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第5話

……何度目の原作序盤だよ。


あきれたように溜息をついて、私は疲れた顔で空を仰いだ。

原作を守るためとはいえ、何度も繰り返し、毎度毎度メインヒロインの自殺を“目撃する”羽目になるのは、さすがにメンタルにくる。


いや、まぁ、“慣れ”てきた自分もどうかとは思うけど。


ガシャーン、ドバッ、ぐしゃっ、のフルコースはもうお腹いっぱい。

原作を守るための尊い犠牲……と美談にしても、映像付きはちょっとしんどい。


……次からはさ、私の見えないところで死んでもらおっかな。


そんな風に考えてしまった自分に、ふふっと乾いた笑いが漏れる。

だってその方がメンタル的にずっと楽でしょ?

飛び散る音も、表情も、いちいち見なくて済むし。


どうせ死ぬなら、もうちょっと静かに、綺麗に、さ……


ふぅ……と、わざとらしく頬杖をついて息を吐く。


まったく……マユの世話ってば、ほんっっっとに焼ける。

けどまぁ、私がいないと何もできない哀れな子だし?

だったら、“ナズナが正しく”動くための学び場所ぐらい、整えてあげなきゃね。


私は目を閉じ、頭の中にゆっくりと設計図を描いていく。

どんな素材で、どんな気温で、どこに何をどう配置して……。

光は?空気は?生活導線は?ついでに感情の揺らぎすらコントロールできるなら完璧……


……っていうかこれ、“僕の○○アカデミア”のヤ○○モじゃん!?

唐突に脳裏をよぎったのは、あの胸からモノ作るヒーローのあの子。

「創造」ってロマンあるけど、実際は脳味噌フル稼働の鬼タスクなんだわ……って今さら共感しちゃった。

“個性”って、しんどい。


けど彼女よりも精密に、繊細に、完璧な空間を創る。

そうしないと“原作”通りにマユも上手く動かないからね。


私は静かに目を開け、もう一度、脳内の設計図をなぞる。

完璧な“空間”を創るために。

その間、マユ…ナズナちゃんは私の望通りに動いてくれた。


「アーベル!ルーズベルよ!久しぶりに会えて嬉しいわね!」


少し棒読みだけど…今回は別に関係ないや。

頭の中で、設計がスラスラと組み上がっていく。

想像だけで精密に練り上げた構造体。

マユ――いや、ナズナちゃんが“彼女らしく”生きていける場所。

彼女が暴れずに、私の望んだ形で“愛され”、そして“壊れて”いくための。


そうだな……名前は【箱庭】にしようかな?

大仰な言い方で尊い響きに聞こえるけど、実際のところは、私の記憶の中を形にしただけ。

“レゾナンス・リンク”に心酔したオタクの脳内に過ぎない。

それでも、意味はあるの。私にとっては。


ふ、と一つだけ空笑いが漏れる。

この空間の設計に夢中になっていたせいで、うっかり忘れていた。

原作では、そろそろルーズベルの攻撃が始まる頃だ――


ドンッ!!


案の定。原作通り、私は盛大に吹き飛ばされた。

肺に衝撃が走り、骨が軋み、視界が一瞬白く染まる。


けれど、不思議と痛みは薄い。

ああ、はいはい。これもいつものね。

“これ”すら、もうルーティン。


ふふっ……なんだか心地よいわ。

もはや日常、って感じ?


アユミは教室の床に打ち付けられ、1面が泥に汚れており、腕の骨がひしゃげていたが、何事もなかったかのように、ゆっくりと、いつものように、立ち上がる。


骨の折れる音が、内側からポキポキと鳴り、泥がズルズルと腕の形を造ってゆく。

赤黒く染まった血が指先からポタリ、ポタリと落ちたかと思えば、足元の泥へと変わってゆく。

しかしアユミの表情は、まるで散歩にでも行くような顔だった。


「マユ、今回は原作通りに進めなくていいよ。進めるつもりないし。」


微笑みながらそう言うアユミの瞳には、温度がなかった。

ナズナ――いや、マユは、ビクリと肩を震わせ、そこで動きが止まる。

頭の奥が警告音を鳴らしている。


これはマズい。

逆らってはいけない。


「こちらへいらっしゃい。次、原作通りに進めるためにお勉強しよっか。」


その声色は穏やかなのに、背筋が凍る。

自分の中に残る、何度も何度もアユミに追い詰められ、壊された記憶が――マユを強制的に動かした。


ギィ……ギィ……と、まるで操り人形のようにぎこちなく歩み寄る。

マユの足は勝手に動いていた。

止められなかった。怖くて、止められなかった。


その手をアユミが握る。

それはひどく優しく見えて……けれど、あまりにも力強くて。


ドッ!!


視界が一瞬、宙に浮く。

アユミの怒りがこもった力で、マユの体は思いきり箱庭の空間へとぶん投げられた。

人形のように投げ出されたその身が、奥の壁に当たって鈍い音を立てる。


「あれ、ちょっと乱暴だったかな?ははっ。」


振り返りもせずに、教室に乾いた笑いだけを残して。

アユミは音もなく、その場から姿を消した。


──────────


少しだけ、暖かい。

人肌に触れるような優しい空気。

……悪くない。むしろ快適なくらい。


けれど、心は重く沈むばかり。

どれくらい、時間が経ったんだろう。

時間感覚さえ既に狂ってしまってる。


ふかふかの椅子に身体を預けて、私はまた――“彼女”が出してきた原作の漫画を、ゆっくりと読み返している。

ページをめくる指先が、少しだけ震えている。寒さじゃない。ただ、怖いの。


ナズナの身体は本当に、恐ろしく繊細で、座っているだけでも背筋や肩が痛む。

きっと、もともとこんな激しい物語に耐えうる作りじゃなかったんだと思う。


なのに、彼女は、それを知っているのに、テストを繰り返す。

私が“どれだけ原作を覚えたか”、どこまで“原作通りに動けるか”。


彼女の存在は恐ろしいけれど……答えなきゃいけない。

怯えながら、呼吸を整えて、彼女の気が済むまで答えるしかない。

あの声を聞くだけで、胃がきゅっと縮まる。心臓がざわつく。


あぁ……帰りたい。

いや、帰れる場所なんて、もう無いのかもしれないけれど。

どこか遠くへ逃げてしまいたい。

それなのに、この箱庭は意外にも心地よくて、それがまた厄介で……。

この場所がいくら快適でも、彼女がいる限り、私にとっては監獄だ。


……ねぇ、いつまで続くの?

この地獄の読書感想文みたいな拷問。


「さぁ!マユ、ナズナちゃんが一番最初に放つ言葉はなんでしょう!」


不意に響く声。

それは無邪気に見せかけた、狂気の号令。


また始まった


その瞬間、心臓が、ドクンと跳ねた。息が止まった。

頭の中がぐらぐらと揺れる。

まだ――まだ心の準備ができていないのに。

でも、答えないわけにはいかない。でも間違えたら、また……また、あの“罰”が……。


私は、震える指先を無理やり押さえつけて、唇を濡らす。

だけど、口の中はカラカラに乾いていて、喉が詰まる。吐き気すらする。


「あ、『アーベル!ルーズベルよ!久しぶりに会えて嬉しいわね!』……」


声がかすれる。震えながら、何とか言葉を吐き出す。

“正解”か“不正解”か、それは彼女の判断次第。


自分の声が空間に吸い込まれていくその一瞬一瞬が、拷問だった。


背筋を冷たいものが這う。

室温はちょうど良いはずなのに、震えが止まらない。

下唇はガタガタと震え、顎がカクカクと揺れる。自分の骨の音さえ、うるさい。


胃の奥がぎゅうっと捻じ曲げられるように痛い。

喉の奥がひゅっと絞まって、呼吸が浅くなる。


――お願い。正解でありますように。

そうでなければ、この先に待つのは……また、“あの”恐怖。


彼女は膝を組み、ゆっくりと、重たい溜息を吐いた。

その音が、部屋の空気ごと沈めていく。


「ちーーーがーーーーうーーーーーー……、」


その声が、頭の奥で鈍く反響する。

もう慣れたはずの響きなのに、心臓が跳ねた。

背中に、ぴたりと氷の板を押し当てられたような感覚。


「……っ!」


自然と呼吸が浅くなった。

言い訳も反論も、何も浮かばない。ただ、恐怖だけが喉を塞いでいた。


「何回言えばわかるの?セリフの文字自体はあってるけど、抑揚が違うってば。『久しぶりに会えて』で一旦落ち着いて、『嬉しいわね!』で嬉しい感情を一気に表現するの!それに動きも違う。『会えて』の所でアーベルに向き直し、『嬉しいわね!』で満面の笑みになるの!」


言葉のひとつひとつが、ナイフみたいに鋭く突き刺さってくる。

「できるまでやればいいの」と言わんばかりの指摘。完璧な表現力を当然のように求められる。


けれど私は、ただの大学生だった。

舞台に立ったこともないし、記憶力も良くない。

そんな要求に、応えられるはずが……ない。


「…、、、」


どうせ、伝えても無駄。

「わからないんです」「そんなの無理です」……そんな言葉を出したところで、

彼女は“そんなこと知らない”って顔で笑って、平気で“罰”を行う。


だから私は、何も言わなかった。

もう、諦めるしかなかった。

次に来る痛みを、震えながら受け入れる準備だけを、無意識に始めていた。


そんな私の感情を踏み荒らすかのように彼女は喋り続けた。


「その笑顔はまさしく天使!なんてったって、この原作者の初恋の相手をイメージしたキャラだったんだよ!だからどのキャラクターよりも想いが入ってるの!!」


少女漫画のように胸に手を当てて、うっとりと語るその姿に、私はついていけないと感じた。

それはあまりにも私から遠すぎて、気持ちが悪いほどの執着だった。


……原作者の初恋?

そんなの、知るわけがない。

原作者の考えなんて、覚えられるワケないじゃない。


そう呟いたつもりだったのに、彼女はそれすらも見透かしていたみたいに、フンッ!と鼻で笑った。

まるで虫けらでも見るような目だった。


「というか、君ってアニメ派だったんでしょ?だったらさ、セリフの抑揚ぐらい分かるでしょ?覚えるでしょ?ナズナちゃんの動きぐらいわかるでしょーー?」


軽やかで明るい声なのに、ひとつひとつの言葉が心をえぐってくる。

その「わかるでしょ?」に込められた無邪気な期待が、どうしようもなく残酷だった。


「……ごめんなさい……。」


たったそれだけの言葉すら、声にするのがやっとだった。

目尻に涙がにじむ。

全身が震えていた。寒いわけでもないのに。


「はぁーーーーーーーーー、そうやってすぐ泣いたら許されるとでも思ってるの?君の転生前が何歳か知らないけど。泣けば許されると思ってるだなんて、転生前は小学生か幼稚園生?」


彼女の声は変わらず軽やかで、笑顔すら浮かべていた。


「……、」


その瞬間、ぐさりと刺さるような言葉が胸を貫いた。

言葉にできない。できるはずもなかった。

まるで踏みにじるように、最後のプライドすら捻じ曲げて笑ってくる。


私は転生前、ただの女子大学生だった。泣けば何かが許されるなんて、そんな子どもじみた考えはとうに捨てていた。

けれどそれでも、私は泣いてしまう。

身体が覚えてしまっているのだ。


怖い。あまりにも、怖い。


そんな私の沈黙すらも、彼女は都合よく受け取る。


「何回やっても忘れちゃうんだね、これはもうしょうがないよね?」


まるで、友達に慰めるような声色。

でもその言葉の中に、同情なんて一滴も含まれていなかった。


「私だってやりたくないんだよ?」


優しく眉を下げて、ほんの少し悲しそうな声を出す。

その演技の上手さが、逆に怖い。

この人は本当に“やりたくない”と思ってるのだろうか。

――いや、違う。この人は、これを“当然の義務”としか思ってない。


「でも君が一向に覚えないから、こうやるしかないんだよ。分かってくれるよね?」


笑った。

それはとても無邪気な、純粋な笑顔だった。

まるで“この世界で一番正しいこと”を言っているような顔。

けれど、その裏にあるのは明らかだった。


「全部、あなたのせいだから」――と。


私の中に染みついた罪悪感が、さらに深く沈んでいく。

“私が悪いんだ”と思わされる。

“私は覚えられなかったダメな人間なんだ”と、強制的に思わされる。


そして次の瞬間、空間が変わった。

教室に切り替わる視界。

そこには、私の推し――アーベルが立っていた。


だが――

そのアーベルは、私の知っている“優しいアーベル”ではなかった。


冷たい瞳。見下すような視線。

まるで私を“異物”でも見るかのような、敵意と憎しみを向けてくる。


「ま、待って……!次はちゃんとやるから!!」


懇願するように、声を振り絞る。

けれど、アーベルの眉一つ動かなかった。

それどころか――彼は躊躇なく、拳を振り上げた。


ゴッ。


最初の一撃が、頬骨に鈍く響いた。


「……いっ……、お願い、やめてください!」


返事なんてなかった。

返ってきたのは、さらに深く振り下ろされる拳、そして罵声だった。


ゴキッ。


腕が変な方向に曲がった。

喉奥がキュッと締まる。息ができない。酸素が足りない。


だけど――

心のほうが、何倍も、何十倍も痛かった。


「ひどいよ、マユ!私の愛しのアーベルに、こんな行動させるだなんて…!」


その声が聞こえた。


冴えない顔の彼女だ。


呆れたように、でもどこか芝居じみた怒りと悲しみを混ぜて、彼女は叫んでいた。


「私だって見たくないよ!?こんなアーベル、見たくなかったよ!?なのにさぁ……なんで君、間違えるの?バカなの?これじゃあナズナちゃんじゃなくてただの邪魔者だよ?」


……ふざけてる。


私は今、推しに殴られて、血まみれで、息もできないほど痛くて、心もグチャグチャにされてるのに――

彼女は自分のことしか言ってない。


「ねえマユ、私、可哀想すぎない?せっかく正しい世界に戻そうとしてるのにさぁ……君のせいでアーベル様がどんどん壊れていくの。辛い……ほんと辛い……!」


悲劇のヒロインぶる声が、アーベルの拳の合間にねっとりと絡む。


もう数えて何発目だろう。

殴られすぎて、右目は塞がり、唇は裂け、奥歯がグラついていた。

手足は血だらけで、痙攣していて、まともに力なんて入らない。


だけど、何よりも痛いのは――

私の「生きる理由」だったはずのアーベルが、私を“否定”していることだった。


好きだった。

守りたかった。

その人に、「いらない」って言われることが、こんなにも、地獄みたいに苦しいなんて――


「ごめんねマユ、でもこれは君のせいなんだよ」


彼女の声が、遠く聞こえた。


その言葉が、まるで“私の人生全部を呪っている”ように思えた。

こんなに痛いなら――


……いっそ、死んでしまえたら、どれだけ楽か。


「ふぅ、こんなんでいいかな?」


その声が空気を裂いて響いた瞬間、

まるでスイッチが切り替わったかのように、周囲の光景が変わる。

さっきまで殴られ続けた教室は消え、

心地よい温度と柔らかな照明が満ちた“あの空間”が再び現れた。


皮膚の痛みも、折れた骨も、ぐちゃぐちゃに腫れ上がった顔も、

すべてなかったことにされた。


だけど――


私の心は、もう、戻れない場所にいた。


目は開いているのに、涙が止まらなかった。

泣き止んでも、ジワッと滲むように勝手に涙が流れ続ける。


ここはどこなんだろう。

今は何時なんだろう。

私はいつまで、ここにいなくちゃいけないんだろう。


原作通りに進めば、アーベルには愛される。

ナズナとしての私が死ぬこともない。

だから――私は、それだけを希望に、必死に台詞を覚えた。動きを暗記した。


なのに。


ほんの少し。

ほんの少しセリフの抑揚が違っただけで。


愛してやまないアーベルから、

“人間”じゃないような扱いで殴られて、罵られて、突き落とされた。


これって……ただの拷問だよ。

どこにも救いなんてない、狂った拷問。


「原作を守るため」

「アーベルを救うため」

「ナズナとして完璧であるため」


そんなの全部、理由になんてならない。

どれだけ努力しても、ちょっと間違えただけで、全部が台無しになる。


こんなの……ただの拷問だよ……!!


私は疲労で少し意識がぼんやりとしていた。

重たい瞼が、視界を暗くさせていく。

気がつけば、どこからか心地の良い音が聞こえていた。


チクタク、チクタク、チクタク。


乾いた木の針が壁を叩くような、でも心を落ち着けるような、

どこか聞き馴染みのある音。


……時計の音だ。


そう気づいた途端、身体が勝手に反応する。

頭がふらつき、視線が探るように空間をさまよう。


時計。

時間を刻む、当たり前のもの。

ここにはないはずの、現実を思い出させる音。


「今……何時なんだろう……」


かすれた声が喉の奥から漏れた。

重たいまぶたをこすって、見つけたそれは――


時計では、なかった。


彼女の手元に“それ”は存在していた。

丸くて針がついていて、でも……どこかおかしい。

まるで時計の「形だけ」を真似して作られた、“なにか”。


針はチクタクと動いているのに、文字盤には数字がなかった。

その動きも、不規則。進んだと思えば戻っている。


「……と、時計……ですか……?」


おそるおそる問いかける。

嫌な汗が、背中をつうっと伝っていく。


すると彼女は平然と、

そしてどこか楽しげな声で、


「あ、これ〜?時計だよー。時計作りたかったんだけど……」


彼女の揺れる髪、悪びれない笑顔、どこにも悪意がないように見えるその態度。

……だけど。


「なんかできないんだよね〜!やっぱやーめーた!」


その瞬間だった。


チクタク、と優しかった音が――

ガシャン!!という爆音にかき消された。


“時計”はひび割れたガラスのように砕けて、

まるで液体のようにぐにゃりと溶け、

空間の裂け目に呑まれるようにして、吸い込まれていった。


その破片すら、まるで最初から存在しなかったかのように消えていく。


目の前の景色も揺れ、少しずつ歪み始める。

さっきまで心地よかったはずの光が、急に冷たく感じる。


私は――声も出せないまま、膝を抱えて震えていた。


時計の音が、安心だった。

その音だけが、時間という“現実”を感じさせてくれた。

それなのに、彼女はそれすら「気分」で壊してしまった。

ここでは何も信じられない。

安心なんて、全部偽物。

怖い――怖い怖い怖い。


でも……


……少しだけ時間が経って、

また「チクタク」と音が鳴り始めた。


音の方向を見る勇気は、もう残っていなかった。


その音に包まれながら、私はただ黙って原作の漫画を記憶に焼き付けていた。

でも、ふと、あの人が壊した“時計だったモノ"の一瞬だけ残していった残響が、私の胸の中に火花のような好奇心を残していた。


――彼女と話せば、少しだけでも理解できるのではないか。


私は、唇を噛み締めながら震える声で言葉を絞り出した。


「……あの……」


彼女は、まるで次の遊びを考えている子供のように空中に何かを書き描いていたが、その手を止めた。


「あなたの名前って……なんでしょうか……」


一瞬、空気が止まった気がした。

問いかけた私の方が驚いた。

言葉にしてしまった。何をしてるの、私……。


だけど、彼女はあっさりと、答えた。


「……私?転生前の名前はアユミ。この体のモブの名前は言及されてないし、分かんない。序盤で死ぬし作者もそこまで考えてないんだろうね〜。」


宙に描いていた指をクルリと回しながら、アユミと名乗る彼女は笑っていた。

言葉は淡々としているのに、表情は妙に陽気で、まるでそれが自分の運命じゃないかのように無頓着だった。


こ、答えてくれた……。


そのことに少し安堵し、勢いで次の質問をぶつけてしまった。


「ア……アユミ、さん。あなたは……何を考えてるの…!?何が……望みなの!!」


強く、鋭く、でもどこか泣きそうな声で。

今まで溜まっていた感情を、感情のまま投げつけてしまった。


言った瞬間、空気がピキリと割れた気がした。


しまった……!!


私は目を見開いたまま動けなくなる。

怖い。

怖すぎる。

さっきまでのアベルの“暴力”より、今の沈黙の方が、ずっと恐ろしかった。


「ご、ごめんなさい……!!ちゃんと原作通りに進めますから……!」


咄嗟に細い腕で頭を抱え、身体を丸めて身を守る。

まるで殴られるのを待っているかのように。


でも。


「――答えてあげるよ。」


……え?


「どうせ今のうちの自我だろうし?」


その言葉はあまりにも淡々としていた。


ふわふわと浮遊するような声色で、アユミは壁にもたれながら、足を組み、爪をいじりながら言った。


その顔は、いつものようににこやか。

だけど――その瞳の奥に、何かが、揺れていた。


空間の色が、ほんの少しだけ変わった気がした。

空気が重くなる。時計の音がゆっくりに聞こえる。

「今のうちの自我」って、どういう意味……?


ゾクリと背筋を氷で撫でられたような感覚が、また襲ってきた。

私は、何か……とてつもなく取り返しのつかないものに、触れた気がした。


「何を考えてるの?とか、何を望んでるの?とか、簡単だよ。」


アユミはさらりとそう言って、空を仰ぐように笑った。

でもその顔は、どこか空虚で、真っ白だった。


「私はただ、この作品が大好きなの。」


空間に響くその声は、妙に澄んでいて――逆に不気味だった。


「だから、正しくあってほしいだけ。私の好きな物語を、誰にも汚してほしくないの。」


“正しくあってほしい”――その言葉に込められた熱量が、異常だった。

彼女が見つめているのは、この世界じゃない。私じゃない。

“原作”という名の幻影を、ずっと追い続けている目だ。


「それに、転生した先も、ただのモブだったし……」


少し目を伏せて、肩をすくめるように言う。

その声が、あまりにも軽やかで――だからこそ、怖かった。


「別に、神様みたいに強いわけでもないし?」


……は?

なにを言ってるんだ、この女は……。


けれど、私の戸惑いなんてお構いなしに、アユミは続けた。


「圧倒的な力もなーんも手にしてないけど、原作をただ愛してるだけの――」


彼女は足を組み替えて、にこりと笑って、


「重度のヲタクってこと!」


その笑顔の奥にある、空っぽな瞳。

何かを見ているようで、その“何か”が私じゃないと分かる。


「だから、その大好きな原作を崩されるの、ちょっと嫌なんだよね〜!」


ぶわっ、と背筋が逆立つ。

声が震えた。いや、身体が震えた。


この人は“人間”じゃない。


愛じゃない。

崇拝でもない。

歪みきった“執着”が、腐るほどに膨れ上がっていた。

そして、彼女は「原作を守りたい」と主張しながら、間違った行動をする私を何度も脅し、自殺へと追い込む。


――気づけば、言葉が漏れていた。


「……気持ち悪い……」


そう呟いた瞬間、

内臓がぐにゃりとねじれたような感覚に襲われた。

胃が裏返る。心臓が暴れだす。目の奥が熱くなる。

この女に勝てるものなんて、何一つない。


そう思った。

いや、確信せざるを得なかった。


逃げられない。

彼女は必ず私を追ってくるだろう。

逆らえない。

これ以上の監禁、拷問をしてくるだろう。


じゃあ……どうする?


――覚えるしかない。


この世界のすべてを。

あの作品のすべてを。

アーベルのセリフも、動きも、呼吸のリズムさえも、全て。


肌に、血に、骨に、

“原作の空気”を染み込ませて、完璧に演じきらなきゃいけない。


絶対に間違えないように。


狂いなく“ヒロイン”として生きるしかない。


じゃなきゃ――また殺される。

またアベルに殴られる。罵られる。

私の憧れも、推しも、全部壊される。


“私”が“私”でいることなんて、


ーーもう、どうでもいい。


自分の価値も、感情も、記憶も、

ただのノイズでしかない。

そんなもの、今すぐ捨ててやる。


“ヒロイン”として正しく生きて、正しく愛されて、正しく物語に溶け込んで、

そして、生き延びる。


ただ、それだけのために。

私はこの世界を完璧に覚える。

何があっても、誰よりも、“ヒロイン”として。


――だから、お願いだから、


お願いだから……

間違えさせないで……!!


そんなマユの姿を見たアユミは不気味にニヤつく。

「ほら、今のうちの自我……って言ったでしょ?」

その不敵な言葉はマユの耳に届かなかった。


─────────


気がつけば、遠くから誰かの叫び声が聞こえていた。

ぼやけた視界の中、アユミはうっすらと瞼を開ける。

何かがひどく軋むように痛む。

腕、足、首、内臓――全部が鈍く、重く、痛い。


痛みをこらえながら、ゆっくりと身体を起こした。

息を吸い込むたびに、肋骨が音を立てそうなほど痛い。

それでも、どうしても、目を開けて確かめなければならない気がした。

何かがおかしい。今ここで、取り返しのつかない“何か”が起きている――そんな直感だった。


少しずつ、視界が鮮明になっていく。

……見えたのは、自分が愛と執念で作り上げた、あの空間だった。


だが、そこにいるのは“人間”だった。

ナズナの姿をした少女が、アーベルに殴られていた。

そして、その光景を、冴えない顔の女が無表情に見つめていた。


アユミの喉がひゅっと詰まる。

心臓が冷水に沈んだような感覚。

“あれは……何?”


「一体……何が起こってるの……?」


声にならない声が喉から漏れる。

思考が混乱し、現実と夢の境界が曖昧になる。


“止めなきゃ”


そう思い、手を伸ばす。

でも、箱庭の空間に触れられない。

やはり、膜があるかのように手がはじかれる。


「なんで……なんで……っ!」


拳でその“膜”を叩く。


「止めなきゃ……私が、ナズナちゃんを……止めなきゃいけないのに……!」


身体が震える。

涙が勝手に溢れた。

それは後悔か、怒りか、それとも絶望か。

自分でもよくわからなかった。


だがふと思いつく。


今目の前にいる、この女性の"中身"は誰なんだろう。


そのとき、耳に飛び込んできたのは――


「ねえマユ、私、可哀想すぎない?せっかく正しい世界に戻そうとしてるのにさぁ……君のせいでアーベル様がどんどん壊れていくの。辛い……ほんと辛い……!」


その声に、全身が凍りついた。

胸の奥が締めつけられる。

そして、今まで謎だった点と点が繋がった。


あぁ……やっぱり、失敗してたんだ


“冴えない顔の女性”として動いている中身は


ーー私だ。


今この瞬間も、もう一人の私は原作を正しく進めようと奔走している。

それを外から見る私は、何もできず、ただ観察するだけ。


……そうか、私は、いま……


「私ってば……どんだけ原作のこと、愛してるの……」


ぽつりと呟いて、乾いた笑いがこぼれる。

冷静になればなるほど、もう笑うしかなかった。


自分自身の姿に、呆れて、呆れて、そして――ちょっと感動した。


そのとき、頬にふわりと温かいものが触れる。

ユベルだった。

彼だけは変わらず、そばにいてくれる。


「……ユベル、結局失敗しちゃったみたい。それも中途半端に!」


優しく撫でられながら、目を伏せて呟く。


「全部理解できてる訳では無いけど、なんとなーくナズナちゃんの意思は止められそう」


「だって、私が、今、目の前で……原作に戻そうと頑張ってるんだもん。」


歪んで、苦しくて、それでも愛しい。

しかし、信じ難い事実に、ただただ乾いた笑いがこみ上げる。


「笑っちゃうでしょ?魂を代償に得た結果がこれって、結局、原作を守るのは私次第って事なのかなー?」


そう言って、箱庭をじっと見つめる。

もう何もかもが遠くて、曖昧で、でも確かに――美しいと思えた。


たとえ自分という存在が分裂しても、

たとえ意思が交錯し、誰かが壊れていったとしても。

この物語が“正しく終わる”のなら。


アユミは、静かにその景色を見つめ続けた。


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