第8話
箱庭の中に吹く風は、どこか生温く、呼吸すら億劫にさせるほど停滞していた。
待っても、待っても――リセットは起きなかった。
マユの精神はすでに限界を迎えていたはず。
追い詰めて、脅して、絶望の淵にまで引きずり落とした。
あとは、そのまま原作を守る為に死を迎えるだけだった。
そのはずだったのに――
「……ふざけんなよ……」
声が、思わず漏れた。
喉の奥で煮え立つような苛立ちが、喉元まで競り上がってくる。
“あいつ、自分だけ生き延びようとしてる?”
“アーベルを放置して?”
怒りというより、もはや“呆れ”だった。
原作を守る為にすんなり死ねば、それでよかった。
なのに、まるで物語を降りるみたいに、途中で投げ出すつもりなのか。
箱庭の空気が、どんよりと重たく沈む。
私の感情に反応するかのように、空間が軋みはじめた。
限界だった。
私はその重たい空気を裂くように、空間ごと引き裂いた。
バリ……ン、と破裂するような音。
視界を焼くような光が走る。
眩しさの中に飛び込んできたのは――
乾ききった荒野と、その中心にぽつんと佇む、一人の少年だった。
……誰?
その存在は、明らかに“ここにあるべきもの”ではなかった。
風にそよぐ、雪のように白い髪。
横顔は整いすぎていて、まるで絵画から切り出したようだった。
……そして、まつ毛に残る微かな水滴。
泣いていたのか。
それでも表情は、あまりにも静かで穏やかで――
まるで、何かを“すべて受け入れた者”の顔だった。
その姿に、一瞬、私は息を飲んだ。
脳が判断するより早く、視線が釘付けになる。
……違う。
今はそんな感傷に浸ってる場合じゃない。
私は、ぐっと心の中で自分を叱りつけると、意識を切り替えた。
いつもの調子。いつもの余裕。
それを装い、声をかける。
「そこの少年?少しだけ聞きたい事があるんだけど〜…」
なるべく軽く、明るく、冷静に。
距離を測るように一歩ずつ近づくと、少年がこちらに気づいた。
「あ、ぁあ。また迷い人か……。」
少年はすぐに袖で目元を拭って、そっとこちらを振り返る。
その動作にはどこか気品があって、年齢不相応な雰囲気すら纏っていた。
「ここら辺にさ、青髪のふわふわした女の子見なかった?目が死んだ魚のような子…」
あくまで冗談めかして、軽く言ったつもりだった。
だけど――
少年は、私の顔を見た瞬間に、ぴたりと動きを止めた。
その目が、まっすぐにこちらを見ていた。
いや、見ていたのは“私の奥”――何かもっと、深くて、触れられたくないところのような気がする。
目を見開いて、何かを見抜いたように、息を止めたまま動かない。
まるで、“全てを知っている”と言いたげな。
もしくは、“復讐の相手”に出会ってしまったような――そんな反応だった。
空気が張りつめていく。
少し前とは、まるで別の意味で、呼吸が苦しくなる。
え……なんなのコイツ?
てか、こっちは質問してる側なんだけど?
無視して睨み合ってるつもり?それともただの沈黙?
さっさと答えてほしい。イライラする。
そんな思考が喉まで上がりかけたとき――
「……答えてやろう。」
その声は、鼓膜を冷やすような重たい静寂を引き連れて、ゆっくりと響いた。
さっきまでのあたたかい声色は、跡形もなく消えていた。
低く、静かで、底知れない。
まるで、“この世界を裁く者”が言葉を紡いだかのようだった。
「ハッ……!?」
息が詰まる。
肺が圧迫されたような感覚。
その瞬間、私は悟った。
――このガキ、私の考えを読んだ。
「そうだ。貴様だな?彼女をあんな目に追いやったのは。」
――ズンッ……!
言葉と同時に、まるで重力が増したかのようなプレッシャーが肌にのしかかってくる。
足元がひび割れる錯覚すら覚える。
バレてる。完全に……バレてる。
私の仕掛けた異空間も、マユを追い詰めた手口も、全部。
「あ、これまずいやつだ……」
心の奥で警鐘が鳴る。
でも、もはや遅い。
「なぜあんな仕打ちをした。なぜ異空間へ飛ばした。」
少年は一歩――たった一歩踏み出すだけで、空気が爆ぜたように感じた。
身体が思わず後ずさろうとするのを、ぎりぎりで堪える。
その瞳が、静かに、ゆっくりと私を覗き込む。
真下から。
神の審判のように。
冷たい金色が、私の奥を見抜いている。
言い訳も嘘も、すべてを焼き払うような視線。
……はぁ。
こういうタイプ、一番厄介なんだけど。
正義感で動くのはアーベルだけで充分なんだけどな〜……。
「彼女の恨み。代わりに我が執行する。」
その言葉が口にされた瞬間――
空気が震えた。
いや、違う。
風なんかじゃない。
空気“そのもの”が、鋭さを持ちはじめた。
全身を撫でる“気配”が、まるでナイフの刃渡りみたいにピリピリと肌を裂く。
ぞわり、と背中に電流が走る。
“何かが起きる”という確信だけが、全感覚を駆け巡った。
スッ――。
音はなかった。
けれど、“斬られた”感覚だけはある。
この場の世界が、たった一歩で異質なものに塗り替えられたような錯覚。
彼が、一歩、前に出るたびに。
世界の質量が変わっていく。
「……っ、」
無意識に肩が跳ねた。
警戒よりも、本能の拒絶反応に近い。
そして彼は、ゆっくりと腕を横に振った。
ただの所作。
ただそれだけなのに。
何もなかった空間が――歪む。
空気が、圧縮され、ねじ曲がり、そして生まれた。
白銀の剣。
まるで“そこにあることが当然”だったかのように、
気体が硬質化し、鋭利な刃へと変貌していた。
「……ッ!!」
心臓がひとつ跳ねる。
嘘でしょ。
こいつのスキルって、心を読む系じゃなかったの?
精神干渉とか、念話系とか……そういうんじゃないの?
なんで、武器が出てくるんだよ!!
しかも――この一瞬で!?
「……最悪。」
つい、呟いてしまった。
そう、最悪。
あーあ、やっぱりね。
あの外見から、なんとなく予想はしてたけどさ。
こいつのスキル、やっぱり――【神聖】。
瞬き一つの間に、世界が傾いた。
視界が、スッとスライドするように流れていく。
あれ……なんか、視点が変じゃない?
……下に、自分の体が見える。
足元にある、首のない体。
これ、私の首が――宙を舞ってるってこと?
あーあ、やられた。
でもまあ、死んではいない。
この感じ……
以前と同じで、また起き上がれるでしょ。
というか、この攻撃方法って神聖スキルによる象徴的な一撃ってやつだよね?
ルーズベルもこんな素振りしてたもんな〜
相手の罪を断罪する演出、見せつけるような“裁き”。
ああいう演出、私は嫌いじゃないんだよね。むしろ――大好き。
死んだフリでもしとこっかな。
このまま静かに倒れて、様子を伺う。
しばらく演技して、隙ができたら――脱出する。
「……ほう、死んでないのか。」
少年がぽつりと呟いた。
「どうやら貴様の体は、ただの“器”のようだな。」
……は?
なんで死んでないって分かったの?!
そうか……瞳か……っ!!
「考えさせる暇など、与えぬ。」
「――っ!」
動こうとした瞬間、
世界が血に染まった。
ズドン、と鈍い音がして、気づいたら脳が潰れていた。
剣じゃない。拳。骨まで砕ける打撃。脳漿が飛び、視界が真っ赤に染まった。
「……が、っ、は……!」
起き上がるが、先程の衝撃が酷すぎて視界がぼやける。
あーもうダル…
「何度も何度も、“死”を知れ。」
今度は、全身が串刺しになった。
空中から落ちてきた無数の光の杭が、肩、肺、心臓、腹を貫通して地面に縫い止める。
喉から悲鳴も出ない。ただ、赤黒い血が泡のように吹き出た。
視界がぐるぐる回って、内臓が引きずり出される感覚に嘔吐しそうになる。
いや、吐いた。自分の歯と舌と胃液の混ざった塊。
ちょっと、勘弁し……
「まだだ。」
次の瞬間には首が切断されていて、地面に転がった頭から、自分の立ち尽くす身体が見えた。
だが、少年はその身体を焼いた。
聖なる火。骨さえ残らない。
「ふざ、けんな……!」
ようやく言葉が出たと思えば、
今度は目玉に一直線に伸びる黒い棘がズブリと突き刺さる。
「がああああああああッ!!」
絶叫とともに、内側から爆発する。
脳が破裂する。
五感が一斉に壊れて、もう何もわからない。
「あんの……糞アマ……!!」
口が動いている。意思とは関係なく。
さっさとアイツが死ねば終わる事だ。
だが、あまりにも耐えられそうにない。
誰か……助け……
……光。
白い光。
腹が光ったかと思えば、内臓が蒸発した。
体の中で爆竹が弾けたような感覚。
肋骨がはじけ飛び、皮膚が内側から裂け、赤い花が咲いたみたいに肉片が舞う。
最後に、少年の冷たい声が耳元で囁く。
ふざけ……
「次で、終わると思うな。」
その言葉を最後に、
私の意識は、ふっと途切れた――
目を開けると、そこは……
……教室だった。
机。窓。蛍光灯。
……現実の、あの、教室。
見慣れた景色。聞き慣れた雑音。
でも床には――ポタリ、と音を立てて滴る何か。
「……血……?」
思わず震える手で、自分の頬をなぞる。
指先を伝うのは、温かい液体。
……でも、それは血じゃなかった。
汗。
びっしょりと、冷たい汗だった。
……夢? 幻覚? それとも現実?
いきなりすぎて、思わず叫びそうになった声を飲み込む。
全身に残るのは、“さっき”の恐怖と痛みの名残。
でもここはもう、バトルも裁きもない、物語のはじまり。
私はゆっくりと視線を横に向ける。
アーベルが座っていた席の近くには――彼女がいた。
マユは、原作通りに振る舞っている。
何事もなかったかのように。
「後であのクソガキの事……聞いてやる。」
ぽそりと呟くけど、モブの発言なんて、誰も聞いちゃいない。
それでも、私は知ってる。
さっきの出来事は、全部……現実だった。
だが、ちゃんと戻ってこれた。
いつものはじまりに。
……何度目だっけ、これ。
数えきれないほど繰り返してきた、序章の風景。
ふぅ、と息を整え、私は立ち上がる。
体の芯にはまだ痺れが残ってるけど――
物語はもう、始まっている。
ここに居座っても、どうせすぐ死ぬし。
じゃあまあ、ロッカーにでも隠れておこっかな〜?
掃除道具をバンバン放り出して、モブの特権『変な行動してもバレない』をフル活用♡
だって私はモブ!!
誰も私の存在なんて覚えてない!!
最高の舞台で、推しを間近で観察できる唯一無二の席なんだから!!
私はひそひそとロッカーに滑り込む。
狭い空間。こもった空気。
でもその隙間から――ちゃんと見えるの。
原作通りに動く推したちが。
ナズナちゃんが、何をしようとしているのかも。
「さてさて、ナズナちゃんはどうかな?」
私はそっとロッカーの隙間に目を寄せる。
けど、やっぱり見にくい。
思わず隙間をグイッと広げて、がっつり観察体勢に入る。
この瞬間のために、何度も繰り返してきたんだから――
今度こそ、“正しい結末”を、私が見届けてやる。
そして始まる、待ちに待った物語。
これは、推しを救う物語じゃない。
推しを苦しませ、正しい絶望へと導くための――究極の再演。
モブとして。
傍観者として。
そして何より、誰よりも深く、原作を知る者として――
私は慎ましく、だけど確かに原作を見始めた。