは呆気にとられたまま隠れ続けるしかなかった。
「こちらどうぞ」
「すいません、ありがとうございます!」
「懐かしっ! 駄菓子屋なんていつぶりだろ」
「この菓子まだ売ってんだ。すげえな」
「これ買って入っても良いかな」
「狭い狭い! いったん入れ、つっかえてっから」
わいわいがやがやと話しながら店に入ってくる大人たち。いつもは子どもときえしかいない店内を圧迫する体格の集まりに気圧され、アキラが隠れている棚の方に来ないことを祈りながら、彼らの様子を見守る。すると、アキラは気づいた。大きな背中の集団が蠢きひしめきながら吸い込まれていく先は、レジが置かれたカウンターのすぐ横、暖簾がかかっていていつもは決して開かなかった、あの秘密の扉だったのだ。
驚き、大人達から隠れていたのも忘れ棚から飛び出したアキラ。あと少しだったが、扉のすぐ後ろが薄暗いことしか分からない内に閉められてしまった。扉に耳を当てて神経を集中させるアキラ。先ほどの大人達が何か話しているくぐもった声が聞こえたが、すぐにそれも消えてしまう。ふと思いつき、唾を飲み込む。聴力検査でもしたことないほど、耳に神経を集中させて音を探る。扉からずっと遠くで音がする。近くで音は、しない。アキラはドアノブに手をかけ、掴む。ゆっくりと力を入れ、開けていることに気づかれないよう少しずつ回す。ドアノブを回す手が止まる。これ以上は回らない。どくどくと大きく鼓動する心臓を自らの胸の中に感じながら、アキラは深呼吸をする。鼓動がすこし落ち着いた。アキラ最後にもう一度深く息を吸い込み、音が立たないようドアノブを静かにゆっくり引いた。
ミシッと鈍く小さな音が扉の中でして、それ以上扉は開かなかった。アキラはいったん引っ張るのをやめ、もう一度力を入れてドアノブを引く。開かない。ドアノブを反対に回して引いてみる。これも開かない。念のため押す。やはり開かない。アキラは大声が飛び出そうな口をなんとか噛みしめる。発散できなかった衝動は、やはたやの冷たいコンクリートの床を何度も踏みつけることで逃すことができた。しかし、彼の身を裂きそうな感情は自然に消えるものではなく、納める方法はもはや一つしかなかった。
アキラは激怒していた。必ず、きえに秘密の扉の向こうに何があるのかを見せてもらうと決意をした。扉の前で仁王立ちをし、きえが扉から出てくるのをひたすら待つ。彼はまだ親友と妹のために走る男の話を学んでいないが、もし学んでいたら何かしら思うところがあったかもしれない。しかしそうではないアキラは仁王立ちのまま、ただひたすら店にきえが戻ってくるのを待った。
きえは扉からではなく店の奥から出てきた。意表を突かれたアキラだったがそれはきえもまた同じで、まだ店にアキラがいるとは全く思っていなかったようだ。仁王立ちのアキラの表情が一瞬解け、次の瞬間に険しい山岳が刻まれたことに呆気に取られていたが、その後アキラの口から捲し立てられた内容を聞き終えるとあきれた顔でアキラを宥める常套句を口にする。しかし、今回ばかりは引きさがるアキラではなかった。
アキラの剣幕に、きえは遂に扉の奥を知る権利を与えた。ただし、保護者の同意を得て一緒に店に来るのなら、という条件付きだ。親は関係無いとアキラは言ったが、そこはきえにも譲れない部分だったようで「これが出来ないならこの話は無し」と店の奥に入ろうとしたため、アキラは渋々その条件を受け入れた。とはいえ、ようやく掴んだ扉の奥への道。アキラは自宅へ飛んで帰り、晩御飯の準備をしていた母親へ言った。母は最初真剣に聞く様子が無かったが、アキラが務めて真面目に詳細を伝えるとスマホを取り出し何かをし始め、その表情は眉間にきゅっと皺が寄った後に固まった。指は忙しなく動きスマホを操作し続けているが母の表情は険しく、何をやっているのだろうとアキラは母のスマホを覗き込もうと傍に走りよるが、あえなくアキラの目が届かないほど高く掲げられてしまう。仕方なくアキラはそのまま許可と付き添いを母に頼むが、母は唸るような低い声を出したあと、父親と話し合ってからと言い、スマホを片付け晩御飯の準備に戻ってしまった。アキラは抗議をしたがキッチンから追い出されてしまい、仕方なくゲームに手を伸ばし遊ぶ。が、ゲームに集中できない。アキラは驚き、体温計を探し自分の体温を計った。平熱。今回は風邪が原因ではなかったようだ。アキラは首を傾げた。
『次のテストで全ての教科で95点以上取ること』。朝食を食べながら提示された条件に、アキラは口を曲げる。なぜそんな条件を付けられなければいけないのかとアキラは聞くが、父はそれが出来ない人には入れさせられない場所だからと事もなげに言い、母も無言で頷いた。やはたやの事を何も知らない大人のくせに。寝癖直してないし、襟がひっくり返っているのに。アキラは口に入れた箸の先を噛みしめた。しかし、非常に腹立たしいが、アキラにはこの方法しか残されていない。アキラは卵焼きに力を入れて箸を突き刺す。そして飛んできた叱責は聞き流し、頬張った。
アキラが母に返ってきたテストの答案を差し出すと、母は無言で受け取り、一問一問じっくり確認し始めた。お互いに一言も話さず、ときおり答案用紙がたわむ音だけがリビングに響く。しかしアキラにとってこの静寂は、休み時間直前の授業の終わりのチャイムが鳴る2分前に流れているものと同様だった。今まで宿題以外の復習なんてしたことの無かったアキラが学校でも自宅でもひたすら勉強し、疑問に思ったらしいタカシにいきさつを言った際にまだやってんの? と呆れながら言われた時には耳が今まで感じたこともないほど熱くなり、全てを投げ出してしまおうかと思ったこともあったアキラだったが、彼はやり遂げた。母が見つめている答案に点数と共に堂々と描かれた花丸が、秘密の扉への入場証明の証として鮮やかに咲いていた。
遂に決行の日。アキラは下駄箱に入っている自分の靴を見つめた。下校のチャイムを背後に、校舎の玄関を生徒達がそれぞれ帰途につく。多くの子どもにとってはいつも通りの何気ない午後なのだろうが、アキラにとってはようやく訪れた時間だった。タカシ達に遊びに誘われたが、断り校門を出て自宅へ急ぐ。心底残念そうに理由を尋ねられたが、答えることは出来なかった。
一度帰宅しランドセルを降ろしたアキラの肩は軽いはずなのになぜだか重い。理由は分かりきっている。隣を歩いている母だ。授業参観の時の服よりはかっちりしていないが、その時と同じような雰囲気を纏っていて、なんだか居心地が悪い。見慣れない紙袋を持っているのも気になるが、聞いてもうちのじゃないからと答えてくれなかった。ようやく訪れた日なのに、待ちに待った瞬間なのに、気になることが多すぎる。母の顔を見上げてみる。通学路を歩くのが久々だからか、辺りをきょろきょろ見回しながらここも知らない店だだのここはずっと工事しているだのと、なんだか楽しそうに話している母に、違和感を問いつめる気が失くなるアキラ。最近、通学路の脇にあるコンビニの駐車場にテレビでしか見たことが無い大きな作業車が停まっていたことや、近くの交差点にある交番で警察官と話したことなどを話すと、母はそれも楽しそうに聞いている。アキラは違和感のことをすっかり忘れて話し続け、あっという間に2人はやはたやに到着した。
やはたやの年季の入った佇まいと看板。中から子どもの声も、大人の声もしない。自分達ときえ以外、やはたやに人はいないようだ。アキラは母の手前力いっぱいガッツポーズをしたい身体を抑える。が、鼻息と口角が上がる所までは我慢しきれなかった。帰りの会が終わる10秒前よりも高鳴る気持ちを胸に抱き、アキラはやはたやのサッシを跨ぐ。店の中ではきえが、レジでなにやら作業をしていた。アキラが店に踏み込んだ足音で、きえの視線が手元から彼に移る。いつもの穏やかで柔らかな笑顔でふっとアキラを見返すが、その後ろの存在に気づくと目を見開き口を小さく開ける。アキラは息を深く吐き、吸い込んできえを見た。きえの向こうに見える秘密の扉にかかる暖簾が、風も吹いていないのに一瞬はためいた気がした。
米麹のこっくりとした甘酒が飲みたい。




