第4話
アユミは、通りに停まっていたタクシーのドアを迷いなく開けた。
「ヴェル神殿まで、できるだけ早く」
そう告げてドアを閉めると、車はすぐに動き出す。
窓の外、どこまでも流れていく景色。
さっきまでの自問自答が、まだ頭の奥でじくじくと疼いている。
この世界。原作。私。
全部が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、形がわからなくなっていく。
追い打ちをかけるかのように、盗聴器から、先程まで聞こえていたはずのナズナとアーベルの声が聞こえなくなっていた。
道端に落ちてしまったのか…
ナズナが着替える際に壊されてしまったのか。
想定が狂ったしまった事へイライラが収まらない。
ふと、私はタクシーの運転手に声をかけた。
「ねぇ……この世界、好き?」
運転手はバックミラー越しに一瞬だけ私を見ると、戸惑ったように笑った。
「突然ですね……うーん。辛いことも楽しいこともありましたけど……。好きって言い切れるほどでは……でも、そう言えるようにはなりたいですね。」
その曖昧さが、胸をきゅっと締めつける。
答えのない答え。中庸な善人。何も壊せない弱さ。
私が今まで必死に抗ってきた“優しさ”の形だ。
「……そっか」
私は少しだけ間を空けて、もう一つだけ問いかけた。
「じゃあさ。自分の人生が、絶対に“死ぬ”って決まってたら……どうする?」
運転手は静かに、でもどこか悟ったように笑った。
「……それが、この世界に決められた運命なら。私は、受け入れると思います。」
その一言が、胸の奥でカチッと、何かをはめた音がした。
「……そっか。そっかぁ……。そうだよね。」
私は笑った。声は出なかった。
頭の中だけで、何かが壊れていく音が響いていた。
気づけば、神殿の前に着いていた。
「思ったより早かったね」
「ええ、近道を知ってるんですよ。さて、お代ですが……」
私は財布なんて持ってない。
お金なんていらない。創れるし…バレるか。
だけど逃げるわけにもいかない。神殿の門がすぐそこにある。
「ねぇ、タクシーってさ。車内カメラって付いてる?」
「ええ、もちろん。最近は犯罪も多いですから」
私は、微笑んだ。
「そっか。じゃあ……安心だね」
「……え?」
何気ない風を装って、私はタクシーの車内を見回す。
見つけた。カメラ。
黒い機械の中にある、確かにこちらを見ている“目”。
運転手が言う。
「お客様、お待たせいたしました。お支払いは3900円です。」
「……あ、ごめん。財布……」
声と同時に、私はスキル【創造】を発動した。
右手の中に、小さな黒いナイフが生まれる。
誰にも気づかれないスピードで。
次の瞬間――
ナイフを振り上げると同時に、
一閃でカメラのレンズを叩き壊す。
カチン、と硬い音。
直後、同じ流れでナイフが運転手の首元を裂いた。
血が跳ねた。
温かい。生臭い。重たい匂いが一気に広がる。
ドクッドクッと流れる血をみながら
運転手は一瞬、私の目を見た。
「ねぇ……」私は、血を見ながら微笑んだ。
「こういう運命でも……受け入れるんだよね??」
声が震えていた。
殺したのに、心のどこかで――
運転手が頷いてくれることを、願ってしまった。
答えなんて返ってこないのに。
私は、扉を開けて外に出た。
血のにおいが服に染み付く。
冷たい風が吹いた。
今、私は本当に、“一線”を越えた。
誰にも届かない確認を口にしながら、私はタクシーのドアを開け、血の香りを残して、静かに降り立った。
制服の上から黒いマントを羽織り、顔も低く伏せて、神殿の正門をくぐる。
幸い、アーベルたちの車はまだ着いていない。
タイムリミットは、アーベルがここに到着するまで──つまり、ほんの数分。
視線がやけに刺さるな、と思ったら、原因は一目瞭然だった。
神殿の敷地内にいる信徒たちは、全員が白を基調にした神聖な服──純白のローブに、金の刺繍が走り、肩には“ヴェル教”特有の飾りが揺れている。
荘厳な空気をまとうその中で、黒ずくめの私は明らかに浮いていた。
このままじゃ警戒される。
そう判断した私は、即座に対応を切り替える。
近くの信徒に歩み寄り、自然な声色を作った。
「そこの方、少しお尋ねしても……」
声をかけた男性は、優しげな笑顔で振り向いた。
「はい、いかがなさいましたか?」
「道に迷ってしまって……。最近こちらに越してきたばかりで……」
困ったように笑いながら、私の中ではシミュレーションが何通りも展開されていた。
「それは大変でしたね。どちらに行かれる予定でしたか?」
「中央都市の私立ヴェルクローネ高等学園です」
このワードが効くのは分かってた。
原作本編ではほぼ触れられてなかったこの学校──だけど、作者のSNSでサラッと明かされてた設定を私は知っている。
私立ヴェルクローネ高等学園。
アーベルとナズナが通っている高校。
それは“スキル所有者”だけが通える特別な場所。
魔法だけなら一般人でも使えるけど、“スキル”は神から授かるもの。つまり、選ばれし者だけが通えるエリート校。
こういう重要設定をSNSでさらっと呟くな作者ぁ!!とツッコんだ記憶、今でも鮮明。
案の定、男の目が一瞬だけ驚きに揺れる。
「……おや。あなたはヴェル様のご加護をお持ちなのですね」
祈るように目を伏せ、彼は深く礼をした。
きた。想定通り。
この世界では、“スキル”は神──ヴェル様からの贈り物とされている。
「ありがとう。貴方にもヴェル様のお恵みがありますように」
「光栄です。ヴェルクローネ学園でしたら、門を出て大通りを真っ直ぐ行けば着きます。ただ距離があるので、タクシー等が便利かと」
「そうなんですね…。でも今、手持ちがあまりなくて……」
「でしたら、よろしければ途中までお送りいたしましょうか?」
──かかった。
嘘みたいにうまくいってる。けど、これは計算通り。
この宗教には、どす黒い闇がある。私はそれを知ってる。
この男、穏やかな笑みを浮かべていたけれど──私は気づいてた。
彼の左手の指、薬指に刻まれた刻印。
それはルーズベルの側近、ジャミル・ザウスカ直属の証。
表では“ヴェルの教え”を説きながら、裏では金銭の横流し、人身売買。
その手下がこの神殿に何人も潜んでいる。
──とはいえ、まさか1人目で当たるとは。
これが“ヴェルの加護”ってヤツかしら?
それとも──この物語を知り尽くした私の勝利?
フッ、と笑いそうになるのを抑えて、私は男とともに、人気のない駐車場へ向かった。
男が車の鍵をカチャリと鳴らす。
その音だけで、私の脳がギチギチと軋む。
ゆっくりと振り向いた男の視線が合った瞬間、
ああ、来る……この瞬間のために心がズルズルに溶けていくのが分かる。
次の瞬間、男の冷たい手が私の顔を掴んだ。
骨がきしむ。頬肉が歪む。
魔法石が額に近づいて――
襲われる……!!
なのに、怖くない。
むしろ、私の中の何かが濡れていく。
“殺されるかも”って想像するだけで、心臓がビチャビチャと跳ね回る。
興奮、興奮、興奮……!
詠唱が始まる。
意識が、溺れるように沈む。
でも、セラの身体は普通じゃない。
魔法が効かない。むしろ魔法が私の身体を拒絶してる。
内側から脈打つ“異物”としての存在が、跳ね返したのだ。
間髪入れず、私は男の股間を蹴り上げた。
グシャ、という音がした。
吐瀉と呻きが混ざる声が飛び出す。
その隙に、男が持っていた魔法石を引き抜く。
「君ぃ……これを使って、私に何をしたかったのかな……??」
私の口元がニタリと裂ける。
快楽と支配欲が混じった、気持ち悪い笑み。
首を傾げる角度すらも、わざとらしく滑らかに、肉人形みたいに。
でもね、セラの力じゃこの男は完全に押さえられない。
だから私は、ポケットに忍ばせた“記念品”を取り出す。
鋭利なナイフ。
刃にはタクシー運転手の乾きかけた血と、肉片がこびりついてる。
カピカピに赤黒くなって、触れただけでバクバクするほど甘美な道具。
私はナイフを男の瞳に這わせる。
瞳の表面がピクリと震える。
ぷつりと毛細血管が切れた音が、脳内に響く。
「うぁっ!!」
悲鳴。
その口に、魔法石をグイ、とねじ込んだ。
喉の奥を抉りながら押し込む。
カチカチと石が歯に当たる音が、最高にゾクゾクする。
顔からこぼれる血が、"私の"純白のローブに落ちる前に――
私は、その男からローブを剥ぎ取る。
「生きたい?生き延びたい??」
赤黒く染まった瞳が、涙を流していた。
血と混ざって、顔がグチャグチャに汚れてる。
その様子が、たまらなく美しい。壊れていく音が聞こえる。
「モブの癖に生き延びたいとか立場弁えなよ!!」
私の口から笑いがこぼれる。
ケラケラ、ケラケラ。
自分の笑い声が気持ち悪くて、でも止まらない。
服を脱がされた男は無様に震えながら、裸のまま引きずられていく。
「アハハ!!ご愁傷さま、私に関わったのが君の人生のミスだ!!」
トランクの扉がギィと軋む。
その中に、ベタベタと血のついた足で男を押し込む。
私の吐息はもう、熱でぐちゃぐちゃになっていた。
「はぁ……はぁ……。モブの命なんてあるようで無いもんだよ」
唸る声が遠くなっていく。
どこかで骨が折れたかも。
それすらももう、どうでもよくなっていた。
私はトランクを、バタン、と閉める。
音が響いた瞬間、胸がキュッと震えた。
興奮……じゃない。快感。
私は奪ったローブを羽織る。
純白の布が、血の匂いを包み込む。
でも、いい。
この“神聖”を纏って、私は――再び神殿の敷地へと向かう。
笑顔のまま、血の跡を引きずって。
ーーーー
私とアーベルは、2話の舞台でもあるヴェル神殿へと足を踏み入れた。
神殿の敷地内にいた信徒たちは、アーベルの顔を見るなり、一斉に深く頭を垂れた。
「……」
アーベルの表情がほんの少しだけ曇ったのが見えた。
この光景が、彼にとって心地いいものではないのは確かだ。
すると奥から、一際目を引く男が姿を現した。
純白のローブ、真新しい白のスーツ、そしていやらしく目立つ金色の腕時計。
その全てが、彼が“特別な存在”であることをこれでもかと語っていた。
直感が叫ぶ。
――こいつだ。
ルーズベルの側近にして、ヴェル教団の管理者。
ザウスカ・ジャミル
アユミが嫌になるほど原作を押し込んできたせいで、私はこいつの裏の顔まで知っている。
――笑顔で人身売買を仕切り、涙をお金に換える男。
私は無意識にアーベルの背後へ身を隠していた。肩が勝手にこわばる。
「ザウスカ。父上と母上に会いたいんだが」
「えぇ、ウォン様からお伺いしております。が、現在お二方、主様と面会中ですので……少々、客間でお待ちいただけますでしょうか」
ウォン……あぁ、チャオリンのことね。
使用人にすら“様”付けなんて、プイスト家の格がどれだけ上なのか、よく分かった。
「後ろにいる方は……」
そう言ってザウスカは私の方をチラリと見る。
視線に込められた感情は、興味でも警戒でもなく──侮蔑。
「あぁ、ナズナ“さん”でしたか。」
その“さん”には、皮肉と侮りが滲んでいた。
「お変わりありませんね。お育ちのまま、素直そうで何よりです。」
ナズナはプイスト家の敷地に住んでるけど、使用人じゃなくて友人枠。つまり“ただの庶民”。
表面ではプイスト家の養子として認識されているはず。
しかし、この男は知っている。ナズナが“本物の令嬢”じゃないことを。
その為、笑顔で言ったその台詞は遠回しに「庶民は庶民らしくしていればいい」とでも言っているようだった。
けれど、原作のナズナはその棘に気づかず──いや、気づかないようにしているのか、にこりと微笑んで応えるのだ。
「ザウスカ…さん。お久しぶりです。」
アーベルの横に立ち、令嬢としての完璧なお辞儀をするナズナ。
でも、その立ち姿は、微かに縮こまっていた。
「おや、立ち居振る舞いが随分とお上手に。プイスト家のご指導の賜物でしょうか。」
言葉こそ褒めているが、それはまるで“芸を仕込まれた犬”を称えるような調子。
「……恐縮です。」
「いえいえ、素直さは美徳です。貴女にはとてもお似合いかと。」
やんわりとした言葉遣いに隠された、明確な見下し。
そして、それを覆い隠すように、まるで哀れみを持って接することで──上下関係を明確に刻み込んでいる。
ザウスカの視線がアーベルに戻る。
私はアーベルの影に身を寄せながら、無意識に拳を握り締めていた。
その時、何か……背筋に這い寄るような生ぬるい違和感が、首筋を舐めた。
――視線だ。
嫌な気配。
何かが、どこかから私を見てる。
周囲には純白のローブを纏った人々。誰もが顔を隠していて、誰が誰かなんて分からない。
けど、ひとりだけ。
ひとりだけ。
異様な目をしている奴がいた。
まるで熱病のように潤んだ目で、笑ってもいないのに、口角だけが妙に上がっていて。
その存在感は、純白の中に血を塗りたくったように際立っていた。
赤い――いや、ローブの下からほんの一瞬見えた"制服"は……赤かった。
私の視界がその人物を捉えた瞬間、心臓がギュッと潰されたような感覚に襲われた。
呼吸が止まった。体が一瞬で冷えた。
その目の奥にあったのは――理解不能な「ナニカ」だった。
冷たくて、熱くて、歪で、殺意すら超えてる。
私の存在そのものを、じっくり溶かして楽しむつもりの、異常な視線。
アユミだった。
でも、それは“いつものアユミ”じゃなかった。
いや、たぶん“もう戻れないアユミ”だった。
一体何をしたの? どこを歩いて、何を見て、何をしたら……あんな目になるの?
私は即座に視線を外した。怖い。怖い怖い怖い。
言葉にならない恐怖が、骨の奥まで染みていく。
「……行きましょう」
アーベルと共に、その場を離れた。
ただ、あの視線だけが、背中に焼きついて離れなかった。




