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第4話

「こ、これは……俺…?」


部屋の中心、ポツンと置かれた一冊の本。

その表紙には、ありえないはずの名前と顔が刷られていた。

アーベルは震える手でページを捲りながら、何かに取り憑かれたように食い入るように眺めていた。

目に見えて、鼓動が早くなっているのがわかる。

顔色が少しずつ青ざめ、まるで鏡に映る未来を前にしたかのように。


「アーベル、君は見ちゃダメよ。この本は君にとっての未来の書。みたいなものなんだから」


私はその様子を見て、堪えきれずにクスクスと笑った。

やっぱりそうなるよね。

そりゃ驚くよ、だってこの本はね、「原作」なんだから。

スキル【想像】で具現化した、私の"愛する"物語。

──彼らの運命、そのすべてがこの中に描かれてる。


ナズナ──彼女はその異様な光景を前に、眉をひそめていた。

でも、彼女は一向にその本を手に取ろうとしない。

目の端でチラチラ見てはいるけど、まるで触れることを避けるかのように距離を置いている。

なにそれ。なんで?

……理解してないの?今の自分の立場も、状況も。


「お前さ、なんか勘違いしてるよね。」


ピシャリと、アユミの声が空気を切り裂いた。

彼女はきっと私を睨む。

その目は怒りと困惑、そしてどこかにあるプライドでぐちゃぐちゃに濁っていた。


……イライラする。

その視線、ほんっとイライラする。

ナズナちゃんはね、そんな顔しないの。

もっと素直で、もっと儚くて、もっと……可愛いんだから。


「そんな醜い視線、ナズナちゃんはしない」


私の愛していた“原作の形”からズレていってる。

どうして?

どうしてそこにいるのが、ナズナちゃんじゃないの?

……どうして──お前なんだ。


だったら、私がもう一度“正しい場所”に戻してあげる──。

静寂が落ちた空間に、アユミの声だけが冷たく響く。

彼女の口調は穏やかで、どこか慈愛に満ちたようにも聞こえる。だけどその実、刃物よりも鋭い毒が込められていた。


「このままお前がアーベルを連れ出して、ルーズベルから逃げる選択を取ったところで、死なないって確証ないでしょ?それに愛されるって確証もない。」


その一言で、彼女の呼吸が止まったように見えた。

ぎゅっと肩を縮め、唇を噛み、目を伏せる。

心の奥の、誰にも触れてほしくなかった部分にアユミの言葉が的確に突き刺さる。


「ーーーーっ!」


何かを振り払いたくて、でも否定しきれなくて──。

彼女は一歩、足を引いた。

拳を握りしめたその指先は白くなるほど力が入っていて、無意識に唇を噛み締めすぎたせいで、口元からにじんだ赤が顎をつたう。


「でもこのまま原作通り進めば、愛されるのは確実なの。それはわかるよね?」


アユミは一歩も動かず、ただ、淡々と真実だけを語るような声で畳みかける。

その言葉は、彼女にとって“どうしようもなく正しい”という事実が憎いほど重くのしかかる。


目の奥が熱くなり、視界が歪む。

止めたくても止まらない悔し涙が、ぽたぽたと床に落ちた。

プライドも理想も、感情も、アユミの一言一言によってぐちゃぐちゃにされる。


「アーベルが愛してるのはお前じゃなくて、ナズナちゃんなの。お前を愛す確証もないのに、ただ己の欲望のまま原作を汚すのって……本当にヲタクの風上にもおけない。薄っぺらい愛だこと。」


その一言が、決定打だった。

ナズナの顔がぐしゃっと歪み、喉からひゅっと音が漏れた。

怒り、悲しみ、認めたくない現実──その全部が詰まった、静かでどうしようもない嗚咽。


足元がぐらつく。

でも、倒れることすらできなかった。

だってアユミは、ずっとその場から動かずに、冷たい目で見下ろしている。

正しさという名の刃で、彼女をじわじわと切り裂く。


辺りはまだ薄暗く、空気は重く淀んでいる。

マユの顔は青ざめ、唇は血でにじみ、体も心もボロボロだった。

だけど、そんな彼女をじっと見つめるアユミの目には、どこか冷たい光が宿っている。


「それにしても今後共に活動していく上で彼女の名前を知らないのはめんどくさいな……」


アユミはそうつぶやき、彼女に向き直る。

その声は冷静を装っているが、どこか苛立ちが滲んでいた。


「お前、名前はなんて言うの?」


彼女は口の中の苦味に顔をしかめ、掠れた声で何とか答えようとする。

小さく口を開き、ためらいながら言葉を絞り出した。


「転生前の名前は…マユ……。」


その瞬間、アユミの胸の奥に何かがざわついた。

まるで昔の記憶の棘が突然刺さったかのような、不快で底知れない苛立ち。

「マユ」──どこかで聞いた名前だった。

マユ……ふぅん。

その響きは妙に鼻につく。


アユミは少しだけ眉をひそめて、口調を鋭くした。


「今後は、ちゃんと分かりやすく名前で呼ばせてもらうからね。でないと、めんどくさいから。」


その言葉にマユは震える唇を噛み締め、少しずつ目の焦点を失っていく。

さっきまで啖呵を切ってた顔はもうない。

今目の前にいるのは、怯え、傷つき、言葉一つで崩れ落ちそうなガラスみたいな女の子。


そんな彼女に、私は淡々と語りかける。

優しげな声で、でも中身はとびきり残酷に。


「マユ、これから起こるシーンは、35ページ当たり。次に言うセリフ……喋ってごらん?」


彼女はボロボロの唇を震わせ、私に鋭い殺意の視線を向けてくる。

でもその殺意すら、もはや何の力も持たない。

ねぇ、それってもう、諦めが滲んでるってことじゃない?


マユはしぶしぶ漫画を手に取った。

その手は泥と血で汚れ、爪の先まで震えていた。

それでも、ページをめくる。――35ページ。


一瞬で、彼女の顔から血の気が引いた。

口が開いたまま、目を大きく見開き、震えながら漫画と私の顔を何度も見比べる。

彼女の思考が、完全にフリーズしたのがわかった。


「…っ……」


そのページには、次に起こる出来事が克明に描かれていた。

まるで未来を写し取ったような絵とセリフ。

それがただのフィクションじゃないってことを、マユは今、身をもって理解してしまった。


ゆっくりと、首を横に振るように否定しながら、それでも逆らえない本能に突き動かされて。

マユは、震える声でそのセリフを口にした。


「ル、『ルーズベル……いつの間にそこに…いたの……?』ーーっ!!」


叫ぶような悲鳴と同時に、彼女の視線が扉へと吸い寄せられた。


ギィ……。


嫌な音を立てて、教室の扉がわずかに開く。

そこにいたのは――


まるで絵画から抜け出してきたかのように神々しい、美しすぎる男。


そう、ルーズベルだった。


マユは言葉を失い、目を見開いたまま立ち尽くしていた。

涙も声も出ない。

呼吸すらできていないように見えた。


彼の「美」は、あまりにも完璧すぎて冷たい。

冷気のように、肌の上を撫でていく“無”の感情。

誰もが一目で息を呑むほど整った容姿なのに、そこには“人間らしさ”が欠けていた。


ルーズベル――

その名を知った瞬間から、彼という存在がこの世界の“中心”であるとわかる。


白銀の髪は、蛍光灯の光を受けて淡く輝き、風もないはずなのにふわりと揺れている。

まるで空間そのものが彼の美しさを引き立てるために存在しているかのようだった。

透き通るような白い肌は不純物ひとつない陶器のようで、指先の所作までが神聖な儀式のように見える。


その姿には、誰しもが思わずひれ伏してしまう威圧感があった。

しかしそれは恐怖ではなく――崇拝に近い感情。

まるで“神に選ばれた者”だけが放つ、絶対的な存在感。

彼がその場にいるだけで、空間は祝福に包まれ、静寂すら彼のための演出に思える。


何より、まだ私たちには“関わっていない”為、原作通りに動く。

一切のブレもなく、私の愛しているただ純粋な"ルーズベル"だ。


……それが美しい。

本当に、美しすぎて、身震いする。

この世界の理が彼に従っているかのように見えてしまうのだ。


そして正しいルーズベルは、正しいセリフを続ける。


「お兄様、ナズナから離れてくれるよね?なんてたって僕の命令なんだから。」


その瞬間、世界の“主”が切り替わった。

彼の声が響いた瞬間、空気が変わったのがはっきりとわかった。

温度も、重力も、視界すらも歪んだように感じる。


この空間はもう、彼を中心に回っている。

甘く可憐な微笑みを浮かべながら、瞳の奥では、底知れない欲望が燃えている。

それでも、その醜さすら“美しい”と思わせてしまう異常な存在。

その瞬間、私は息を呑んだ。

まるで宝物が目の前に現れたような、そんな衝撃だった。


彼――ルーズベルは美しかった。

もう、どうしようもなく、美しかった。

その存在だけが、“正しさ”で構成されているように思える。

空間に君臨する彼の佇まい、振る舞い、そしてセリフ……

全てが原作と寸分違わぬ“完璧”だった。


これだ。

これが私の愛した漫画……。

私が、ページが擦り切れるほど読んだ世界……!

その中でも、最も美しく、最も“狂っていた”男――ルーズベル。

その真実の姿が、今ここにいる。


「美しい……美しすぎる。愛おしい…!!

これが原作……!これが私の愛した漫画の世界……!!!」


私は心の奥から、歓喜の震えを感じた。

身体の力が抜けて、膝が折れそうになる。

嬉しさと愛しさで、全身から水が溢れ出すように、涙が止まらなかった。

「彼だけが原作通りの動きをしている…!!」


嗚咽すら混じる声で、私は呟く。

「……あ、あぁ……本当にお麗しい……」


涙が、顔をぐしゃぐしゃにしていた。

息を吸うのも苦しい。

嬉しさで死にそうになるなんて、人生で初めてだと思った。

世界が彼を中心に回り、私はその信者であることに、全てを捧げたいとすら思った。


……だが、そんな恍惚は、数秒しかもたなかった。


ふと気づいた。

空気の流れが、歪んでいる。

……違う。違う違う違う。

ここは、“完璧なシーン”のはずだった。

でも、アーベルは何も言わない。次のセリフが来ない。


マユも、ただ立ち尽くしている。

彼女は私を恐れている。

そう、私が……この物語の中にいてはいけない“異物”だから。


ルーズベルという神が正しく動いているにも関わらず、

周囲が原作通りに応えてくれない。

それが、どれだけ醜く、どれだけ“汚い”ことか。


私の涙は、次の瞬間には一滴も残っていなかった。

熱で火照っていた頬も、一瞬で冷める。

涙の跡だけを残した顔で、私はすっと立ち上がる。

まるで、感情という仮面を脱ぎ捨てるように。


表情は消え、声には熱がなかった。


「ここらで終いね。」


私の声は、感情というものをすべて棄てたように冷たく響いた。

恍惚とした愛の歓喜から、空っぽの冷笑へ。

その変化は滑らかすぎて、むしろ“異様”だ。


私は無言で、ただマユを見つめた。

何も言わない。けれど、視線が全てを語る。

「……お前が、どうすべきか。わかってるわよね?」

そんな無言の圧が、確かに彼女に届いた。


マユは、ビクリと肩を震わせる。

その顔には、恐怖と、そしてあの――“思い出した”ような苦痛の色が浮かんでいた。


そう、彼女は思い出してしまったのだ。

アーベルの、あの足が吹き飛んだ惨劇の瞬間を。

罪悪感と絶望が、彼女の身体を蝕んでいく。

そして、震える指で床に散ったガラスの破片を一片拾い上げた。


その動作は、どこか壊れた人形のようだった。

感情というものに引きずられるままに――ただ、死を選ぶための動きだった。


ガラスの破片を首元へと押し当てるマユ。

その場の空気が、凍りついたように静まり返った。


「ナズナ!何をしているんだ!!!」


突然の怒声。

アーベルが慌ててマユへと駆け寄り、彼女の手を叩いてガラスの破片をはじき飛ばした。

破片はキン、と澄んだ音を鳴らし、床の上を転がる。


彼の手が触れたことで、マユの首元には、うっすらと赤い線が残る。

そこからじんわりと滲む血を、アーベルは震える指で抑えた。


その瞬間、マユの瞳が揺れる。

涙を浮かべながら、彼を見つめるその表情には――いくつもの感情が入り混じっていた。


助けてくれた喜び?

それとも、ここで彼を巻き込んでしまった罪悪感?

あるいは――この後に訪れる悲劇を、すでに理解してしまっているから?


……違う。全部だ。

マユは今、喜びと苦しみと絶望の狭間で、泣いている。


だが――その尊い時間は、長くは続かなかった。


「ッ……!」


ルーズベルが、アーベルの姿を見て、感情を爆発させた。


――これは嫉妬かな?


自分を愛する“ナズナ”が、自分の命令ではなく、“他の男”と仲良く話し合っていた事実。

その現実に、彼の狂気が火を噴いた。


「ッッ!!」


言葉すら発せず、ルーズベルは一気に距離を詰め、アーベルへと殴りかかる。

その拳には、神の名を冠するスキル【神聖】の力が宿っていた。


ドグシャッ!!


鈍く、骨が砕けるような音が響いた。

アーベルの胸を、その拳が貫いたのだ。


左胸――心臓に限りなく近い場所に、ぽっかりと風穴が空いていた。

そこから、血が滝のように流れ出す。

赤は赤を呼び、床を染める。

それを見て、マユは声にならない悲鳴を漏らした。


そんなことはどうでもいい。

目の前で繰り広げられているのは、あまりにも“原作”からかけ離れた地獄絵図。

この流れ、この展開、アーベルのこの死に様――私の愛した漫画には、どこにも存在しなかった。


「はぁ……マユ、私はこんなの望んでない。」


私は吐き捨てるようにそう呟いた。

まるで、汚れた水を見下ろすみたいに。

目の前に居るのは“推し”を殺した存在。たとえ意図的じゃなくても、“原因”であることは変わらない。


その言葉を聞いた瞬間、マユはピクリと肩を震わせた。

顔色はもうとっくに死人のようで、唇も紫色に近い。

それでも彼女の身体は、生きているから反応してしまう。

まるで裁判官の鉄槌を聞いた被告人のように、ガタガタと無様に震え始めた。


「死なないの?アーベル"また"死んじゃうんだけど?」


私は少し首を傾げながら、ひどく優しい声色で問いかける。

まるで、本当に心配しているみたいに――でも、その瞳には一切の同情がなかった。


マユの瞳が、割れたガラスのようにヒビを入れながら濁っていく。

喉の奥で何かを詰まらせたような呻き声をあげ、彼女はゆっくりと口を開いた。


「あ、あぁ……ぁぁぁあ……!!!!」


悲鳴にも似た、絶望そのものの叫び。

その声を聞いた瞬間、私の口角が自然と上がった。


私は、ニタニタと笑っていた。


彼女は震える手で再びガラスの破片を拾い上げる。

血のついた刃先が、わずかに光を反射して赤黒く鈍く光った。


その手の震えは止まらない。

指がガクガクと痙攣している。けれど、彼女の目には――もう何も映っていない。

空っぽの目。魂だけが置き去りにされた抜け殻のような顔。


「ほら、アーベルへの愛を示してみてせてよ」


私は、まるで劇場の観客のようにその一幕を眺めながら、促すように囁いた。

その声には、薄ら寒いほどの慈愛がこもっていた。

それが余計に、異常だった。


マユは涙も、鼻水も、よだれも、全て垂れ流したまま――

何のためらいもない動きで、首元に破片を押し当てた。


そして――


「ッ!!」


ザシュ、と軽い音。

その一瞬で、空気が変わった。

喉から飛び出るように溢れる赤。

マユの体がビクリと跳ね、そして崩れるように地面へと膝をつく。

血が、彼女の胸元から、首から、滑るように流れ落ちていく。


それでも、私は一歩も動かない。

助けない。止めない。見ているだけ。


「偉いよ、マユ。」

私はうっすらと涙を流しながら、静かに、ゆっくりと――まるで演奏会の終わりのように、

パチパチパチと拍手を打ち鳴らす。


足元には崩れ落ちたマユの身体。

首からはどくどくと赤黒い血が流れ、喉奥に溜まった液体が呼吸を妨げる。


「ゴバ…、ゴボ…カハ……ーーーっ!!!」


吐血、痙攣、窒息。

血にまみれながら、それでもなおマユはしぶとく生きようとしていた。

けれど、私はその生命力すら、嘲るように言う。


「まだ生きてるの?それはダーメ。」


そう言って、口元に笑みを浮かべる。

マユの目に映ったもの。それは、ただの女――冴えない顔立ち、特別な美貌もない。

でも、その存在から感じるのは“圧倒的な恐怖”だった。

まるで、神が人間の皮をかぶって地上に降り立ったような――そんな、底なしの「異物」。


恐怖。恐怖、恐怖、恐怖……!!!!


――どうして?なんで?私はただ、アーベルを生かしたかっただけなのに。


でも、気づいてしまった。


確かに、私がアーベルを連れ出しても、確実に愛されるなんて保証はどこにもない。

もしかしたら拒絶されるかもしれない。私を庇って死んだことを、悔やまれるかもしれない。

そう、私は“ナズナ”じゃない。


愛されるのであれば……

少しでも長く、アーベルと一緒に居られるのであれば……


この目の前にいる冴えないモブの命令を……

「聞くのも、悪くないのかな……」


そんな弱気で愚かな考えが頭をよぎる。


そのとき。


「マユ?どうすればいいか……分かるよね?」


あの女の声が、頭蓋の内側に直接響く。

耳ではなく、脳を直接叩くような声だった。


視界が……滲んでいる。

いや、違う。光が……薄れている。


恐怖はもう、痛みを超えていた。

喉元の傷は広がり、気管を削り、喉笛が切れたのが分かる。

空気を吸っても吸っても、血しか入ってこない。


温かいものが、舌の上を這っている。

鼻の奥、目の裏、すべてが熱い。

でも、次の瞬間には冷たい。


どくん、どくん、と音が遠くなる。

手は震えたまま、自分の首を握りしめたまま。

痙攣する脚。びくびくと痙る筋肉。止まらない尿意。

私は、私じゃなくなっていく――


ああ、


“これが原作に干渉した報い”ってやつ?


何も見えない。

音もしない。

呼吸もできない。


そして――


私は、再び意識を手放した。



────────


「スキル【神聖】!!」


張り裂けそうなほど声を張り上げたその瞬間、

私の周囲に淡く煌めく巨大な魔法陣が展開された。


光は幾重にも重なり、祈りの旋律のように暗い空間を灯し満たしていく。

金色の紋様が地を這い、上へと登り広がる――


けれど。


その輝きは、

まるで夜明け前のろうそくの灯のように――

静かに、ひっそりと……消えていった。


「……やっぱり……もう、力がないんだ……」


膝が砕け落ちた。

指先が、痺れて動かない。

胸の奥が、ヒュウ、と寂しく風が吹き抜ける。


私はもう……この世界を、救えないの?

そんな……そんなはずじゃなかったのに。


「……っ……」


涙が、落ちた。

静かに、でも確かに、地に染みこんでいく。


そのときだった。


フワリ――と、私の視界の端に、やさしい光が揺れた。


「……ユベル……?」


それは、発光体。

いつもそばにいてくれる、小さくて神聖な存在。

ただのスキルの象徴だったはずのユベルが、まるで命を持ったかのように、

ゆらゆらと……私の前で舞っていた。


温かく、静かに。

でも確かにそこにいて。


“諦めないで”って――

“まだ、あなたにはできる”って――


言葉なんてないのに、そんな風に訴えかけてくる。


私は、涙を拭った。

震える手で、もう一度胸に手を当てた。


……そうだよ。

私は、何万年も生きてきた。

数えきれないほどの本を読み、無数の魔法を編み上げ、誰よりもこの世界の理を知っている。

私は、大魔法師だった。かつて確かに、そうだったんだ。


「……まだ……まだ終われない」


私はもう一度、立ち上がる。


「私の全知識で……もう一度……!!」


かすれた声に、ユベルがさらに強く輝いた。


私は、手を掲げる。

今度こそ――この世界を救うために……


「スキル【神聖】……【創造】!!」


叫ぶように詠唱を吐き出した瞬間、

世界の理が軋みを上げるような、異様な気配が空間に走った。


一つでも奇跡に近いとされる“スキル”を、

二つ同時に――しかも、真逆とも言える属性を、無理矢理に重ね合わせるなんて。

そんなもの……常軌を逸してる。

けれど――私は、やらなきゃいけないの。


「ッ……!!」


ぐちゃぐちゃに軋む内臓、焼けるような喉、

骨の芯から響く“死の鐘”が身体の奥で鳴り響いていた。


――でも、止まるわけにはいかない。


「全治癒魔法……リングヒール!!!」


怒鳴るようにして詠唱を強制発動させた。

本来ならば十数行にも及ぶ祈りと聖句が必要な、癒しの頂点――リングヒール。

けれど、時間がない。もう、間に合わないの。


ガンッ――!と体の中で何かが砕けた音がした。


構わない!!


癒せ、癒せ私の体を……!

崩れ落ちていく細胞を、断裂した血管を、焼き切れる神経を――

今すぐに、今ここで、再生させて!!


紫紺の光が私の周囲を暴力的に駆け巡る。

癒しの光が、痛みと共にぶつかり合い、

創造と神聖の力が、互いに拒絶しながらも、命令に従って形を成そうとしている。


――苦しい。


肺が潰れそう。喉からは血の泡が零れた。

だけど、スキルは発動し続けている。

私はまだ、生きてる。まだ、足りない。


「お願い……!!」


焦げた皮膚の内側から、骨が軋む音がした。

吐いた息が白く、熱く、そして鉄臭い。


矛盾の中に、自分を押し込んでまで進もうとしている――

この狂気こそが、私の覚悟。

私の執念。

私の……愛。


もう理なんて知らない。

自分が滅びようが関係ない。


私は、私の思う“正しさ”のために……

この世界の歯車をねじ曲げる!!



彼女のその願いが――

誰にも許されなかったはずの“神の領域”に触れるほどの祈りが、ついに届いたのだろうか。


目の前に広がる、たった一室のワンルーム。

さっきまでと、視覚的には何も変わらない。

壁も天井も床も、すべて同じはずの空間なのに――


ふわりと、世界が金の光に包まれた。


ぽかん、と口が開いた。

最初は、ただ呆然としていた。

自分が何を見ているのか、理解できなかった。


でも――違う。

“感じる”。はっきりと。

この場所の“気”が、先程とはまったく異なることを。


「……あ」


喉の奥から零れたひとつの音。


それをきっかけに、じわじわと喜びが込み上げてくる。

指先が震えた。

目尻に熱が差した。

胸が、爆発しそうなくらい熱くなる。


「やった……やったよ、ユベル!!」


歓声のような叫びと同時に、

発光体――ユベルが、ピョンピョンと宙を跳ねて舞い踊る。


その姿に、無意識に笑みがこぼれた。

体の奥底からじわじわと、実感が湧いてくる。


「禁忌である時間移動も、空間移動も……この空間だったら、なんでもできる……!」


喉が乾くほどに、興奮していた。


あまりにも、出来が良すぎた。

スキル【創造】と【神聖】を合わせて紡ぎ出した、完全なる異空間。

世界の外のような場所。

この箱庭だけは、神さえも干渉できない絶対の“内側”。


「……完璧な異空間を……作り上げた……!!」


声が震える。

笑顔のまま、膝が崩れ落ちた。


そこからは、夢の中にいるようだった。

視界がゆっくりとぼやけていく。

光の粒が浮かんでいるように見える。

まるで、祝福されているみたいだ。

ユベルが何か伝えようとしてる……けど、もう耳がふわふわして聞こえない。


心地いい、優しい睡魔が、深い水のように襲ってくる。


お願い……この異空間に、気づいて……

そして、この世界を……救ってね……


最後の想いだけを残して――

アユミはフラリと力を失って、パタンとその場に倒れた。


まるで、使命を果たした人形のように。

穏やかな表情のまま、夢の底へと沈んでいった。


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