第6話
明るすぎるほどの光が差し込む、人工的に整えられた静かな空間。
一見、心地よさそうな庭園──けれどどこか、現実感のない「綺麗すぎる世界」だ。
花は風もないのに揺れて、鳥の声はまるで録音のように繰り返される。
そんな歪な楽園の中心に、アユミは立っていた。
「マユ、最終テスト!全然重要なシーンじゃないけど、だからこそ、大切なものってあるよね!」
満面の笑みで振り向いたその姿は、まるで子供のようだ。
だけど――マユはその笑顔がいちばん不気味に感じた。
「え、あ、はい……。」
白いベンチの端に座っていたマユは、びくりと肩を震わせながら返事をする。
背後の草木が微かに揺れたような気がしたのは、風のせいではない。
彼女の恐怖が、景色すら撓ませていた。
「アーベルの『ナズナ、俺はこの先どうしたらいいんだろう』の続きのセリフはなぁんだ!」
ぱんっ、と手を叩き、軽い調子で訊ねるアユミ。
その無邪気さは、残酷さの裏返しだった。
マユは唇を噛みしめながら、一呼吸置き、答えた。
「……、はい。その次のセリフは…『……っ、私はアーベルが選んだ道なら全部肯定する。ずっと一緒にいるよ。』です。ここのシーンは普段毒舌なアーベルが、ナズナ…私に弱みを見せるシーンです。」
言葉は正確だった。
でも、それ以上に正確だったのは、マユの“演技”。
まるで、実際にその場で体験したような抑揚、マユ自身の感情を削ぎ落とした声音。
「うんうん!それでそれで?」
にこにこと、アユミは嬉しそうに身を乗り出す。
しかしマユは、淡々と続きを口にした。
「そして初めて見せるそんな姿に、嬉しさと悲しさが混ざり、普段とは違う、苦しい笑顔を向けます。」
その瞳には、もはや“意思”がなかった。
すっかり、感情の抜け殻。
まぁこの答えは少し惜しいが、ほぼ正解だろう。
アユミは内心でそう呟く。
マユの声、表情、すべてが“演じる”ことに染まりきっている。
その様子を見て、思わずフンス!と鼻息を荒くする。
こうやって少しずつマユを殺していけば、ナズナちゃんになってくれるだろうし…道は長いぞ!頑張れ私!!
アユミは、目をキラキラと輝かせた笑顔で――
「じゃあほぼ正解だし〜!物語始めましょっか!」
「…!」
突然、アユミはマユの腕を引き、地面を蹴るようにして放り投げた。
柔らかく包んでいたはずの箱庭の景色が、ビリッと裂け始め、彼女の身体を空間の外へと弾き飛ばす。
まるでガラクタを捨てるように、容赦なく。
目の前で死んで欲しくないし……実際、この箱庭で何日過ぎたのかも分からない。
アユミはそう呟き、スカートを直しながら、遠く消えていくマユの影を見送った。
芝の上に残った足跡すら、数秒で消えていく。
すべてが、アユミの思い通りの箱庭。
さぁマユよ!箱庭の実験対象として頑張ってくれ!
空に向かって満足げに笑うアユミの顔に、あのいつもの“無邪気な笑み”が、深く深く刻まれていた。
───────────────────
いきなり、何かに引きずられるような感覚と共に――アユミの手によってマユは箱庭から放り出された。
眩しい光が一瞬だけ瞼の裏を焼き付けて、次に見えたのは…黒ずんだ空。
まるで燃えかすのように煤けた雲が、空全体に広がっている。陽はなく、風もなく、ただ重たく湿った空気が身体に絡みつくようだった。
ごつごつとした岩肌の地面に叩きつけられ、全身を打ちつける痛み。
荒れ果てた土地。草木も無く、地面には何かが焼け焦げたような跡があちこちに残っていた。空気は鉄臭く、かすかに生臭さすら混ざっている。
「……ここ、どこ……?」
何かがおかしい。ここは、私が覚えた原作の世界ではない。
けれど箱庭でもなければ、前世の世界でもない。
あまりにも不気味で、冷たくて、絶望的な場所だった。
早く、早く逃げなきゃ。ここにいたら、絶対に――
何か良くない事が起こる。と直感した。
震える膝を押さえ込み、無理やり立ち上がろうとした瞬間。
「ッぐあッ!!」
鋭い衝撃が、脳髄を突き抜けた。
右足首が、ありえない方向に捻じれている。
皮膚の下で、骨がズレた音すら聞こえたような気がした。
「だれか……っ、助け……っ!」
必死に絞り出した叫びは、空間に吸い込まれ、音のすべてが飲み込まれていく。
返ってきたのは反響じゃなく――
“ズズズ……ズ……ズ……”
重たく、湿った、肉を擦るような足音だった。
「……なに……?」
影が、ひとつ。
最初は熊かと思った。けれど、違った。
狼にも見えた。けれど、違った。
毛皮の間から剥き出しになった肉のような皮膚、
左右で高さの違う肩、ねじれたような足、
地面を這うように動く前肢――それは、まるで“人間の手”。
その異形の“何か”が、音を立てずにじわじわとこちらに近づいてくる。
「ッ、いや……来ないで……!」
呼吸が浅くなる。耳の奥で心臓が爆発しそうに脈打って、胃の奥がぐにゃぐにゃと捻じれる。
「誰かっ、誰か助けて――!!」
足を引きずり、這うようにしてその場を離れようとする。
でも、足首が痛すぎて、手も膝もすぐに血で濡れた岩に滑って崩れ落ちる。
その間にも、“それ”は一歩ずつ確実に迫ってくる。
一歩踏み出すごとに、地面が震える。
まるで、世界がその生き物の存在に耐えきれず、悲鳴をあげているようだった。
……誰も来ない……
そう気づいた瞬間、マユの表情から希望が剥がれ落ちる。
そうだ。
ここは原作の世界じゃない。もう、“物語”なんかじゃない。
だから――
せめて……せめて……
まともに死にたい。
悲鳴も出せずに食われるのなんて嫌だ。
目の前で、自分がぐちゃぐちゃにされていくなんて、そんなの、そんなの――
「やだ……やだやだやだ……!!」
崩れ落ちた地面の上で、マユは泣き叫んだ。
だけど、声はもう、どこにも届かない。
ただその“獣”だけが、彼女の命の匂いに惹かれるように、
ずぶずぶと黒い爪を引きずりながら、距離を詰めていた。
「っ、どこか、なにか……っ」
死ねる道具。
自ら命を絶てる何か。
それだけが、この地獄のような空間で、唯一“自分の意思で終われる手段”だと分かっていた。
けれど――見つからない。
転がっているのは石くれだけ。岩はどれも鋭利さがなく、喉を裂くどころか、手を傷つけることすらできない。
終わる方法が……ない。
絶望に染まりかけたその時。
ぬるり。
太ももに、柔らかく、どこか生温い、湿った感触。
まるでナメクジが這うような気味の悪さに、思わず声を漏らしながら身体を仰け反らせた。
「ひッ……!」
粘液は透明で、ねっとりとしていた。
ゆっくりと重力に従って滴るそれは、ただの水なんかじゃない。
これは、“それ”の――涎だった。
ぞくりと全身に鳥肌が立つ。
背骨に氷柱でも差し込まれたかのように、身体が動かなくなる。
視線を上げる。
そこにあったのは、“それ”の顔。
もはや形容しがたい。
眼は、ぎょろりと丸く、光も感情もなく、ただひたすらに“こちら”を見ている。
口は笑っているようにも見えた。
喉の奥から漏れる音は、言葉でも声でもなく、唸りでも鳴きでもなく――悦び。
エサを目の前にした、獣の“歓喜”だった。
「はっ……はっ……、だ、誰か……」
口だけが震え、声にならない声が喉を掠れる。
アユミに抱いた恐怖なんて、所詮“言葉の範囲”だった。
今、目の前にあるのは――本能の崩壊。
身体が、思考が、心が、“それ”の前で凍りついていく。
巨大な口がゆっくりと開かれる。
その奥は漆黒で、光が一切届かない奈落。
咀嚼された何かの匂い。胃酸と血が混じったような腐臭。
牙が見えた。
白くなどない。
赤黒く染まり、ギザギザと鋸のように並んだ歯。
食われる。
このまま、生きたまま、痛みも感じたまま、ぐちゃぐちゃに砕かれて、喉に流し込まれる――
「……ああ、もう……」
呼吸すら忘れた。
声も出ない。
心臓の音だけが、やけにうるさい。
目の前に迫るその口が、世界のすべてに見えた瞬間――
ズバンッ!!!!
風を裂く鋭音と共に、“それ”の首が音もなく吹き飛んだ。
ぐにゃりと倒れる獣の身体。
内側から溢れる血と肉の塊が、地面を染める。
熱い匂いが鼻を刺す。
時間が止まったようだった。
思考も、視線も、全てがその場に縫いつけられて動かない。
耳を打つように響いたのは――
少年の、高らかな声。
「ハハハ! 我が来たからには、もう安心していいぞ、小娘!」
まるで物語の一節みたいな台詞と共に、獣の崩れた死骸の向こうから姿を現したのは——
光だった。
いや、光に包まれた“人”だった。
朽ちた肉の山から差す陽の光が、ひときわその身体を照らす。
瞬間、世界がそこだけ止まったように見えた。
彼の髪は、雪のような白髪。
触れたら溶けてしまいそうなほど繊細で、それでいて一本一本が陽の光を反射し、淡くきらめいていた。
頬をかすめた風に、柔らかく流れる髪が舞うたび、まるで舞台の幕が揺れているようにすら感じられる。
肌も雪のように白く、指先から足の先まで、線一本に無駄がなかった。
透明感すらある肌が、空気に溶け込むように儚い。
今にも、触れたら消えてしまいそうだった。
けれど――その瞳だけは、圧倒的だった。
黄金。
まるで溶けた金属をそのまま閉じ込めたような、濃密で、凶暴なまでの輝き。
その光が、ただ“そこにいる”というだけで、全ての視線を支配する。
目が離せなかった。
いや、離せるわけがなかった。
この世の全てが背景になってしまうほど、その“少年”は美しかった。
その顔立ちは、どこかルーズベルに似ていた。
けれど彼よりも少し幼く、少年らしい柔らかさを残していた。
それなのに、醸し出す存在感は、まるで世界の“頂点”に立つ者のようだった。
荒地に立つ彼の足元には、花も草も風も、息を吹き返すように輝く。
雲は動きを止め、風は彼を避けて吹いた。
周囲の色さえ淡く滲み、彼を引き立てる背景と化していく。
私は、呼吸を忘れていた。
彼の一挙手一投足が、目の前の世界すべてを支配していた。
一歩進めば大地が息を呑み、指を上げれば空が脈を打った。
ただの“立ち姿”が、神の降臨に見えるほどだった。
あまりにも……
あまりにも綺麗すぎて、現実感がなかった。
しばらくのあいだ、感謝の言葉すら出なかった。
脳が動いていなかったのだ。
ただ、呆然と、彼の存在を見つめていた。
ようやく「ありがとうございます」と言葉を絞り出した時、彼はふっと胸を張って、満足そうに笑った。
「良い!勇者ともあれば、このような行為は当然の事だ!だが、もっと褒めよ!!!」
その声は空に響き渡り、鳥たちさえも黙らせる覇気を纏っていた。
私は目を瞬かせる。
……勇者?
なにを言ってるの、この少年は。
勇者はアーベル。
それが“原作”の、決まった設定だったはず。
じゃあ、この目の前に立つ、あまりにも美しい少年は……いったい、何者?
訝しむ私の顔をのぞき込んできた少年は、まるで悪気もなさそうに口を開いた。
「ほほう? 随分と愛くるしい顔立ちだな」
……はい、失礼。
助けてくれた“救世主”のはずなのに、さっきの感謝を撤回したいくらいの不快なセリフだった。
そのうえ、無遠慮に距離を詰め、こちらの顔をじろじろと見つめてくる。
この子供……なんか生理的にムリなタイプかもしれない。
表情にも出ていたのだろう、少年は顎に手を当て、妙に芝居がかった口調でさらに話を続ける。
「それにしても……なぜこのような小娘が、グランデオンにいるのだ?どこから来た?」
……ぐ、グランデオン?
聞いたことない。
少なくとも、原作には一言も登場しない名前だ。
不信感と困惑が混ざった表情を浮かべたまま、私は黙り込んでしまう。
そんな私の態度が気に食わなかったのか、少年は大げさに肩をすくめて腕を広げた。
「そんな黙っていては、救えるものも救えないではないか!」
アメリカの深夜コメディか?と思うほどの芝居じみたリアクション。
声量もやたら大きく、遠くの枯れ木に止まっていた鳥がバタバタと飛び立った。
はぁ……本当にこういうキャラ苦手だ。
どこかアユミにも似ている気がする。自分本位で、空気を読まず、世界を自分のものだと信じて疑わない。
「……しょうがない。これはあまりやりたくは無いのだが……」
少年がふいにトーンを落とす。
それは、今までの軽々しい声とは全く違った。
低く、深く、響きのある声音だった。
そして——その指が、空を切るように軽く弾かれた。
パチン。
乾いた音が、空気を切り裂く。
その瞬間——
金の瞳が、光った。
いや、“光った”というより、“放った”。
瞳から迸るように神々しい輝きが走り、辺りの景色が一変する。
空気が震えた。
重力が変わったような錯覚に襲われる。
枯れた草木がたわみ、空が、光に焼かれて溶けていくように感じた。
この世界の“格”が一段、上がった気がした。
少年の身体が、まるで太陽を内に抱えたかのように発光する。
その眩しさに、思わず目を細めた。
そして、彼の口から告げられたのは信じ難いセリフだった——
「スキル……【神聖】!!」