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イヤホン

作者: Sei

救急車のサイレンで目が覚めた。時計を見たら午前11時を回っていた。アラームを8時に設定していたのに起きられなかったらしい。


今日は引っ越しのために荷物を整理しようとしていた。そのため、いつもの休日なら寝たいだけ寝ているが、今日は早く起きて長めに作業をしようとしていたのだ。ただ、昨日の会社の疲れが取り切れなかったらしく、結局いつもどおりの時間に起きてしまった。


今の暮らしに、なんだか飽きが来ていた。

自分は現在同じような事務作業を淡々とこなしている。仲のいい同僚はいるが、彼の顔を見るといつも会社のことが頭にちらつく。プライベートとして満足に関われる人は大学仲間以来いないかもしれない。

今の生活は可も不可もないといったところだ。それなりに話せる人がいて、それなりの収入があって、それなりの自由な時間がある。「それなり」に生きるには十分だ。ただ、そんな生活にも飽きてきた。淡々と毎日をこなしていくスタイルには彩りがない。なんとなく心が枯れていくような気持ちがする。

都会の夜景を綺麗と思っていたのはいつまでだろうか。食べる料理を笑顔で美味しいと思えたのはいつが最後だろう。

「飽きが来た」というくだらない理由で自分は転職の道を選んだ。でも、なぜだかこの選択はしっくりとくる。


引っ越しは来週だ。荷物の整理は事前に済ませておかないと、と思い作業を始めた。

机に散らかっている会社の資料。床に落ちている靴下の片側。あまり好きではないが捨てられない同僚からもらったビール。自分は要らないと思いながら、なぜかまだとっておきたいとも思う。自分の中の起こり得ないであろう可能性を捨てきれず、目の前のことに集中しきれない。一人暮らしだと色々なことが中途半端になる。

この際、悪い習慣を捨て去ろうと思い、要らないものは全て捨てることにした。

机の資料はもう過去のもの。靴下はやっぱり片方しかない。もったいないがビールも飲まないで捨てた。なんだか心が軽くなった気がした。

床の上が片付いたところで、タンスの整理をすることにした。

タンスは4段になっていて、下から2段は冬服が、上の2段は小物などがしまってある。

冬服はここ数年一切来ていないものがあったのでそれは処分した。小物のところはかなり散らかっている。財布、ハンカチ、タオル、電池のない目覚まし時計。捨ててもいいと思いながら捨てられない、中途半端なものたちが集まっていた。我ながら見た目は酷い。

そこで一つ、有線イヤホンが自分の目を奪った。もともとは真っ白だったが、他のものと擦れて色が黒くなっている部分がある。ケーブルは絡まっていてこれで音楽を聴くのは面倒と思った。ただ、自分はその面倒な作業を完遂し、これである一つの曲を聴くことにした。

部屋の掃除はいったん中止し、音楽を聴くことに集中する。この音楽は、会社に入社して数か月経ってから、同僚に勧められた曲だ。なぜかこの曲は心をつかまれ、聴いている人の心を豊かにさせる。一時の至福を得られるとてもいい曲だ。

そんな曲も、当時の彼女がいなくなってから聞かなくなった。

ふと出てきたこのイヤホンも彼女との間で買ったものだ。ある夜、彼女がどうしてもあるラジオを一緒に聴いてほしいと言ってきた。「電車の中で聴こう」と言ったものの、そのときお互いイヤホンやヘッドホンを持っていなかった。「家に帰ってから聴けばいい」と言ったが「今じゃないとだめなの!」と小学生のような勢いで食い下がってきた。仕方なく近くにあったコンビニで一番安い有線イヤホンを買い、電車でそれを一緒に聴いたのだ。(今になってもあんなに食い下がってきた理由がよく分からない)

それ以降、家にはもっと性能のいいイヤホンがあるにも関わらず、なぜかコンビニで買ったそのイヤホンでお互いの好きな曲を聴き合い、歌詞の意味を語り合っていた。気づけば外は暗くなっていて、色々することが面倒になり、夕飯をコンビニで済ます、なんていう日常が当たり前になっていた。

音楽を聴きながら彼女のことを思い出した時、自分はとっさに音楽を止めてしまった。彼女と別れてから数年も経つのに、彼女との思い出が鮮明に浮き上がってきた。別れた理由はよくある話なのでここでは記さない。ただ、それがどんな理由であれ、後悔が残っているのは事実だ。

当時、心から笑顔になれない世界に一輪の花を置いてくれたのは彼女だった。当たり障りのない話をする社員とは違い、彼女の言葉には何か心にくるものがあった。それが顔やスタイルなどの身体的魅力に惑わされていると言われたらどうしようもないが(正直なところ少なからずそれはあっただろう)、それを除いてもすごく魅力に溢れた人だと感じた。


もう掃除をする気はなくなっていた。これ以上音楽を聴くのも嫌で、どうしたら良いの分からずにイヤホンを眺める。指先でまた絡まったコードをほどこうとして、ふと手が止まる。何も音がしない部屋に、自分の呼吸だけがやけに大きく響いた。その静けさの中で、あの日の彼女の笑い声が不意に蘇る。胸の奥がぎゅっと縮まり、視界がにじんだ。

ぽたり、と涙がコードに落ちる。しみが広がるようにこらえていた感情も溢れ出した。

2人で音楽を聴いていたときもこのコードはよく絡んだ。まるで「ほどくな」と言っているかのように。

思い出と後悔と、そして彼女の温もりが、この細いコードの中に絡まっている気がしてならなかった。



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