20 バレンタイン
二月の風は鋭く、学園の庭を吹き抜けるたびに木々の枝を揺らした。
吐く息は白く、石畳には雪解けの水が薄く残っている。
冬の冷気は学園に通う貴族の子弟の心まで引き締めるようだった。
その日はバレンタイン。
女子生徒たちがそれぞれに小箱を手にし、そわそわとした様子で廊下を歩き回っていた。
彼女たちの視線の先には、侯爵家の長男――エドワード・フォン・グランツの姿がある。
だが、彼は一切の贈り物を受け取らなかった。
丁寧に微笑み、柔らかく断る。
「お気持ちは嬉しく思いますが、私の立場上……」
そう言えば誰もが納得する。
彼は常に女性を傷つけぬよう、期待を抱かせぬよう、線を引いていた。
そのため、気付けば彼の机の上には何も置かれていなかった。
学園中で最も注目される青年でありながら、誰の想いも受け取らない――それがエドワードという人間の姿勢であった。
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昼下がり、授業を終えたエドワードは書類を抱え廊下を歩いていた。
足音が響く中、後方から軽やかな声が弾む。
「エドワード様!」
振り返るまでもなくわかる。
彼女――マリアベル・ド・クラウディアだ。
息を弾ませ、両手で小箱を大事そうに抱えている。
赤いリボンで飾られたその箱は、明らかに今日という日の象徴だった。
「ごきげんよう!」
にっこりと笑うその表情は、寒風の中でも花のように鮮やかだった。
「……クラウディア嬢」
エドワードの声は低く、慎重だった。
彼が誰からも受け取らないことを彼女が知らぬはずはない。
ならば、なぜ。
「これは……」
視線が小箱に落ちる。
マリアベルはその意図を察し、少しだけ照れたように笑った。
「ええ、ショコラです」
そして真っ直ぐな瞳で彼を見上げた。
「たとえ受け取っていただけなくても……準備したかったんです」
その声音には打算も見返りもなかった。
エドワードは一瞬、返答に迷った。
断るのは簡単だ。いつものように微笑み、立場を理由にすればいい。
それで彼女を傷付けずに済むはずだった。
だが――
(……準備したかった、か)
その言葉が胸に残る。
贈ることそのものに意味があると信じ、差し出す少女。
彼女の笑顔は、どこまでも真っ直ぐだった。
沈黙のあと、エドワードは小さく息を吐いた。
「……今日は、勉強で少し疲れた」
マリアベルが目を瞬く。
「……甘いものが欲しい」
低く告げて、彼は箱を受け取った。
その瞬間、マリアベルの瞳がぱっと輝いた。
「……本当ですか! ありがとうございます!」
彼女は嬉しさを隠しきれず、まるで自分が贈られたように頬を紅潮させた。
エドワードは表情を崩さず箱を抱えたが、心の奥では静かな熱が広がっていた。
彼女の笑顔を見たいがために「疲れた」という言葉を選んだ自分。
甘いものが欲しいと理由をつけ、差し出された想いを受け取った自分。
侯爵家の長男としての理性が警鐘を鳴らす。
だが、手にした小箱の温もりと、目の前で喜ぶ彼女の姿が、それを上塗りしていく。
廊下に差す冬の光の中、二人の影が並んだ。
誰もが避けた「完璧な青年」へ突撃し続ける少女と、誰からも受け取らなかった贈り物を受け取った青年。
エドワードはカバンに小箱を収め、わずかに目を逸らして言った。
「……帰宅してから、いただこう」
その声音は冷静を装っていたが、耳には熱が集まっていた。