10 一緒にいられるだけで
放課後の学園からほど近い街路。
石畳の通りは活気に満ち、露店の香ばしい匂いと、行き交う馬車の車輪の音が溶け合っていた。
学生や市民たちが賑わいを作り出し、夕暮れの光が建物の窓を赤く染めている。
エドワード・フォン・グランツは、珍しく一人で歩いていた。
本来なら護衛を従えるのが常だが、今日は気晴らしのつもりで街へ降りていた。
人混みに紛れることで、かえって静かな時間を得られることもある――そう考えていた矢先。
「エドワード様!」
朗らかでよく通る声が、雑踏のざわめきを裂いた。
振り返るより早く、鮮やかな色彩が視界に飛び込んでくる。
マリアベル・ド・クラウディア。
小さな籠を腕に提げ、スカートの裾を揺らしながら駆け寄ってきた。
「まあ、本当に偶然です! まさか街中でお会いできるなんて!」
彼女は胸の前で手を合わせ、瞳を輝かせる。
「クラウディア嬢……」
エドワードは思わず眉を寄せた。
街中で声を張り上げられては、周囲の視線が集まるのは当然だった。
道行く人々が足を止め、二人のやり取りを面白そうに眺める。
「お一人でお出かけですか?」
「……ええ、少し散歩を」
「それなら、ぜひ! 一緒に!」
勢いに圧され、返事を考える前に彼女の言葉が畳みかける。
「ちょうど、そこの角に素敵な喫茶店があるんです! 行きませんか? 行きましょう!」
籠を抱えたまま、楽しげに指差すマリアベル。
断る言葉は用意できる。
だが、街角の喧騒の中で期待に満ちた笑顔を前にすると、無下にするのはあまりにも露骨に思えた。
「……少しだけなら」
返答した瞬間、彼女はぱっと花が咲いたように笑った。
「はいっ! ではこちらです!」
⸻
二人が入ったのは、街でも評判の小さな喫茶店だった。
木製の扉を開ければ、甘い焼き菓子の香りが鼻をくすぐる。
磨かれた床に整然と並ぶ丸テーブル、窓際には柔らかなレースのカーテン。
店内の客たちは一瞬目を上げ、貴族であろう二人を見てざわめきを交わした。
「こちら、窓際が素敵ですよ!」
マリアベルは迷わず席を選び、エドワードを手招きする。
(……本当に、勢いに押されているな)
心中で苦笑しながらも、彼はその向かいに腰を下ろした。
店員が近づき、マリアベルは即座に注文を告げる。
「私は季節のベリータルトと紅茶をお願いします! エドワード様は?」
「……同じもので」
特別な嗜好を示すより、彼女の熱量を削がぬのが最も穏当だと判断した。
⸻
「本当に嬉しいです」
紅茶が運ばれる前から、マリアベルは身を乗り出して言った。
「エドワード様とこうして街でご一緒できるなんて、夢みたいです!」
「……偶然のことです」
「ええ、だからこそ特別です!」
瞳の奥がきらめく。
彼女にとっては偶然すら意味を持つらしい。
「学園でお会いするときもそうですが……わたし、エドワード様とお話しすると、心が温かくなるんです」
「……」
「だから今日も、こうして笑っていられることが、とても幸せです」
率直すぎる言葉に、周囲のざわめきがまた増した。
隣の席に座る学生たちが、興味深そうにこちらを盗み見ている。
エドワードは紅茶を口にし、わずかに息を整えた。
(……困ったものだ。彼女の真っ直ぐな言葉は、無意識のうちに私の防壁を削っていく)
「クラウディア嬢」
「はい!」
「……あまり人前で大声を出すのは控えなさい。噂になれば、あなたが不利益を被る」
一応の忠告を口にした。
それが彼にできる最低限の防御。
だがマリアベルは怯むことなく微笑む。
「噂になっても、構いません」
「……なぜ」
「だって、エドワード様のことをお慕いしているのは事実ですから」
紅茶が運ばれてきても、彼女の声は揺るがなかった。
店員までが思わず目を丸くし、すぐに笑みを隠して下がっていく。
エドワードは唇を結び、カップを見つめる。
(まるで……逃げ道を与えない)
「……本当に理解できない人だ」
思わず低く漏らした言葉は、しかし苛立ちよりも戸惑いに近かった。
マリアベルは首を傾げ、微笑む。
「理解できなくてもいいんです。知ろうとしてくださらなくてもいいです。…一緒にいられるだけで、じゅうぶんです」
彼女の答えはあまりに自然で、かえって言葉を失った。
ベリータルトが運ばれると、マリアベルは子供のように目を輝かせた。
「わあ……! とても美味しそう!」
フォークを手に取り、一口頬張る。途端に頬がほころび、幸福そのものの笑みを浮かべる。
「エドワード様も、どうぞ!」
「……いただきます」
渋々口にしたつもりだったが、甘酸っぱい果実の風味と生地の香ばしさが広がり、思わず目を細めた。
その表情を見逃さず、マリアベルが嬉しそうに身を乗り出す。
「美味しいでしょう!」
「……ああ」
短い相槌。
だがそのわずかな言葉に、彼女は満足げに微笑んだ。
⸻
外は暮れ始め、窓の外に橙色の光が滲んでいた。
マリアベルは空を見上げ、そっと呟く。
「こうして座っていると……普通の学生みたいですね」
「普通?」
「ええ。わたしたちは家柄に縛られているでしょう? でも今は、ただ紅茶を飲んでお話しして……それだけで心が自由になれる気がします」
彼女の横顔は真剣で、ふざけた様子はない。
その静けさに、エドワードはまた心を乱された。
(……奔放なだけではない。時に、驚くほど冷静な眼差しをする)
理解できない。けれど――その「理解できなさ」が、妙に惹きつける。
「クラウディア嬢」
「はい?」
「……いや、何でもない」
言葉は飲み込んだ。
まだ認めてはならない。まだ境界を越えてはならない。
だが、心の奥では既に答えが芽吹き始めていることを、彼自身が一番よく知っていた。