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初恋  作者: だんざれす
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16 ぬるま湯

冬の冷気が学園の窓硝子を白く曇らせる頃、エドワード・フォン・グランツは書斎に籠もっていた。

机の上には整然と積まれた書物と羊皮紙。筆記の手は止まっていないはずなのに、目の奥には別の景色がちらついていた。


――紅葉の庭で「来年も紅葉狩りに」と微笑んだ横顔。

――喫茶店でタルトを頬張り、幸せそうに目を細めた笑み。

――廊下でつまづき、抱きとめられた瞬間に真っ赤になった頬。


(まただ……)


どれも鮮明すぎて、振り払うことができない。

侯爵家の長男として学んできたものは「欲を制する術」だった。

冷静であれ、節度を保て、家の重みを常に背負え――父から叩き込まれた言葉は骨の髄にまで染み込んでいる。


だからこそ、理解できない。

なぜ伯爵家の次女にすぎない彼女の言葉ひとつ、仕草ひとつが、これほど心を乱すのか。


「……理解できない人だ」


幾度口にしても、その答えは解決にならなかった。



侯爵家の当主である父は、常に冷静で寡黙な人だった。

余計なことを口にせず、だが子としてはっきり伝わる。

「望む相手は限られている」と。

侯爵家の血統を守り、宮廷における影響力をさらに強めるため、選ばれるべき縁談は自ずと決まっている。


幼い頃から理解していた。

結婚とは個人の感情よりも、家の利益のために結ばれるものだと。

父の判断は絶対であり、長男である自分はそれに従う以外にない。


(……そのはずだ)


ペン先を握り直す。

だが書きつけようとする文字は、次の瞬間に頭の中で弾け飛ぶ。


――「エドワード様!」


弾む声が耳に蘇る。

彼女は貴族社会の常識など知らぬふりをして、堂々と名を呼ぶ。

それは無礼にすら映るのに、不思議と苛立ちよりも安堵をもたらす。


彼女の存在は、ぬるま湯のようだ。

足を浸したときには何の刺激もないのに、気付けば全身が温まって抜け出せなくなる。


「……現状を変えられない、か」


呟きが書斎に落ちる。

理屈で言えば、簡単なはずだった。

彼女に距離を置けばいい。廊下を変える、声を無視する、冷たい態度を取る。

そうすれば、いずれ彼女は諦める。

その後に父が選ぶ令嬢と婚姻を結び、家の期待に応える。

未来の道筋はそれしかない。


だが


(なぜ、そうしない? いや、できない?)


彼女が突撃してくる朝を待っている自分がいる。

教室で静かにノートを取る姿をもう一度見たいと思っている自分がいる。

紅葉の下で「来年も」と言われた未来を想像してしまう自分がいる。


侯爵家の長男としての理性がいくら警鐘を鳴らしても、そのぬるま湯から身体を引き上げられない。

むしろ、浸かり続けることを望んでいる。


「……父の望む相手でなければ、意味がない」

低く呟く。

それは真実であり、同時に自らへの言い訳でもあった。


ペンを置き、窓の外に目を向ける。

白い息を弾ませながら駆けていく学生たちの姿が遠くに見える。

その中に、鮮やかな笑顔をした少女の幻影を探してしまう。


(……やはり、私は変わってしまったのだろう)


侯爵家の重みも、父の意志も、未来の責務も理解している。

だが同時に、彼女がいるだけで日常が温もりを帯びることも知ってしまった。


――どちらを選ぶのか。

まだ答えは出せない。

ただひとつ確かなのは、彼女を探す視線を止められないという現実だった。


ぬるま湯のような日々。

そこに沈み込んでいる自分を、エドワードは静かに自覚していた。


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