EP4
雨が降っている音がする。
鼻はイカれちまってるし、口も血の味しかしねぇ。
痛みで体の感覚もしっちゃかめっちゃかだ。
ただ音だけに包まれた世界。
それはどこか、走っているときの感覚に似ていた。
__あれ、俺ってなんで走るのが好きなんだっけ?
得意だったから、それも十分にあり得る。
親が手放しで褒めてくれたから、それもあるだろう。
でも、どれもなんか理屈くせぇ。
あぁ、そうか。
こうやって理由を考えることすらメンドクサイから、俺は走るのが好きなんだ。
なんだっけ、こういうのって、ギャクセツテキって言うんだっけか。
「それはね、本能って言うんだ、知らないとしたら、バカだね、お前」
バカって何だよ、いきなりだな。
それに本能って、動物じゃねぇんだからよ。
雨音が、少しだけ弱まる。
誰かが、俺に覆いかぶさるように話しかけている。
お袋か、妹のアホが迎えに来たのか?
だとしたらだっせぇな、俺。
「そうだね、だっさいよお前。自分を偽るなんて、人間臭くて叶わない」
人間様なんだからいいじゃねぇか。
じゃぁ何だ、本能のままに野糞でも垂れてろってことか?
「そっちの方がよっぽど、何かしらになれる」
声が近くから聞こえる。
腫れ上がって開くのが難しい目に、まず見えたのは朧な赤い光。
それからくゆる紫煙。
煙草だ。
それから獲物でも狙うかのような赤い瞳と、黒い髪。
声から女だということが分かる。
「じゃぁね、寝る場所を間違えてる、おバカな運び屋さん」
「____くっ、、、はっ、、、、、、待てよ、好き勝手言い___」
「文句は次、会えたら聞くよ。会えたらね。運命は偶然と必然の子供って言うし、もしかしたらね」
去っていく彼女が、一瞬だけ振り向いてこちらを見下ろす。
軍のブーツと、それに不釣り合いな黒いワンピース。それから軍服のよう、男もののジャケットを羽織っている。
「______待て、てめぇ」
その声は届かず、雨粒のヴェールの先に消えていった。
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「ただいま」
誰にも聞こえないように暗がりに向かって呟く。
それならばそもそも言わなければいいと思うが、習慣なので仕方ない。
家は二階にあり、一階は親父の友人の大家が住んでいたが、1年前に死んだ。
軍の奴らと揉めて殺されたらしい。
今はその大家の親戚が管理しているが、事あるごとに家賃の値上げをしてきている。
ここ以外に住むことができない俺らの足元を見てやがる。
おんぼろの外階段を転びかけながらようやく上ると我が家だった。
「あんたどこ行って、、、ってどうしたの!!」
「のぉわっ!!驚かせんじゃ___痛ってぇ!」
お袋が俺の肩をがっしりと掴んで睨んでくる。
肩は特に負傷していなかったが、あばらやら何やらが連結して軋む。
「あんたまさか、喧嘩なんてしてないでしょうね!!」
「___したらなんなんだよ」
「お父さんに言いつけます」
「死んでんだろうが!」
「死んでたって言いつけることぐらいはできるわよ、あんたね、暴力だけはダメって言ってるでしょう?」
「はいはい、分かってるよ。殴ってねぇし。俺が殴ってたら、こんなボロボロになってる訳ねぇだろ」
「なーにを偉そうなこと言ってるのよ、殴ったことないんだから、強いかどうかも分からないでしょう?」
「それはどっちの意見なんだよ、、、」
お袋が俺の腕を引っ張ってリビングに連れていく。
「痛ってぇてば!」
「男が弱音吐くんじゃないよ、なさけない」
「だったら男らしく喧嘩させろよ」
「それとこれは別なんだよ、別。分かってないね」
お袋が料理用の酒を持ってきて傷口に染み込ませる。
これ以上なんやかんや言われるのは嫌なので、電気が奔ったような痛烈な痛みを歯を食いしばって堪える。
治療とも呼べない処置が終わると、お袋が暖かい紅茶を出してきた。
それはいつも、「座って尋問に答えろ」という暗号でもあった。
「それで____あんた、もしかしてバレたの?」
それは運び屋の件を言っているのだろう。
「ちげぇよ、そんなヘマはしねぇ」
「ヘマとかじゃないのよ、もう絶対にやらないって言ったわよね!?お金はなんとかするって言ってるでしょう」
「なんとかってどうすんだよ、お袋の実家はもう頼れねぇんだろ?」
親父はもともと、創立したばかりの帝国大学、といっても連邦政府時代からあった大学の研究員だった。
その時から反帝国政府派として目をつけられていた親父は、研究論文の些細な文言を反政府的危険思想だと指摘され、解雇となった。
それでも何とか命と財産は守ったが、不運なことに親父はウーシアへの適合が認められた。
どこから、誰がその情報を掴んだのかは分からない。お袋も、俺も、親父が適合者なんて気づかなかった。
ウーシア適合者は軍隊への入隊が義務となるが、それを断った親父は俺を庇って死んだ。
そうして、今、スクライヤ家は財政難に陥っている。
反政府的思想を疑われるこの家を、誰も支援しようなどとは思わない。それがお袋の親だとしても、だ。
「とにかく、なんとかするわよ」
「運よく仕事がみつかったところで、す、すぐに追い出されるのが目に見えてるだろ?」
俺は、声が上ずるのをなんとか抑える。
泣きそうだ、なんてお袋に絶対バレたくない。
俺は知っている。
お袋のなんとかするというのは、自分の体を削ることを意味している。
今も、この家でなんとか飯を食えているのは、お袋がそういうことをしているからだ。
隠しているつもりだろうが、体中にできた痣と、外に出るときに黄色のスカーフを腰に巻いているのを見た。それは私娼であるというメッセージだ。
もともと貴族ではないものの、それなりに財を築いた家に生まれたお袋。
そんなお袋がしていることを思えば、運び屋なんてものは大したことではない。
「とにかく、運び屋はもうやめなさい。命の危険だってあるのよ。次やったら、その脚ちょん切るからね」
お袋は、俺の頭を見てそう言った。
きっと違法薬物のことを指しているのだろう。
「____分かったよ」
「嘘ね。ぜーったいに分かってない。あんたは自由に生きなさい。家のことは気にしなくていいから」
「自由?親父が自由に生きたから、こんなことになってんだろうが!黙って帝国万歳って言っておけばよかったんだ。お袋も、リルネも結局苦しんでるじゃねぇか!自由になんて、生きたから___」
いつの間にか高揚して、痛む肺も気にせず声が大きくなっていたらしい。
「おにぃちゃん、、、」
寝ていたはずの妹のリルネが、不安そうにリビングの入り口に半分隠れるようにして立っていた。
俺ははっとしてお袋の顔を見る。いつも強気を崩さないお袋が、申し訳ないような、体が痛むような、そんな沈鬱な表情をしていた。
「_____生きたいように生きろって親父も言ってたよ、でもな、どの口が言ってんだって思ったら、俺は、俺は、、、親父が死んでも泣けなかったよ、お袋、ごめんな」
俺はそう言って、ゆっくりと立ち上がり、リルネの頭を撫でる。
妹は兄が怖いのか、震える手で、それでも俺の腰にぎゅっと抱きついた。
それから俺は玄関を出て、外階段を転げ落ちるように降りた。
そして、走った。
どこまでも、どこまでも、遠くに行ってしまいたかった。